後編

 放課後を目前に控えたHRの時間。学校からの解放を待ち望むクラスメイトたちによって、教室は浮き足立っていた。先生もその無言の圧に促されるように手短に連絡事項を述べる。


 わたしだけが教室で沈んだ心を抱えていた。


 藍の絵がわたしの絵そっくりになってしまったこと。それは気のせいではなかった。同じような絵が連日あげられた。


 美術室で何度も藍に尋ねようと思った。けれど、肯定されることが怖くて、白黒はっきりさせることが怖くて聞けなかった。だって、事実がもしその通りであるなら、わたしは藍を到底許せない。


 藍はわたしが大好きな彼女の絵を捨て去って、わたしが頑張って作り上げてきた絵を得体の知れない人工知能に食べさせて、吐き出させて、それを自分の絵として発表しているのだ。そんなことが発覚したら、わたしはおそらく今と同じように藍と仲良くすることはできない。隣で絵を描くことはできない。


 かけがえのない時間が失われることが怖くて、真実を明らかにすることから逃げていた。

 けれど、そうも言ってられなくなった。変貌した藍の絵には今まで以上に多くの反応が寄せられるようになった。それは、初めは好意的な反応ばかりだったけれど、すぐに否定的な言葉がリプ欄を埋め尽くした。

 

 これAIじゃん。ふざけるな。

 

 ていうか元にしてるの神無さんの絵じゃね?

 

 神無さんの絵を盗むな

 

 そんなリプライが毎日のように寄せられていた。それでも彼女は絵をあげるのを辞めなかった。だから、否定的な意見は収まるどころか激化して、軽い炎上のような状態になっていた。


 わたしの所にも何件か、フォロワーからDMが送られてきた。

「神無さんの絵パクられてますよ」

「神無さんこの人やばくないですか?」

「一度注意喚起して、aiさんと話をつけた方がいいんじゃないですか?」


 事態はとっくに静観できる域を超えていた。

 

 それに、このままでは藍の絵描きとしての人生が本当に終わってしまいかねない。それが一番の心配だった。こんな状態になってもわたしはまだ藍の絵に対しての期待を捨てることができない。もう一度、いや何度でもわたしは藍の絵が見たかった。

 以前の、藍の絵が見たかった。


 藍を元に戻す。そのために、必要なこと。


 やっぱり、彼女とちゃんと話をしよう。

 

 そんな風に決意をする。

 

 わたしの決意を後押しするようにチャイムが鳴って、先生がホームルームの終わりを告げる。日直のかけ声にあわせて起立と礼をして、放課後が訪れた。

 

 わたしは鞄を持って教室を飛び出す。

 

 すると教室の前で、もう既に藍が待っていた。

 

 視線と視線がぶつかる。しばらく二人で、無言で見つめあっていた。藍の表情はいつもと何も変わらなくて、柔らかで、そのことが怖かった。わたしの方がまるで後ろめたいことがあるみたいに、逃げるように彼女から視線を逸らした。


「いこっか」


 わたしは絞り出すようにしてそう言った。藍は無言で首を縦に振った。

 

 放課後の喧騒が反響する廊下を歩いて、人の流れに逆らうように階段を上って、また廊下を歩いて、美術室へとたどり着く。

 

 わたしは無言でドアを開ける。軋んだ音と共に、いつもの、油と絵の具が入り混じった匂いが鼻腔を刺激する。

 

 いつもの長机の前に座ったわたしは同じく隣に腰掛けた彼女の方へと身体を向けた。


 そして、決意や勇気が萎えないうちに言葉を発した。


「この前見せてくれた、AIのサイト見せてくれる?」

 

 一瞬、時が止まる。藍は、わたしの言葉に大きく息を吐いて、それから、諦めたように笑った。


 彼女はタブレットを取り出して、いくつかの操作をして、わたしの方にそれを差し出す。


 そこには以前と同じ画面が表示されていた。ただ、一つだけ違うのは、画面を埋め尽くしている絵が彼女の絵ではなく、全てわたしの絵であること。

 

