人の国を統べるのは
皆が訝しげな顔をうかべる中……翠媛と劉景は目を見張り、言葉を失っていた。
『偽り』の鬼神という言葉に、人々は怪訝そうな表情を浮かべるばかり。
何が偽りだというのか。皇帝は確かに畏怖を以て今まで国を治め、その統治のもと国は平らかであるのに。
しかし、翠媛と劉景の顔は一瞬確かに強張った。
明確に悟られまいとすぐに表情を戻したものの、一瞬の変化を見逃さなかった鄒王は、更に顔を醜悪に歪めると更に叫んだ。
「皇太后から聞いた過去の様子とあまりに違うから、人を使って調べさせたのさ! 随分と骨は折れたがな!」
鄒王に捕らえられていた皇太后の顔が、目に見えて蒼褪め愕然としたものになる。
その表情には、卑劣な男に過去を話してしまったことへの心からの悔いが、ありありと表れていた。
皇太后の元で暮らしていた頃の劉景は、優しい少年だったのだろう。
花を愛し、小さな生き物を慈しみ。人の哀しみに涙し、悪意に傷つく繊細な『人間』の少年だった。権力も地位も、むしろ重荷にしかならぬと思わせる程に。
皇太后は、その頃と今のあまりの変わり様に何か思うところがあったのだろう。
そして、その心にある問いを何かの拍子に男の前で口にしてしまった。
皇太后の問いを明にした鄒王もまた、人がそうまで変わるのだろうか、という疑念を抱いたに違いない。
長じて変わることは有り得るが、あまりに劇的な変化すぎる。もしかしたらと……と。
確証を得るべく、百花の宮に息のかかったものを送り込んだのだろう。
確かに、劉景が庭の手入れをする時間は、二人きりで過ごすからとして厳重に人払いをしていた。そのうえで、劉景も獣達も。偽ることのない姿でくつろいで過ごしていたのだ。
何者も足を踏み入れぬようにと見張りをつけ、喜娘も目を光らせてくれていた。
けれど、それとて人によるもの。人のすることに完全は有り得ない。気づかぬうちに、ほんの僅かな隙が生じていたかもしれない。
鄒王の手の人間は、その僅かな隙をつくことに成功してしまったのだ。
皇太后に刃を突きつけたまま、爛々と血走った目の鄒王は、勝ち誇ったように続ける。
「間者は報告してきたよ。百花の宮の庭を手入れしているのは、庭師ではなく皇帝自らだと。その獣達とて、本当は随分と人懐っこいらしいな?」
鄒王の言葉が信じられずに、俄かにその場に居た者達がざわめきはじめる。
まさか、あの陛下が。人々に畏怖され続ける『鬼神』が。
そんなことは有り得ないと囁きながらも、人々は劉景へと視線を向ける。
明確な否定の言の葉が彼の口から紡がれることを期待している様子である。
崇め恐れてきたものが、そうではなかったなどとは信じられないといった空気が場に満ちていくのを感じる。
劉景は射殺せるのではないかと思う程に激しい眼差しで鄒王を睨めつけたまま、重く口を閉ざしたままだ。
「その男は鬼などではない! 冷酷非情な鬼神など造りもの……。ただの張りぼてだ! 本当のその男は剣を持つことを嫌い、戦うことを厭う軟弱者なのだよ!」
自棄を起こした口調で鄒王は更に叫び続けているが、劉景は険しい表情で唇を引き結んだまま。
翠媛も、蒼褪めたまま彼の様子を伺っているものの、何の言葉を紡ぐこともできない。
黙して語らぬ皇帝に、そしてそれを案ずるような様子を見せながらやはり沈黙したままの翠媛の様子に。
次第に、人々の間にある動揺がどよめきとなり、現の響きを伴い。小さな波紋が漣となるように、その場に広がっていく。
名高き『天女』の姿は偽りだった。
なら、その彼女を傍においていた皇帝の『鬼神』の姿もまた、もしかしたら。
人々の顔にある疑惑の色は、次第に濃くなっていく。皇帝が明確な反論を行わないことで、声は時を追うごとに強くなっていく。
我らは、謀られていたのかと……。
次第に広まり行く皇帝への懐疑に気を良くしたらしい鄒王は、尚も皇帝を嘲って笑う。
「姿を偽り、皆を騙すことでしか国を統べられない、花や小動物なんぞを愛する軟弱者の癖に……。我らはとんだ女々しい男を鬼神と恐れていたものだ」
