藍色に染め上げて

無銘

前編



 年季の入った、建て付けの悪い木製のドアを開けると、美術室特有の油と絵の具の入り混じった匂いが鼻腔をツンと刺激した。放課後、この美術室で油や絵の具が使われなくなって随分と時間が経ったけれど、その匂いは依然として存在し続けていた。


 わたしと藍は隣同士いつもの席へと腰を下ろした。そして、ゴツゴツとした木製の長机の上に、わたしはタブレットを、藍はスケッチブックを広げた。


「今日はなにを描くの?」

「わたしは今ハマってるアニメのキャラクターかな。藍はこの前の続き?」

「うん。今日中には完成すると思う」

「そっか。楽しみにしてる!」


 そんなやりとりの後、どちらからともなく絵と向き合う。そうして、いつも通りのわたしたちの放課後が始まる。


 わたしはこの時間が好きだった。


 ペンが液晶を撫でる音、鉛筆が紙にこすれる音、互いの微かな呼吸音。遠くのグラウンドから風に乗って、運動部のかけごえや、吹奏楽部の個人練の音が運ばれてくる。


 多種多様な青春をBGMにしながら、頭に思い浮かんだ絵を液晶の上に移していく。隣で藍も、タブレットとスケッチブックという違いはあれど、同じ作業に勤しんでいる。


 互いの筆音は重なったり、重ならなかったり、早かったり、遅かったり。それでも同じ時を刻みながら、着実に絵は生まれていく。


 その連帯に身を任せていれば時間が経つのはあっという間だった。


 気づけば美術室はオレンジ色と静けさに包まれていて、訪れた静寂を切り裂くように門限を告げるチャイムが鳴った。わたしはそれを機に絵の世界から現実へと引き戻された。それは彼女も同じようで、長時間作業をしていた身体を労わるように、伸びをしていた。


「お疲れ。絵はどう? 完成した?」

「ほとんどは。あとは家で細かい仕上げだけやっちゃえば完成かな」

「やった。アップされるの、楽しみにしているね」

 

 本当は一刻も早く藍の絵を見たかったけれど、その気持ちをぐっと堪える。


「ありがと。かんなちゃんはどんな感じ?」

「今日はラフまで描けた! どうかな?」


 よくぞ聞いてくれましたとばかりに、タブレットの画面を藍に見せる。


「すごい! 構図も斬新で目を引くし表情もかわいいし、かんなちゃんはやっぱりすごいね」

「藍に比べたらまだまだだよ。けど、構図は攻めすぎたかなって心配してたから、藍にそう言ってもらえて凄く安心した」


 ネットにアップすれば色んな称賛の声を貰えるけれど、藍から褒めてもらえると格別に嬉しい。わたしの一番好きな絵を描く藍の言葉は何物にも代え難い。


「……時間ギリギリだし、帰ろうか」

「うん!」

 

 藍の言葉に頷いて、荷物を纏めて、戸締りをして、わたしたちは美術室を後にした。



 わたしを乗せた電車が夕焼けを置き去りにしていく。車窓から、太陽と月が混ざるのを見つめる。自転車通学だから、隣に藍はいない。


 片道一時間弱の暇な時間は大抵ツイッターを眺めて過ごす。液晶の上では、先ほどアップしたラフ絵に対しての反応が、通知欄を賑わしている。


 中学三年生の頃、ツイッターにアップした二次創作のイラストがたまたま原作者さんの目に留まって、リツイートしてもらえた。それがきっかけでそのイラストはバズって、一万以上のいいねが付いた。フォロワーもたくさん増えて、嬉しい感想をたくさんもらえた。


 それ以降、わたしはより一層精力的に絵に取り組んだ。努力の甲斐もあり、その時から今に至るまで、イラストをアップするたび多くの反応を貰えている。


 不特定多数の人がくれる好意的な反応は電車での時間を埋めるのにはもってこいだ。わたしはタイムラインと通知を行ったり来たりして時間をつぶす。


 すると、ある一つのイラストが流れてきた。奇しくもわたしが描いたのと同じキャラクターのイラスト。そして、短い文章の下には


 #AIイラスト


 と付けられていた。


 わたしは思わず、顔を顰める。


 世間で度々話題になる生成AIの問題。著作権の観点から否定的な声が上がることもあれば、効率化や新たな表現媒体としての可能性を評価する動きもある。

 まさに賛否両論。理屈の上では、どちらの意見にも一定以上の理があるように思える。


 しかし、わたしは一個人の感情として、生成AIを使用したイラストがあまり好きではなかった。だって、自分で手を動かすのではなく、ボタン一つで、しかも他人の絵から学習した要素を使って出力されたイラストなんて。そんなのなんだか、ズルいじゃないか。