 わたしは言葉に詰まった。覚悟していても、実際に目の前にするとそれはショッキングな映像だった。


「どうしてこんなことしたの」


 そんな言葉を絞り出すのがやっとだった。


 沈黙が場を包む。他の部活の喧騒は聞こえず、それは歴とした沈黙だった。五分も十分も、時間の間隔がわからなくなるくらい長い間、わたしたちはそのままでいた。先ほどの笑顔は消え失せて、藍はずっと俯いたままだった。


 やがて、彼女はおもむろに、その沈黙を破った。


「ごめんなさい。本当にしたらいけないことをしてしまったと思っている。けどね」

 

 彼女はそこでまた口を閉ざした。手をぎゅっと強く握りしめていた。まるで、わたしを傷つけるための心の準備をするみたいに。

 

 そして実際に、わたしの心は切り裂かれた。


「かんなちゃんにはわからないよ」


 その言葉は耳鳴りのように響いた。そんな衝撃を、こじ開けるようにして、彼女の言葉がなだれ込んできた。


「かんなちゃんにはわからないよ。だってかんなちゃんは天才なんだもん。かんなちゃんの絵はかわいくて明るくて見るだけで幸せになって。そりゃ人気でるよ。俗に言う神絵師ってやつだよ。私の何倍もいいねもリツイートももらえるよ。かんなちゃんは知らないでしょ? 私がどれだけかんなちゃんの絵が好きで、私がどれだけ憧れていたか。かんなちゃんはわからないでしょ? 自分の大好きな友達の、大好きな絵に嫉妬することの惨めさが。惨めで辛くて苦しくて、何度も絵をやめようと思った。けれどやめられなかった。だってやめたらかんなちゃんと絵を描く時間がなくなっちゃうから。この美術室での時間がなくなっちゃうから。かんなちゃんとの接点がなくなっちゃうから。だからわたしは少しでも、かんなちゃんに近づけるように、自分なりのやり方で絵と向き合い続けてきた。けれど、才能も、これから先の時間も限界が見えて、それでもかんなちゃんとの唯一の繋がりである絵は捨てられなくて、それでAIに手を出したの。これがあれば就職しても絵をやめないで済む、ずっとかんなちゃんと繋がっていられるって、そう思ったの」

 

 美術室は空洞になったみたいだった。その空洞に彼女の声だけが響いていた。わたしの胸に彼女の声だけが響いていた。

 

 彼女の言葉は止むことがなかった。いつの間にか、俯いていたはずの顔は、こちらを見つめていて、けれどその目は虚ろだった。藍の瞳の中にわたしはいなかった。トレードマークのおさげが、激しく、悲し気に揺れていた。


「初めは、かんなちゃんに見せたみたいに、あくまで私の絵だけを学習させて、それを元に絵を作っていたの。シチュエーションを指定して、後は微調整を加えるだけで絵が完成して、これがあればずっと絵を描き続けられると思った。それだけで満足だった。けれど、その満足は長く続かなかった。だって当たり前だよね。私は今まで、自分の描いた絵に満足したことなんて一度もなかったんだから。それで私の絵だけを元に新たな絵を作っても満足のいくものなんてできるわけがなかった。そのうちに、私の中にある欲求が湧いてきた。かんなちゃんの絵に少しでも近づきたい。近づけたいって。それはずっと抱え続けてきた憧れだった。私の手元にはその憧れを体現するための手段があった。あってしまった。初めは一枚だけだった。一枚だけ私の絵の中に混ぜて出力した。けれどそれじゃ到底足りなかった。かんなちゃんの絵を感じられる部分以外が、私の絵が構成している部分が全部邪魔に感じて、かんなちゃんの絵を一枚ずつ、私の絵と置き換えて、出力して、やっと満足のいく絵ができた。その時にはもう、私の絵はAIの中に一枚も残ってなかった。かんなちゃんの絵だけが画面を埋め尽くしていた。気づいた時には、私はかんなちゃんの絵を盗んでいた」

