偽りを捨てる時
「翠媛!」
「翠媛様……!」
劉景の強い危機感を帯びた叫びと、喜娘の悲痛な悲鳴が響いたと思えば、場の空気が凍り付く。
何時の間にか回りこんでいたらしい敵の一人が、翠媛を捕らえている。
翠媛の細い喉には、賊の腕が締め付けるように回されていた。
息を思うようにできない苦しさに顔を顰めながら、翠媛は悔いた。
劉景の様子に気を取られすぎて、後ろから密かに忍び寄っていた気配に気づけなかった。迂闊、と自らを責めても今更遅い。
恐怖よりも自分への憤りに顔色を無くして視線を向けると、邪悪としか思えない笑みを浮かべた鄒王と目があった。
してやったり、と卑劣な男の表情は言っている。
あの男は、奇襲に成功したはずが思いがけず苦戦し始めたことで新たな手を打ったのだろう。
人質をとり、皇帝の動きを封じると言う手を。
それならば、誰を質にとる? 手あたり次第を取ろうとしても意味がない。むしろ、動きにくくなるだけ。
では、この場において皇帝に対する人質として、最も価値があるとすれば。
それは、不仲であるとされる皇太后でもなく、省みられることなき妃たちでもなく――皇帝の寵愛を唯一受けている寵姫たる天女である、と鄒王は判断したようだ。
混乱に乗じて密かに翠媛に忍び寄り、人質にせよと命じ。見事にそれは為ってしまったというわけだ。
背を取られるなんて、と口惜しさを感じても後の祭り。
「さて、天女殿はわが手に落ちました。手にお持ちの得物を捨てて頂けなければ……お分かりですね?」
余裕綽綽といった風な鄒王の言葉に応じるように、翠媛の前に刃が翳される。
翠媛に突きつけられた剣を見て、震えていた妃嬪や宮女達が声にならない悲鳴をあげた。
身動きを封じられ唇を噛みしめながら見つめた先に、蒼褪めた劉景が立ち尽くしている。
善戦し始めていた警備兵達も、どうすれば良いのかと皇帝を伺うように動きが鈍り始めている。
翠媛の心に強い焦りが生じる。
このままでいるわけにはいかない。
翠媛が人質に取られてしまったせいで、劉景も、周囲の兵士たちも動きを止めざるを得なくなっている。
このまま翠媛が捕らえられていたままでは、彼らは戦えない。すぐにでも、この戒めを抜け出さなくてはと思う。
実際の処、不意打ちで優勢に立っただけであって、敵の練度はそう高いとは思えない。
動きが荒く、連携も今一つ洗練されていない。恐らくかき集めた烏合の衆ではあると思う。
翠媛を捕らえる賊にしても、そう手練れというわけではない、構えに隙が多い。本来の翠媛であれば、負ける気はしない。
ただ、それは『本来の』翠媛であれば、だ。
けれど、ここには大勢の人の目がある。
集った大勢の妃嬪達、護衛たち。襲撃してきた賊達。逃げ惑い、入り乱れ戦っていた者達の目が、今は対峙する皇帝と鄒王、そして捕らえられた翠媛に向いている。
翠媛は、瑞から捧げられた名高き『天女』。
作り上げた姿を守り続ける為、人のある所では『天女』でいなければならない。『天女』は間違っても敵を叩き伏せ、勇ましく剣を振り回したりなどしない。
でも、それならば。このまま、翠媛が人質であり続ければどうなる?
翠媛が捕らわれたままでは、劉景が動けない。敵は翠媛を盾に更なる要求を突きつけ、状況は更に不利になるだろう。
かといって、劉景は翠媛を見捨てることもできない。
仮に鬼に徹して翠媛の存在を切り捨てたとしても、きっと彼の心は傷つき壊れてしまう。
このままでは、翠媛が作り物であり続ければ。
翠媛の裡に柔らかな響きを伴う記憶がよみがえったのは、首を絞めつける忌まわしい腕に唇を噛みしめながら、焦りが際に達した瞬間だった。
『お前はそのままの方がいい。天女より人間である方がよほど好ましい』
胸に温かな灯火を与えるのは、あの夜劉景が伝えてくれた言葉だった。
二人だけの小さな世界で。優しい笑みと共に彼の口から紡がれた言葉に呼び起こされるように、翠媛の裡から熱いものが湧き上がってくる。
本当の翠媛は、皆が望む通りではない。皆がそう在れと翠媛に望むような、嫋やかで淑やかな『天女』の姿とはかけ離れている。
隠すことなく本来の自分を見せたなら、皆に眉をひそめて謗られるかもしれない。
躊躇いがないと言えば嘘になる。
けれど、それを打ち消すほどに強い想いが翠媛を満たしていく。
それでも構わない。私は、劉景が伝えてくれたあの言葉を信じている。
飾ることもない、作ることもない本当の私を。他の誰が顔をしかめたとしても、劉景は受け入れてくれている。
だから、もう、迷わない――!
