中編

 いつものように、美術室の長机を前にして、カバンからタブレットを取り出す。すると、手に紙の感触が触れる。それは、進路調査の紙だった。

 三年生になった途端、急に進路が現実味を帯びてくる。わたしは、隣に座る藍の様子を窺う。


「藍は進路ってもう決めた?」

「うん。って言っても決まっているのは就職するってことくらいで、どんな職種とかはまだ全然、考えていないけど」


 当たり前のように、淡々と、藍は答える。


 けれどわたしにとって、その返答は予想外だった。勝手に藍もわたしと同じように大学受験をすると思っていたし、あわよくば同じ大学に行けたらいいな、なんて考えていたから。


 そもそも就職という選択すら頭になかった。けれど、そういえば、進学コースと違って普通コースは就職という進路を選ぶ生徒の数もそれなりにいると聞くので藍がその選択をすることは何もおかしいことではない。ただ、あまりにも一緒の時間を積み重ねすぎて、無意識にこれから先もわたしと藍は同じ道を歩むと思っていただけで。


「そうなんだ」

「うん。うちは兄弟も多いし、経済的なことを考えるとね。それに、特にやりたいこともないし」

「絵は?」

「……絵は、趣味だよ。これからも続けると思うけど、仕事にできるほど、わたし上手くないし」


 そんなことない! って言いたかった。わたしの大好きな絵は通用するって叫びたかった。けれど、多分藍の言葉は自分自身を納得させるための言葉でもあって。家庭の事情という現実を受け入れ、自身の進路を見つめる藍に、わたしの幼さを差し出すことは、却って残酷だと思った。

 

 だからわたしは本音をそっと閉じ込めて、物わかりの良い言葉を並べる。


「そっか。わたしは多分受験することになるけれど、今と変わらず仲良くしてね。休みの日とかは遊ぼうね」


 気まずい空気にならないように。そしてなによりも藍との別れに落ち込んでしまいそうな自分自身を元気づけるために、明るい調子でそう言った。


「そうだね」


 藍は微笑んで頷いた。それに少し救われた。


 そんなやりとりの後、作業が始まった。

いつも通りの時間。グラウンドの喧騒や混ざり合う楽器の音。絵に入り込むことができない。先ほどのやり取りがぐるぐると頭を回る。


 藍が就職する事。それはもう今のように長い時間二人でいることはできないということ。それがただただ物悲しく、寂しかった。この時間が永遠じゃないという、現実を思い知らされた。


 そして、懸念点がもう一つ。それは、藍は絵を描き続けるのだろうか、ということ。


 藍の絵は緻密に描かれているが故に、一枚一枚にかなりの時間が割かれている。毎日放課後に作業している今でさえ、一週間で一枚描けるかどうかというペースだ。それが、就職したらどうなってしまうのだろう。それでも彼女は絵を描いてくれるだろうか。


 藍の絵を見ることができなくなるかもしれないこと、それがわたしにとっては一番の絶望だった。


 そんなことを考えながら手を動かしていたから、自分の中の違和感に気づくのが遅れた。気づいた時には何かが足りない感覚が全身を包んでいた。慌てて、その正体を探す。


 それは程なくして見つかった。その原因はすぐ近くにあった。


 美術室に響くのは、グラウンドの喧騒と、楽器の音と、それから、わたしのペンの音。藍の鉛筆の音が聞こえない。それが違和感の正体だった。


 わたしはそっと隣の様子を窺う。完成していない作品を見られることを何よりも嫌う藍に気を遣って、できるだけ作業中は隣を見ないようにしていたから、そういった行動に出ることは珍しかった。


 間接視野で捉えた視界に、わたしは息を呑んだ。藍は鉛筆どころか、スケッチブックすら持っていなかった。その代わりに、学校指定のタブレットを置いて、時折指で静かに画面をなぞった。


「デジタルに変えたの?」


 唐突だったからか、藍は驚いた様子で、タブレットを隠すように胸に抱えた。まるで、初めて出会ったころと、同じように。


「う、うん。ちょっと、試してみようと思って」


「そっか。その絵も見るの楽しみ」


 そう言って、これ以上作業の邪魔をしないように、視線を自分の作品へと戻す。そして逃げるように自分の作品に潜り込む。しかし、完全な逃避は不可能で、不安と違和感を抱えながら作業を続けた。そんな状態で作業が順調に進むわけもなく、描いては消してを何度も繰り返した。


 いつもよりも時間の進みが遅い。そろそろかな、と思って時計を見ても、針は遅々として進まず、そんなことを何度か続けて、やっと門限を告げるチャイムが鳴った。結局作業はほとんど進まなかった。


 わたしは帰りの支度をしながら、藍に今日はなんの作業をしていたのか尋ねようか迷っていた。ペンも持たず、絵を描いていたわけではなさそうだったから、一体何をしていたのか謎だった。


 しかし、迷っているうちに帰りの準備は整って、なし崩し的に美術室を後にする。そうして、珍しいくらい言葉少なに、今日の部活は終わった。


 別れの挨拶だけはいつものように交わして、わたしは電車に揺られて家路を辿る。さすがに今日の進捗じゃツイッターに何かを投稿することはできず、無感動にタイムラインを眺める。