 もちろん、これがただの感情論だということは重々承知しているから、表立ってこんなことは言わない。ただ、AIの話題やそこから生み出されたイラストを見るたびに何となくネガティブな感情が湧いてくることもまた事実で。今も、心に靄がかかるような感覚に苛まれていた。わたしはそんな感覚から逃げるように、画面をスクロールして、タイムラインを更新した。


 すると、心の靄を吹き飛ばすように、また一枚のイラストが表示された。


 制服の少女が夕暮れの教室で微笑んでいるイラスト。美麗で繊細で、まるで青春の一ページをそのまま切り取ったような。


 それは藍のイラストだった。


 わたしは藍の絵が、初めて見た時から好きだった。柔らかで独特な暖かみを湛えた線の質感。影の落ち方まで徹底的にこだわられた繊細な背景。


 そういった要素はわたしのイラストには欠けているもので、だからこそ魅力的に映った。それこそAIなども台頭している中で、背景など細部にまでこだわる姿勢が、口下手で職人気質な藍の人柄を反映しているようで、わたしはそんな藍の絵に対しての姿勢を心底尊敬していた。


 しかし、藍の絵は、その出来栄えとは裏腹にあまり反応をもらえていなかった。藍は基本的に一次創作しか描かないので、どうしても、不特定多数の目には留まりにくい。フォロワーも、藍がネット上での人付き合いに熱心ではないこともあって、そこまで多くない。


 そんな現状はもったいないと思う。藍の絵はとにかく素晴らしくて、もっとたくさんの人に見てもらうべきものだ。なんていったって、わたしは一目見た時から、藍の絵が世界で一番大好きなのだから。

 そんな使命感にも似た想いで、いつものようにいいねとリツイートをする。


 そして、藍の絵と初めて出会った時のことを思い返す。ガタンゴトンと揺れる列車が、追憶に誘うように、トンネルへと突入した。


            ◇


「入部届の提出は明日までだからな。まだどの部活にも入っていない生徒は、しっかりと考えるように。じゃあ、日直」


 若い男性の担任の指示に従い、日直の号令が響く。それに合わせて起立をして、礼をして、放課後が訪れる。空気が一気に弛緩してクラス中が騒がしさに包まれる。わたしは、その喧騒の隙間を縫うように教室を出ようとする。すると、背後から担任に呼び止められた。


「おい、青野。お前、部活まだ決めてなかったよな」

「まあ、そうですね」

「そうですねじゃ、ないだろ。この学校は全員必ずどこかの部には所属する決まりなんだから。お前、なにか好きな物とか、興味のある物とかないのか」


 担任がなぜか高圧的な調子で問う。体育教師ってどうしてこう決まって暑苦しいのだろう。わたしはこの担任が苦手だった。しかし、だからと言って無視するわけにもいかず、当たりさわりのない答えを差し出す。


「強いて言うなら、絵、ですかね」

「じゃあ美術部はどうだ? 大半は幽霊部員だが、今年は熱心な一年生が入ったって、話題になっていたぞ」

 

 予想通りの短絡的な答えが返ってきた。

 確かに絵を描くことは好きだけど、あくまで二次創作のイラストをツイッターにアップするだけだから、正直そこまで美術部に魅力を感じない。それに、わざわざ誰かとつるまなくても、絵を観てくれる人なら、ネット上にたくさんいるし。わたしってどうやら神絵師ってやつらしいし。だから部活に入ることで創作活動の時間が減るのは嫌だった。


「はぁ。そうなんですね」

「なんだその気の抜けた返事は。美術部なら活動の参加も自由だし、青野みたいなタイプでも入りやすいと思うんだがな。絵に興味があるなら尚更。どうだ、見学だけでも行ってみないか。放課後は毎日美術部で活動しているみたいだぞ」

「まあ、それなら、行ってみます。それじゃあ」


 わたしは一刻も早く解放されたくて、適当に濁して、教室を飛び出した。担任のため息を背中に受けながら。


 廊下を歩きながら、このまま帰ってしまうかどうか逡巡する。正直担任への後ろめたさは一切ないけれど、まあ、明日にはどこか適当な部活を書いて入部するんだし、それなら活動参加自由で大半が幽霊部員という美術部の惨状を確認するのもまた一興か、と思った。