 

 そこで藍は深くうなだれるように頭を下げて、言葉を止めた。最後まで藍はわたしのことを見なかった。

 

 再び沈黙が走った。やっと部活が始まったのか、運動部のかけ声や吹奏楽部の楽器の音が教室に飛び込んできた。

 けれど、鉛筆の音は聞こえない。わたしの愛した音だけが、どこにもない。わたしは力のない声で呟いた。


「なんで、なんでよ。わたしの絵なんてただの二次創作で、いいねとかが多いのだって前に作者の人にたまたまリツイートしてもらえて、たったそれだけのことなのに」

 

 わたしの言葉に彼女は頭を下げたまま首を振った。おさげが呼応するように揺れた。


「ううん。そんなことない。かんなちゃんの絵はすごいよ。かんなちゃんならたとえ、そんなラッキーなかったとしても、私みたいにオリジナルキャラばっかり描いてても今と同じくらい人気になったと思うよ。だってかんなちゃんは天才だから。私なんかとは違って」


 それは嫌味でもなく、まるで事実を淡々と告げるように。


 彼女の言葉にもさっきまでの勢いはもうなかった。けれど、その言葉がわたしの胸を強く叩いた。頭が沸騰するように熱かった。それは怒りだった。今にも溢れ出しそうな熱が言葉となって口をついて出た。


「なんでそんなこと言うの。わたしが一番好きなのは藍の絵なのに」


 それはたった一つの本音だった。


 わたしの言葉に藍は顔をあげた。視線と視線がぶつかった。やっと、彼女の瞳の中に、わたしが写った。

 わたしは彼女の視線を逃さないようにじっと見つめる。彼女の瞳が揺れる。その瞳の輝きに吸い込まれるように言葉が溢れ出した。


「わたしの絵が盗まれたどうこうはこの際どうでもいいよ。わたしはね。わたしの絵を無断で使われたこと以上に、藍が藍の絵を捨てたことに怒ってるの。だって藍の方こそ知らないでしょ。わたしがどれだけ藍の絵が好きか、藍の絵に対して向き合う姿勢を尊敬していたか。そんな藍の横で一緒に絵を描ける時間がどれだけ幸せだったか、楽しかったか。どれだけその時間が大事で、かけがえのないものだったか。わたしが一番好きなのはね、自分の絵でも、もちろん他の誰の絵でもなくて藍の絵なの。だから、わたしは怒ってるの。わたしが世界で一番愛している絵をぞんざいに扱われたことに怒ってるの」

 

 言葉を吐き出しながら、涙が溢れて止まらなくなった。途中からは自分でも自分の言葉がちゃんとした音になってないことがわかった。それでも言葉は止まらなかった。それはわたしの全てだった。彼女の絵に対しての想いが、彼女と過ごす時間に対しての想いが、わたしの全て。

 

 わたしは溢れ出す涙を拭った。すると、鮮明になった視界の中で、彼女も涙を流していた。彼女の絵のように繊細で綺麗な涙だった。

 それを見た瞬間、また新たな涙が溢れ出て、さっきよりも強い勢いで流れ出した。

 

 美術室にはわたしと彼女の泣き声と嗚咽だけが響いている。それはいつまでたっても止まらなかった。いつまでも、こうして二人でいられる気がした。


 泣いてぼろぼろになりながら、気づいた。わたしは藍の絵と同じくらい、この場所が好きなんだって。藍と過ごす時間が、永遠に続いて欲しいくらい、大好きなんだって。


 それでも、いずれ終わりの時は来る。


 わたしたちはどちらからともなく泣き止んで、お互いに目を見合わせた。彼女の目は真っ赤に充血していて、鼻水が涙と混ざって顔を濡らしていた。


「藍、ひどい顔してるよ」

 

 カバンからポケットティッシュを取り出して彼女の顔を拭いてあげる。


「かんなちゃんこそ」

 

 藍もそう言ってわたしの顔を拭いてくれた。

 