何かがひび割れ砕け散る、甲高い音が聞こえた気がした。
緊張が続く場において、視線を集め続けている翠媛は一つ息を吐いた後。
目の前に翳された刃を、目を見張ってまじまじと見つめた。そして。
「ありがとう」
「は……?」
朗らかな微笑みを浮かべて、一言告げた。
目を丸くした男は、次の瞬間苦悶の呻き声をあげて倒れ伏した。
恐らく、何が起こったのか理解することも出来ずに意識を失っただろう。
男の手を逃れた翠媛は、振り返りざまに手刀にて相手の右手を打ち据えた。
取り落としかけた剣を素早く奪うと、まったく隙のない構えで敵と対峙する。
やはり何が起きたか理解出来ていない様子だった一番手近な男の剣を一瞬にして距離を詰め、甲高い音と共に弾き飛ばし。
くるりと身を翻して、呆気にとられて固まっている別の男の剣も瞬く間に弾き飛ばした。
更には次、また次と……。
視界の端に、頭を抱えている喜娘の姿が過ぎった気がする。
そして、事の成り行きについていけない男達は手痛い一撃が見舞われ、呻き声をあげながら糸が切れたように崩れていく。
その場の誰もが、何が起こったのかを理解できなかった。理解することを、拒否していたのかもしれない。
皆が我に返った頃には、油断なく賊から奪った剣を構えて立つ翠媛と、その周囲に倒れふす男達の姿があった。
「莉、修儀……?」
いつも淡々として冷静さを失わない楊徳妃が、唖然とした表情で掠れた声をあげた。
呆気に取られている間に、人質を捕らえて窮地に陥った筈の状況は一変していたからだ。
淑妃に至っては、目を見開いて完全に硬直してしまっている。
その場の誰もが目で口ほどに訴えていた。何がおきたのだ、と。
まさか、妃嬪が。それも淑やかで嫋やかな『天女』と名高い女性が。
強烈な……鋭く弱い部分をついた肘鉄を喰らわせて自ら捕らわれの身から脱して、敵を叩きのめすなんて予想だにしなかった、と表情が言っている。
誰もが凍り付いてしまっている場の真ん中で、翠媛は朗らかなまでに笑った。
「どこから剣を調達しようか迷っていたのです。持ってきてくれて助かりました」
いえ、渡す為に持っていたわけではないと思います……と喜娘が天を仰いでいるのは、見なかったことにした。
長い間築き上げてきたものを叩き壊す真似をしてのけたというのに、心は不思議なほど晴れやかだ。
まるで扇をあやつるように軽やかに剣を振り回して見せながら、翠媛は一つ不満げに息を吐く。
「自分の剣ではないから、少しばかり勝手が悪いけれど。贅沢は言えないわ」
先程まであれ程混迷を極め、阿鼻叫喚の戦いの場であったはずの御苑は、すっかり奇妙なまでに静まり返っている。
敵も味方も、信じられないものを見たという様子で固まってしまっているのだ。
翠媛は、刃の先をひきつった表情で動きを止めてしまった敵へと向けて尚も言う。
「それなりに訓練は受けたようだけれど。不意をつかれて全く対応できていないから、もっと柔軟に対処できないと駄目ですね」
いや、普通は想像しない。その場にいる敵・味方全ての心の声が一致した瞬間だった。
誰が人質にとった相手が、突然反撃してきたかと思えば、嬉々として武器を奪って戦い出すと思うのか。
小柄で華奢に見える女が、重たげに見える衣を軽やかに翻しながら、舞うように剣を振るい。武器を手にした大の男達を次々、しかも的確に無力化していくなんて予想するのか。
「剣をつきつけられたぐらいで怯えるような柔な育ちではないのです。それぐらいなら、発情期の鹿の群れに追いかけ回された時のほうが余程死ぬかと思いました」
翠媛は、肩を竦めながらあっけらかんとした口調で言った。
瑞とはどんな国なのか、と呻き声が聞こえた気がするが、気にしない。
だって、本当にその時のほうが思い出しても背筋が凍るし、冷や汗が出るのだから仕方ないではないか。
しみじみと言う様子には、もう先程まで見せていた淑やかさや、楚々とした様子は見られない。
「……あれが、瑞の、天女……?」
鄒王が先程まで見せていた余裕を完全に失っている。信じられない、と全身で訴えているような、愕然とした面もちで呻くように呟く。
そう、これが翠媛である。
天女であると信じてくれていた者達を裏切ったのは申し訳ないと思うけれど、これが本当の翠媛な――偽らざる、本当の自分なのだ。
その時、不意に誰かが噴き出した。