 電車がトンネルに入り、もうすぐ家の最寄り駅に着く頃、タイムラインに一つのイラストが流れてきた。わたしは驚愕に目を見開いて、思わず指を止めた。


 そのイラストを投稿していたのは藍だった。


 わたしは慌てて投稿日時を確認する。もしかしたら何かの拍子に昔のイラストが流れてきただけかもしれない。しかし、そんな予想とは裏腹に、そのイラストが投稿されたのはほんの五分ほど前のことだった。

 藍が二日連続でイラストを投稿するのはわたしの知る限りでは初めてのことだった。さっきは何も作業していない様子だったのに、いつ描いたのだろう。


 わたしは訝しみながらじっくりと絵を見た。


 浜辺を歩く二人の少女のイラスト。線の柔らかな感じや影の配置が細かくなされている点は紛うことなき藍の作品だった。


 しかし、違和感もいくつかあった。まずは、影の明暗がはっきりしすぎていること。いつもは特徴的な柔らかな線と響きあうようにグラデーションの効いた彩色で影が表現されているのに対し、今日の影は線とチグハグな印象を受けた。また、これがいつもの絵と比べた時の最大の相違点であったが、背景がぼかされて簡略化されて描かれていた。それはよく使われる手法だけど、藍がそういったやり方を取ったのは初めて見た。背景へのこだわりは彼女の作品の最大の特徴の一つだった。


 デジタルへの不慣れが故だろうか。どうして今までにないようなハイペースで絵を投稿したのだろうか。何か、心境の変化があったのだろうか。疑問は募る。


 今回の絵は藍らしさを残しつつ、簡略化も極力違和感を残さないような形でなされていて、クオリティが著しく損なわれたわけではなかった。むしろ、大衆ウケしそうなキャッチ―さという面では、優れてさえいた。


 しかし、藍のイラストの特徴は僅かながら確実に損なわれていて、わたしにはそれがどうしても引っ掛かる。わたしはそのイラストをリツイートせずに、いいねをするだけに留めた。絵柄を変更した影響か、その絵は昨日の絵よりも多くの反応をもらっていて、それがなんだか物悲しかった。


 電車はいずれ、トンネルを抜け最寄り駅にたどり着く。しかし、わたしの心を覆う靄は、トンネルを抜けても、駅から家まで自転車で立ち漕ぎしても、到底晴れそうになかった。


           ◇

 

 藍はその日から毎日絵を投稿し続けた。作品のクオリティは保たれていて、高頻度での投稿が幸いしたのか、フォロワーやいいねの数は増え続けていた。


 しかし、その間に美術室で藍のペンの音が響いたことは一度もなかった。ただずっと、タブレットの画面を見つめているだけ。もちろん、今までも美術室以外の場所でも作業はしていただろうけれど、異常な投稿ペースも加味するとそれはおかしな話だった。


 わたしの胸にある一つの疑念が浮かんだ。


 それは藍がAIを使って絵を作っているのではないかということ。


 その考えはわたしの気分を重くした。明確になにが悪いというわけではないけれど、うまく消化することのできないモヤモヤしたものがあった。それは、わたし自身のAIに対しての個人的な感情もそうだけれど、それ以上にあの藍がAIを使っているという、想像に対して。


 だって、AIはわたしが見続けてきた藍とはとても結びつかない。絵に対して真摯で、些細なところにまでこだわり尽くすのが藍の素晴らしさで、わたしが尊敬の念を寄せていたのはそんな藍だったから。人工知能に自分の絵を委ねてしまうなんて、らしくないと思う。

 

 藍がAIを使っているかもという考えが浮かんだ日から、わたしは自分の作品にうまく潜り込むことができなくなった。なにをするにしても、その考えがチラついて手につかなかった。


 だから、わたしはある決意を固めた。今日の部活では、藍にAIを使っているか直接聞いてみよう、と。とにかくこの状態から脱却するために、事実をはっきりさせる必要があった。

 

 いつも通りの美術室。年季の入った長机を前にして、二人で腰掛ける。今日も藍のペンの音は響かない。やっぱりおかしい。疑念がどんどんと膨らむ。けれど、そんなわけない。わたしが尊敬する藍が、絵に真摯に向き合う藍が、AIに自分の作品を委ねるわけがない。だから、早く否定してほしい。


 逸る気持ちを懸命に抑えながら、わたしは隣に座る彼女へと向き直る。


 「最近すごいね。描くペースめっちゃ早くなったじゃん」

 

 探りを入れるように、疑念が滲まないように。


 しかし、藍はわたしが張り巡らした予防線を引きちぎるように、一気に核心へと触れた。


「私ね、AIを使い始めたの」

 

 そう言って彼女はタブレットの画面をわたしに見せた。そこには、藍が今までに描いた絵が何枚も表示されていた。

 

 言葉を失って黙り込むわたしに代わって藍は言葉を続ける。


「こうやって、私の絵を取り込んだらね、絵柄とかを自動で学習してくれて、それに合わせてこっちの指示通りの作品を作ってくれるの。もちろん、思ったような絵ができない時もあって、十分に使いこなせてはいないから、まだまだ練習が必要なんだけどね」