心の裡を秘したまま、劉景は尚も何も言わない。尚も否定を口にしようとしない。
劉景に、黙れと一喝して否定して欲しいという空気は、やがて彼への無言の問いに変わっていく。
そうなのですか、と。
あの男のいうようにあなたは『鬼神』ではなく、ただ仮面を被っていただけなのですか。
あの男のいうように、あなたは花や小さな生き物を愛する、繊細なただの『人間』なのですかと……。
諦めとも、落胆とも。何とも形容しがたい複雑な沈黙が満ちかけた時、凛とした声がそれを破った。
「好ましいと思うものを好きといって、何がいけないのですか」
皆は一斉に声の主を――明確な意思を翡翠の瞳に宿して立つ翠媛を見る。
声にも佇まいにも、少しの揺らぎもない。欠片の疚しさも後ろめたさもない。ただ真っ直ぐにその場に立っている。
何も恥じることもないといった様子で、背筋を伸ばして胸を張り。堂々とした様子で人々の視線を受け止めながら、翠媛は続ける。
「好きな物があり嫌いな物がある。得意があり不得意がある、それでこそ人でしょう?」
自分が淑やかな女性の嗜みや振舞いを好まず、苦手として。剣を振るって戦い、戦いの中で立ち回ることを得意とするように。
劉景は剣を持つことを好まず、戦いの場を苦手として。花々を育て、小動物を慈しむことを得意とする。
ただ、それだけのことなのだ。
人であるならば、好む物事があり嫌う物事がある。得意があり不得意がある。そう、それだけのこと。
だって翠媛も、劉景も、確かに『人間』なのだから。
毅然とした面もちで少しの迷いもなく言い放たれた言葉に、鄒王は僅かにたじろいだ様子を見せた。
それはその場に集う人々も同様であって、小さな囁きが聞こえ始める。
だって、皇帝陛下は『鬼神』であられたから。皇帝陛下が人ではないから、今までこの国は。
尚も劉景が人ではないことを望み続ける声に、裡に生じた怒りにも似た非難を努めて抑えながら、翠媛は人々を見据えた。
「皇帝が人であって、何がいけないのですか」
視線を一身に集めることを恐れず、あまりにまっすぐに前を向き。確かな心を以て紡がれた言葉に人々のざわめきが止まる。
皇帝が鬼であるからこそ、この国は守られてきたのか。
確かに、国の内外が彼を恐れるからこそ守られてきた面はあると思う。
けれど、本当にこの国が平らかであったのは違う理由であると翠媛は思っている。
大きな国を統治するには、力を以てしなければ。武を以てあたらなければ守れない時もあるだろう。
人間の間に様々な思惑が渦巻く以上、畏怖を以て他を圧することとて確かに必要だろう。
けれど、それだけでは人々が笑顔で平らかに暮らせるだろうか。
おおよそ人間の心がないと言わしめるほどに冷酷非情、自らに逆らう者には欠片の慈悲もなく、容赦なく粛清するかなりの強硬な武闘派。それが『鬼神』たる劉景の評判である。
しかし畏怖を集める一方で。不正を許さず重税を課さず。血筋家柄よりも能力を重視した人事を行う面など、彼の政治能力は非常に高く評価されてもいるのだ。
自らに向く恐れを武器に、彼は人々の為の施策を行ってきた。
自らが傷つくことを厭わず作り上げた仮面をかぶりながら、彼は民を思い、民の為の政を続けてきた。それ故に無益な争いは起こらず、国は笑顔に満ちていた。
劉景が今まで紹嘉を治めてくることが叶ったのは、彼が本当は人であるからこそ。
「ここは……紹嘉という国は、多くの人が笑いあい支えあいながら暮らしていく『人』の国です。ならばその国を統べるのは情を知らぬ鬼ではなく、情を知る人間であってほしい」
彼が本当に鬼であったなら、民に笑顔はない。凍り付いた修羅の国となっていたのではないだろうか。
この国は、人が生きていく国。人ならざるものに、人の国は治められない。
だからこそ、この先も皇帝として生きていく劉景には、人であっていて欲しいと思わずにはいられない。
翠媛は真っ直ぐな翠の一対を劉景へ向けた後、言葉に困ったように唸り続ける鄒王を見据える。
「劉景が剣を取るのを厭うというなら、私が取ります。私が、劉景の剣になります」
劉景が目を見張った気配を感じた。