 そんな気まぐれで、校舎の角、文化棟にある美術室へと足を進めた。


 文化棟は放課後の喧騒が嘘のように静かで、ひっそりとしている。わたしはまだ授業で一度使っただけでうろ覚えの美術室を探して、ふらふらと彷徨った。


 家庭科室や化学室などまだ入ったことのない教室を通過して、少し進んだところで、見覚えのある場所に来た。薄汚れたプレートには控えめに「美術室」と描かれていた。生徒の出入りがないと、随分印象が違う。わたしは薄暗い雰囲気に気圧されながらも、木製の古びたドアを開けた。


 ギシっと音が鳴って、ドアが開くと共に、独特な匂いが鼻をつく。そして、その匂いから遅れて視覚的な情報が一人の少女を捉えた。


 一人ぼっちで、木製の長机に向き合う少女。彼女はおさげにした黒髪を懸命に揺らしながら、机の上に広げたスケッチブックと向き合っていた。作業に入り込んでいるのか突然の来訪者に気づいている様子はなかった。


 どんな絵を描いているのだろう。


 わたしは驚かさないように、そろりと近づいて行った。彼女が気付く気配はなかった。そして、後方からその絵を捉えた瞬間、思わず息を呑んだ。


 描かれていたのは、この美術室をそのままモノクロで紙に転写したような、緻密な風景。特徴的な長机と、そこに座る二人の少女。少女はどちらも絵を描いている。制服の皴の一つ一つ、影の落ち方、その細部まで。そこにあるのはもう一つの世界だった。少女たちの青春の一幕だった。それと比べたら、わたしのイラストなんて、おままごと同然だと思えてしまうくらいに


 わたしは一瞬で、彼女の絵に引き込まれた。


「すっご」


 思わず声が漏れる。その瞬間、彼女がこちらを振り向く。


「だ、誰ですか?」


 童顔で可愛らしい顔を几帳面に歪めて、彼女は尋ねる。絵を見られたのがよっぽど恥ずかしいのか、スケッチブックを隠すように、ぎゅっと抱えて。


「わたしは、青野かんな。一年生。美術部の見学に来たんだけど、そんなことより、あなたの絵凄いね」


 わたしは、素直に賛辞を述べる。彼女の絵を見た後だと、いつものひねくれたポーズをとることさえ馬鹿らしかった。


「そ、そんなことないですし。見ないでください。見た絵は忘れてください。私、完成してない絵、見られるの本当にダメで……」


 そう言って彼女は口を噤む。まるで縋り付くように、スケッチブックを抱く力を強める。その拍子に、おさげが微かに揺れる。

 

 会話を初めて早々に、静寂が場を包んだ。わたしは普段あまりしゃべる方じゃないし、彼女は輪をかけて人見知りみたいだし、どうしようもない。いつもだったら、特に場を取り繕わず、適当に謝ってそのまま踵を返すだろう。


 しかし、なぜか、わたしの足は彼女の抱えるスケッチブックにしがみつくように、動かなかった。


 忘れるなんてとんでもない。あの絵だったら、何度でも、いつまでも見ていたいのに。


 そう思った瞬間ひとりでに口が動いた。


「じゃあ、わたし美術部入るよ。だから、完成したらあなたの絵を見せて」


 言葉が口を突いて出た。それは、彼女の絵の魔力だった、唐突な入部宣言に、彼女は目を丸くした。

 そんな様子にも構わず、わたしは目の前の少女に尋ねる。


「あなた、名前は?」

「……あい」


 それが、藍との出会いだった。


           ◇


 そこから、わたしたちは爆発的に仲良くなった。好きなアニメがたまたま一緒だったことや、絵を描くという共通の趣味があったおかげで。そして何よりも、美術室での部活動の時間が、二人ぼっちの空間が仲の良さに拍車をかけた。


 わたしが進学コースで、藍は普通コースだから、クラスが一緒になることはなかったけれど、放課後の濃密な時間がそんな距離を飛び越えて、わたしたちは親友になっていった。


 わたしにとって、藍と過ごす時間は何よりもかけがえのない、大切な時間だ。彼女のおかげで、彼女の絵と出会った日から、わたしは以前よりもさらに絵を描くことが好きになった。どこまでも真摯に絵と向き合う藍の姿はわたしにとって大きな刺激になった。


 好きな人と好きなことを共有して、真っすぐそれに向き合うこと。それは至上の喜びだった。青春を費やすに値するものはそれ以外に考えられなかった。

 

 彼女が青春をスケッチブックに描くのと同時に、わたしの青春も藍色に染め上げられた。


 そんな風に力強く、振り返った思い出を総括する。


 電車は依然として、暗闇の中を走っていた。

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