「相手が悪かったな」
それは、劉景だった。
人々は、次は違う意味でまた声なき悲鳴をあげ、凍り付いた。
おおよそ人の前で笑顔を見せたことのない皇帝が、笑っている。愉快そうに、口元に笑みを刻んでいる。
有り得ないことに次ぐ有り得ないことに、人々の困惑はもうこれ以上ないという程に際にあった。
「この場において、最も選んではならない相手を人質にとったのが、お前の不運だな」
劉景は、鄒王へと不敵なまでの笑みを浮かべながら告げる。
言葉の中に、揺らぐことのない翠媛への信頼を滲ませながら。
「お前が人質にしようとしたのは。この場において最も強き剣だ」
その言葉を契機として、弾かれたように翠媛が地を蹴り、放たれた矢のように賊へと向かっていく。
皇帝の言葉が嘘だと笑えない程に、翠媛の動きは洗練され、一分の隙もなかった。
的確に急所を突き、ほぼ一撃で相手を無力化する。
絹団扇より重いものなど持ったことがなく、物騒な武器などちらりと見ただけで気絶する深窓の姫であるはずだった。
笑えば花々が一斉に開き、手や足を動かせば花弁が舞う、などの数々の麗しい噂の絶えない『瑞の天女』……であるはずだった。
ところがどうだろう。
この『天女』は重い剣を軽々と片手で鮮やかな軌跡を描いて振り回し、舞うように敵を倒していく。
慎ましく微笑んでいた時とはうってかわって、目を輝かせ活き活きとした様子で、足並み崩れ始めた賊へと切り込んでいく。
相手の心の声が現の音を伴ったとしたら、こう聞こえただろう――話が違う、と。
「この機を逃すな! 賊を捕らえよ! 一人として逃がすな!」
唖然と事を見守ってしまっていた味方の護衛達も、皇帝の檄に我に返り反徒たちへの攻撃を再開する。
相手は、既に寄せ集めの烏合の衆に戻りつつあった。
不意を打ったはずが今や右往左往するのは賊達のほうであり、それを兵達は速やかに追い詰めていく。
再び始まった戦いの中で、翠媛と劉景は、互いに背中を預けながら向かい来る敵と切り結んだ。
刃と刃を交える戦いの中だというのに、二人の口元から笑みが消えることはなかった。
だって、背に感じるのは、世に置いて最も頼もしく思う存在だから。
最も信じられる、大切な存在が自分を守ってくれているのを感じるから。
何も恐れることはないのだと、伝えてくれるから……。
怯えて膝をついてしまっていた妃嬪達の瞳に、徐々に憧憬にも似た不思議な光が宿り始める。
その場にいた誰もが、完全に戦況は覆ったと思った。
卑劣な男の企みは潰えた、と。
しかし、それを裏切るように甲高い女性の悲鳴が宙を切り裂いた。
再度、戦っていた者達の動きが止まる。
翠媛と劉景もまた、それぞれ剣を合わせていた相手を叩き伏せた直後手を止める。
思わず表情を強ばらせ、目を見張りながら声のした方を見てしまう。
だって、あがった悲鳴が……聞いた覚えのある女性の声だったから。
劉景もまた身を強ばらせてそちらを見ている。彼の口から、無意識に唸るような呻き声が漏れている。
その場の多くの視線を集めながらそこにあったのは――皇太后を捕らえ剣を突きつける鄒王の姿だった。
「皇太后様……!」
「剣を捨てろ! 皇太后がどうなってもいいのか!」
翠媛は、悲鳴にも似た声をあげてしまう。
もはや先程までの飄々とした優男の姿も余裕もない。取り繕うことを完全に捨ててしまった形相で、鄒王は三流悪役のような台詞を喚き散らした。
今人質に取られているのは皇太后である。正真正銘か弱い女性であり、先程のような予想外の逆転劇は有り得ない。
戒められている皇太后は苦しげではあるが、今の処髪や衣服に乱れがあるだけで怪我は見られない。
しかし、安心していられない。鄒王の目は完全に血走り、何をしでかすかわからない程に追い詰められている。
「愚かな真似を!」
地の底から響いているのではないか、と錯覚するほど低く、そして重々しい声音で劉景は一喝した。
聞いていた人々は自分に叫ばれたわけではないというのに、咄嗟に悲鳴をあげている。
翠媛も思わず顔を引き締めてしまう程の圧を感じたというのに、鄒王は狂気じみた表情をするばかり。
不気味に笑っていた鄒王は、やがてけたたましく笑いながら叫んだ。
「幾らでも吼えるがいいさ、偽りの鬼神め!」
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