そう、彼が剣を握ることを望まないというのなら、翠媛が握る。翠媛が、劉景の剣となればいいのだ。
そうやって、出来ることで出来ないことを補いあいながら、生きて行きたいと思う。
偽ることなく、隠すことなく。本当の自分で、多くのものと真摯に向き合って。
「私はもう『天女』であろうと思わない。だって、劉景がそのままの私を受け入れてくれたから、私はもう自分を偽らない」
愛する故国の為にと言いながら守り続けた姿は、本当は自分の為だった。
勿論、それは嘘ではない。けれど、全てでもない。
本来の姿を見せて拒絶されるのを恐れていた。否定され、拒絶されるのが怖かった。だから、皆の望む自分であり続けようとした。
でも、もう必要ない。もう、怖くない。
偽ることのない翠媛を、確かに受け入れてくれる人がそこにいるから……。
心から湧き上がる熱い想いを確かに感じながら、翠媛は朗々と響き渡る声音で告げた。
「剣となって、私が彼を守って見せます。……愛する人を守る為に戦うのは、殿方だけの特権ではないのだから」
もう、自分を偽らない。
心の裡に確かにある自分の想いを偽りはしない。
私は、本当は優しくて繊細な劉景を、確かに愛している――。
翠媛の決意とも言える言葉に打たれたように静まり、清冽な空気に飲まれたように神妙な面持ちをしていた。
皆が信じていたものは、この場において覆ってしまった。
どうして良いかわからない。何を信じてよいのかが分からないでいる。
確かなものは何処にある、と震える面もちで人々は視線をそちらに向けていく。
そこには、か弱い女性を捕らえ人質にする卑劣な男と、真っ直ぐに対峙する皇帝の姿がある。
「偽りの『鬼神』などに、だ、誰が……」
「……ああ、その通りだ」
顔色を無くしながら呻くようにして言葉を絞り出した鄒王へ、劉景は静かに告げた。
人々が皇帝を見る眼差しに僅かな驚愕が混じる。
皇帝が、自分が『鬼神』ではないことを認めた。今までの自分の姿が偽りだったことを、認めた。
それは動揺を誘うに足ることだったというのに、不思議と人々は静かである。
皇帝の言葉を待つように皆が沈黙する中、劉景は口元に僅かな苦笑を浮かべながら言葉を紡いでいく。
「俺は、お前のいうところの軟弱者であるらしい。剣を持つことは好まない。武器を持ち争うよりも、庭で花と小動物を慈しむほうが好きだ」
どんな形であれ、誰かと争うこと自体を好まない。誰かに上から命じることも、本当は好きではない。
肩の荷が下りたとでもいうように穏やかな表情で言う皇帝の表情には、どこにも『鬼神』の面影はない。
そこに居るのは、確かに情を持つ人間たる統治者――人々と同じ、心持つ人間だ。
呆然としたような表情の中、集う者達の間に満ちる空気には、少しずつ不思議に温かなものが入り交じりつつあった。
「劉景……」
「翠媛が己をもう偽らないというのなら、俺も偽りを捨てる。……愛する女が本当の自分で戦うと決めたというのに、自分だけは偽りに縋るのは情けない」
人々はもはや騒めくことはなかった。穏やかな人間たることを宣言する皇帝の姿を、静かな眼差しで見つめている。
翠媛は、思わず目を瞬いたまま、言葉を失ってしまった。
劉景の言葉が己の決意を語ってくれたことが嬉しいけれど、その言葉の意味するところを理解すると思わず口元を押さえてしまう。
頬が熱を帯びているような気がするのは、多分気のせいではない。
だって、今劉景は。翠媛を愛する女だと言ってくれたのだ。
自分達の間にある想いが、確かに互いを向いているのだと分かってしまって、嬉しいのと同時に恥じらいがあって。
そっと伺うように向けた翡翠の一対に、同じ様に少しの恥じらいを含んだ黒曜石の一対が確かに向けられる。
何を告げようかと迷う翠媛だったが、不意に無粋な叫び声が耳に飛び込んできた。
「ち、茶番だ! 偽っていた者同士、仲良くあの世へ行け!」
翠媛と劉景がそちらを見ると、もはや陳腐な小者になり果てた鄒王が唾を飛ばしながら喚き散らしている。
解決しなければいけないことは、あと一つ。