 そして、二人で少しだけマシになった顔を突き合わせて、どちらからともなく笑い出した。

 笑いは、引き伸ばされたみたいに終わらなかった。そんな笑いの隙間からまた涙が溢れた。


 やがて、それも終わった。彼女はふと、我に帰ったような顔をして、それからいつもの穏やかな表情を浮かべて言った。


「今回のことは本当にごめん。後、さっきも、ひどいことを言ってごめん。私がしたことは到底許されないことだと思う。それに何より、私が私を許せない。だから、絵を描くのはもうやめるよ」

  

 彼女はカバンを持って立ち上がった。わたしは思わず、彼女の制服の裾を掴んだ。


「嫌だ。いかないでよ。藍はずっとここにいてよ。ずっと、わたしの側にいてよ」

 

 藍は裾を掴むわたしの右手を優しく撫でた。彼女の柔らかな体温がわたしに伝った。


 彼女はゆっくりと口を開いた。


「かんなちゃん、ごめんね。それと、ありがとう」

 

 そう言って藍はわたしの右手をぎゅっと握った。まるで、願いを込めるみたいに。小さな手で、力強く。彼女の体温は柔らかくて、優しかった。


 それから、藍はわたしの手を優しく振り解いて踵を返した。

 

 彼女が振り返ることはなかった。建て付けの悪いドアが軋みながらゆっくりと閉められた。

 

 わたしだけが美術室に置き去りにされた。馴染み深い音と匂いが充満する教室で、幸せな日々の残滓が辺りを彷徨っていた。それに触れて、わたしは一人で静かに泣いた。

 

 その後、わたしの隣に彼女が座ることは二度となかった。

 

            ◇


 大学に進学しても、わたしは絵を描き続けた。二次創作ではなく、藍のように自らが生み出したキャラクターを描き続けた。反応はかなり減ったけれど、そんなことは関係なかった。陰で「オワコン」や「クリエイター気取り」と言われても、何も気にならなかった。とにかく何枚も描き続けた。


 AIを受け入れるのか否か。ネットでは未だに議論が絶えないけど、わたしにはどうでもいい。ただ、一心不乱に大好きだった藍の絵を思い浮かべながら、描き続けた。

 

 そして、大学卒業後、わたしはイラストレーターになった。


 わたしは彼女のように背景や影の一つまで緻密にこだわって絵を描いた。もちろん、まるっきり彼女と同じようにはできなかったけれど、少しでも彼女の絵と同じ魂が宿るように、そんな願いを込めて描き続けた。そうすることで、彼女の絵が素晴らしいものだったことを証明したかった。彼女の絵に少しでも近づきたかった。彼女の絵に触れ続けていたかった。自分の周りの世界だけでも、藍色に染め上げたかった。

 

 そうして、今日も一枚の絵を描き終えた。夕暮れのオレンジに包まれた美術室で二人の女子生徒が絵を描いている絵。初めて出会った時の藍の絵を思い返しながら描いた絵。わたしたちの、青春もそこに重ね合わせながら。

 

 それは人生で一番大切な思い出の一部だった。わたしは時折、思い出をなぞるように記憶の中にある藍の絵を描いた。

 

 その完成した絵を惰性でツイッターに投稿する。

 

 程なくして、沢山の反応がわたしのスマホを賑わす。昔は、そんな風に反応を貰えるだけで嬉しかった。けれど今は、何も感じない。わたしはそれを無感動で眺めていた。

 

 すると、そんな通知の隙間を縫うように、一件のDMが届いた。わたしはなんの気なしにそれを開いた。


「素敵な絵ですね」

 

 そんな簡素な文章だった。送り主の名前も今時のネットユーザーには珍しくシンプルなもので。

 画面に表示されていたのは「ai」の二文字。


 わたしは思わず目を見開いた。何度、瞬きをしてもその名前はどこにも消えなかった。そのたった二文字がわたしの胸を痛いくらいに震わした。

 

 あの時の涙の続きが頬を柔らかに撫でた。

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藍色に染め上げて 無銘 @caferatetoicigo

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