 

 藍は何でもないことのように淡々と説明してくれた。


 気が動転して、言葉をろくに発することのできないわたしと違って、藍はやけに冷静で淡々としていた。そして口数はやたらと多かった。まるで、藍が、藍じゃないような。


 無言の空白を埋めるように彼女は猶も言葉を続ける。


「私ってかんなちゃんみたいに筆が早くないし器用でもないからさ、試したいけど試せてない技法とか表現とかもあったの。けれど、これならそういうのも気軽に試せるし、私が描く何十倍ものスピードで作品を仕上げることができる。この前さ、進路の話したじゃん。その時にわたし考えたの。私にはあとどのくらい時間が残されているんだろうって。そんな時にAIで絵を描いている人のアカウントを見つけて、この方法なら私も、ずっと絵を描き続けるかもと思ったの。就職してからもずっと」


 進路。就職。その言葉がわたしの心を揺らした。そうか。この方法なら、AIを使えばこれからも藍は絵を描き続けることができるんだ。これからも藍の絵を見ることができるんだ。


「そっか。いいと思うよ。新しい技術を取り入れるのも大事だもんね」


 いろんな感情に蓋をするように、わたしは物分かりのいい返事をした。


 だってわたしがさっきまで考えていたことは、わたし自身のエゴだ。わたしが勝手に抱いていた嫌悪感であり理想像だ。だから、わたしに何かを言う権利はない。


 それに、手段や方法が変わるだけで、藍の細部へのこだわりや絵に対しての真摯な姿勢はきっと損なわれることはない。わたしが世界で一番愛している絵が、そんな些細な変化で損なわれるはずがない。


 そして何よりも、藍がこれからも絵を描き続けてくれるならそれに勝るものはない。就職したあと、仕事と絵を両立させるために新しい技術に頼ることはなにも間違ってはいない。そのはずだ。


 ちゃんとわかっている。


 理屈ではそう思っている。けれど心がそれについていかなかった。当初の目的通りに白黒はっきりさせたのに、悩みは解消されずむしろ深まっていくばかりだった。


 その日、美術室にペンの音が響くことはなかった。かけがえのない時間や日常がゆっくりと壊れ始めていく。そんな実感がわたしに行き場のない衝動を与えた。それがわたしの手をがんじがらめにした。

 

           ◇

 藍は、AIを使っていることをわたしに打ち明けて以降も、毎日絵をツイッターにあげ続けている。藍のフォロワーはじっくりと、確実に増えていく。


 元々実力のある彼女に頻度が伴えば、それはある意味で当たり前の話だった。


 藍の絵柄は基本的にはAIを使っても崩れることはなかった。おそらく大抵の人は藍が実際に書いた絵とAIの絵を比較しても違いに気づかないだろう。


 けれど、よく見ると、毎回些細な変化があった。わたしにはそれがわかった。それに気づくたびに胸が痛んだ。それが、藍が美術室で語っていた、試してみたいことを試しているだけなのだとわかってはいたけれど、わたしの好きな藍の絵が今にも崩れてしまいそうな、そんな危うさがあった。


 そして、その危惧は現実のものとなった。


 日を追うごとに、藍の絵が藍の絵じゃ無くなっていく。わたしが世界で一番好きだった、藍の絵が人工知能によって、最適化され、破壊されていく。


 揺れる車内、沈んでいく太陽、トンネルに突入して、暗闇に包まれる視界。


 それを照らすように、煌々と光る液晶をスワイプすると、今日も藍の絵が表示される。ユーザーネームを見ないと、「ai」という名前を見ないとそれが藍の絵だと分からない。そのことが悲しくて、目を背けたくて仕方がない。それでも、引き寄せられるように、見つめてしまう。


 独特な暖かみを感じさせる線は、キャラの輪郭を打ち出すことに主眼を置いたハッキリとしたキャッチーな線へと変貌した。影は最低限しか描かれておらず、過度に二次元性が誇張されたキャラクターが佇むばかり。そして、あれだけ緻密だった背景もいまでは、白一色に塗りつぶされている。


 藍の絵が、日に日に何物かに置き換わっていく。それをわたしは毎日、毎日見つめ続ける。美術室に会話はない。ただ、むしゃくしゃする心をぶつけるように描いて、描いて。


 そして、自分の絵を描くたびに、ある疑念が膨らむ。そんなわけがないと、何度も心の中で否定したけど、まるで私の杞憂をなぞるように、藍の絵が変わっていく。杞憂が、現実へと、置き換わる、嫌な感触。心臓が握りつぶされるように痛い。


 それは絶望だった。


 藍の絵は何かへと近づくように変化していく。わたしの大好きだった藍の絵の特徴が一つずつ消え、入れ替わるように現れ出したもの。


 それは例えば、キャラクターを描くことだけを目的とした、単純な線。強調された可愛らしい表情。簡略化された影や背景。そして、斬新な"攻めた"構図。


 いつのまにか、藍の絵はわたしの絵とそっくりになっていた。

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