心の中で思案し一つ息を吐くと、翠媛は少しの皮肉を込めて笑って見せた。
殊更大仰に肩を竦める翠媛は、鄒王に向き直る前の刹那、劉景と視線を交錯させた。
「行動が単調すぎます。それではただの下っ端悪役のほうがまだ賢いかと」
いっそ無邪気なまでに翠媛の口から紡がれたのは、明確な鄒王への駄目だしだ。
突然相手を挑発するような言動を始めた翠媛を見て、劉景は確かにその意図を察してくれたらしい。
無言のままで頷くと、翠媛を制止することなく無言のまま事の成り行きを見守っている。
「私の次は皇太后様。先程からやっていることは、人質を盾に好き勝手に喚くだけ」
最初は何を言われたのか理解出来ない様子で間抜けた面を晒していた鄒王だったが、やがて茹でられたように顔中を赤く染める。
言い返してやりたいが、怒りと興奮が際に達しすぎて言葉として出てこないらしい。
それを見ながら、翠媛は殊更朗らかに笑って見せた。
「この、生意気な……! たかだか辺境の蛮族風情が……!」
「語彙も乏しい。女性を人質に取るしか考えが浮かばない、自分の発想の乏しさを少しは恥じたらどうでしょうか?」
重ねに重ねた駄目出しを聞いて。わなわなと震えながら、鄒王は全力を以て翠媛を睨みつけている。
怒りが頂点に達しているあの男の注意は、確かに翠媛にのみ向けられている。
水面下で動いてくれている気配を感じながら、もう一押しと翠媛は心に呟く。
「貴方は、つくづく卑怯な臆病者なのですね」
「き、貴様……っ!」
大それたことを為せると思う程度には自信も矜持もあっただろうが、もはやそれらの影は微塵もない。
微笑みと共に告げられた言葉に激高した鄒王の注意は、翠媛以外にはもう向けられていない。
翠媛の挑発に応じて、皇太后に突きつけていた剣を鄒王が翠媛へ向けて振りかざした瞬間だった。
聞くに堪えない男の絶叫が、その場に響き渡る。
人々が一瞬呆気にとられ、次いで我に返った時には。鄒王は血飛沫をあげながら転げまわっている。
傍らには剣を持ったままの人の手を加えて唸り続ける黒獣の姿がある。
人々は漸く、鄒王の刃が皇太后から逸れた刹那を狙って。地面から湧き上がるように現れた獣が、剣を持った腕を食いちぎったのだと気付いた。
毒でも口にしてしまったとでもいうように、獣はくわえていた腕を吐き捨てた。
苦痛に喚き散らしながら転げていた鄒王は、せめもの悪あがきにと、残る片腕で皇太后を抑えつけようとした。
だが……その手は虚しく空を切る。
鄒王に襲い掛かった獣は一頭。
皇帝が異能で従える獣は、一対――すなわち二頭いるのだ。ならば、残る一頭は何処?
その問いに対する答えは、すぐに明らかになる。
男が先程まで捕らえ人質としていた皇太后の姿は、もう鄒王の周囲に影すら無かった。
一頭が鄒王を抑えつけている間に、黒獣の片割れが背に載せて安全な場所へと運んでいたのだ。
駆け寄った侍女や兵士たちに守られ、もはや鄒王には手の届かない場所に移されてしまっている。
「すまんな……。よくやった」
獣に人を害させてしまったのを詫びるように頭を撫で、労いの言葉をかける。
少し不満げだった片割れを慰めるように残りの一頭も身体を摺り寄せて、翠媛も撫でてやってようやく獣は機嫌を直した様子である。
皇太后が無事であることを見て安堵したように息を吐いた後、劉景は声を張り上げた。
「賊どもを速やかに、一人残らず捕らえろ!」
それは、堂々たる威厳を備えた『人』の皇帝の命令だった。
狼狽えて事の次第を見守るしか出来ていなかった兵士たちは、打たれたように背筋を伸ばすと毅然とした面もちで諾を叫ぶ。
そしてもはや烏合の衆と化した反徒たちを的確に無力化し、見るも鮮やかな流れで捕らえていく。
確かな声音で告げられた命令に従う彼らに、今はもう揺らぎも迷いもない。
やがて賊は、首謀者たる鄒王を含めて一人として逃さず捕らえられ。
花見の宴において起きた騒ぎは、数々の波乱と、大きな変化を以て終焉を迎えることとなった。
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