第4話
テレビ番組「松方コレクション100年前 夢の美術館」を見ました。日本ではかなり昔にご覧になった方も多いと思いますが、とてもおもしろかったです。でも、訊いてみたいことが、たくさんありました。
その番組の中で、松方幸次郎に頼まれて、二十年間、フランスでの作品を守り続り続けた日置釭三郎という人が出てきましたね。
そして、日置釭三郎はドイツ軍がパリに侵略されようとした時、パリに保管してあった四百ほどの絵画を木箱につめて、郊外の村に、ひとりで運んだという説明がありました。
彼は海軍出身の大使館員、フランス語が仕事にとても忠実で、有能な人でした〈この説明はテレビではない〉ので、そういう仕事は、敏速に、ひとりでできたのだろうと想像できます。
しかし、主を失くしたグルリット一家はミュンヘンに移るのですが、この世間知らずな一家が、日置さんのような行動は無理な話では話でしょう。
今回はなぜグルリット一家がミュンヘンに引っ越ししたのかがテーマなのですが、その前にひとつ。それは、日置さんのことなのですが、彼がグルリットと少しかかわりがあるのです。
私がKosaburo Hiokiの存在を知ったのは、このグルリッツのことを調べている時でした。その時は日置孝三郎かな、と思いましたが、今回のテレビで「釭三郎」だと知りました。「釭」という漢字は初めて見ます。ドイツの調査団がグルリッツの絵画を調査していた時、その中に、松方コレクションのマネの絵が出てきたのです。
☆
モネ、1873年作、「嵐の海」、55x72.5cm
松方が1837年頃に買ったことはわかっているのですが、所在がわからなくなっている絵でした。
それが、調査で、1944年に、Kosabro Hiokiによって売却されていた、ということがわかったのです。〈日置がグルリット父に直接売ったわけではなく、その間に、持ち主がもうひとりいます〉
テレビでは松方幸次郎がフランスを去る時、日置に、もし管理費や生活費が足りなくなったら、絵を売ってよいと告げる場面がありました。それを見た時、私の中で、だから彼があのマネの絵を売ったのだと、話がつながりました。ああ、そうなんだわと手を叩きたいほどでしたね。
それでは、話をミュンヘンへの引っ越しに戻しましょう。
コーネリウスと母と妹がミュンヘンに移り、コーネリウスがザルツブルグに家を買い、またオーストリア市民権を取ったのも、叔父ウルフギャング・グルリットのアドバイスがあったからだと思います。
ウルフギャングは父ヒルデブラントの七歳年上のいとこで、ミュンヘンに画廊があり〈ドイツで最初の画廊のようです〉、またオーストリア国籍に取得して、当時はリッツの近くに住んでいました。リッツはザルツブルグから電車で一時間、車ならその半分、近いですよね。
ウルフギャングはココシュカやエゴン・シーレなど、たくさんの画家との交流があり、あの「叫び」のムンクが、彼の肖像画を描いています。
その顔は、やり手の画商というより、優しい先生みたいな感じです。
現在、オーストリアのリッツには、有名な「レントス近代美術館」がありますが、もともとはグルリットのコレクションを展示したもので、名前は「ウルフギャング美術館」でした。彼が鑑識眼があり、モダンアートを愛していたことは確かなのですが、やはりユダヤ人からの略奪問題などがあり、美術館の名前も変更になりました。しかし、彼が裁判に訴えたりして一度名前は戻りましたが、今はレントス〈リッツの古称〉現代美術館です。
コーネリウス達は、そんなパワフルで目ききの叔父を頼って引っ越しし、ウルフギャングは世間にうとい一家のために、たとえば絵画の運搬などの手配してくれたことと思います。
ミュンヘン/ザルツブルグに落ち着いた一家は、これからはお金が必要なたびに、叔父に絵を選んで売ってもらえばすべてよし、とほっとしたのではないでしょうか。
引っ越しした翌年の1962年には、コーネリウスは妹とパリに旅行をしています。安心して、旅でも出たのかもしれません。
しかし、思ったとおりにはいくはずがないのは世の常で、1965年にはその叔父がミュンヘンで亡くなってしまいます。さて、これからはどうやって絵を売ればいいのでしょうか。一家は、今の言葉で言えば、頭の中が真っ白になったことでしょう。
それで、スイスベルンの画商にミュンヘンのマンションに来てもらい、絵画を見てもらったりしたのでしょう。その彼がとても親切にしてくれ、口も堅かったようです。そのことがあり、コーネリウスは遺言で、絵画はすべてベルン美術館に贈ることにしたと考えられます。
というわけで、彼らはウルフギャング・グルリットという叔父を頼って、ミュンヘン/ザルツブルグに移ったと私は思うのです。
私がそれを思いついたのは、エゴン・シーレのことからです。エゴン・シーレはオーストリアの天才画家で、二十八歳でスペイン風邪のために死にました。彼は悪くて、エロくて、挑発的で、逮捕されたりしました。
そんなエゴン・シーレですから、私は若い頃は好きではなく、彼のレオポルド美術館なんかは素通りしていました。
でも、彼の作品は他の美術館にも彼の絵はありますから、見ることにはなります。エゴン・シーレの絵は独特ですから見ればすぐにわかり、それがたとえ局部をさらけ出したヌードではなくても、ただの景色でも、顔でも、エネルギーが放出していることを認めないわけにはいきません。すごいな、すごいな、やはり天才だ、と今さらながら思いつつ、彼について書かれた本をいくつか読みました。
その中で、彼の絵を好んだ画商が『グルリッツ』だと書いてあったことを脳が覚えていて、急に思い出したのです。そのグルリッツはシーレの才能を見抜き、スケッチなど百枚も買ってくれているのですよね。
このコーネリウスのグルリッツと関係があるのだろうかと調べてみたら、それがウルフギャング・グルリットという叔父で、彼が住んでいたのがミュンヘン/リッツでした。
そのことから、コーネリウス達は、彼を頼りにして引っ越ししたのだろうと考えたわけです。
エゴン・シーレにつきましては、そのうちゆっくりと書いてみたいと思いますが、やはり少しは触れたいので、ここでは二枚だけ。
☆自画像
27歳の代表作。まさに、エゴンシーレ。
☆トリエステ港
1907年、 17歳の作品。
特に、近代の画家にとっては、「水」をいかに独創的に描くかということが大課題です。けれど、エゴン・シーレは十代で彼自身の水を描けてしまっていますから、
やはり彼は芸術の神様に愛された天才。
さて、「コーネリウス・グルリットの絵画と孤独」の四回目、最後はこんな話です。
コーネリウスが死んだ後、スーツケースの中に、モネの絵か見つかったそうです。それは入院する時に、持参したものでした。
その画像が手にはいりませんが、制作年が1867年で、「サンタドレス」を描いたものだそうです。モネその年に、サンタドレス海岸では何枚もの絵を描いていて、中の一枚はメトロポリタンにありますから、想像はつきます。
☆
1867年、 98.1x129.9cm メトロポリタン所蔵
コーネリウスのモネもこのくらいの大きさと考えられのす。彼は額から外して、四つに折っていれていたのでしょうね。
「サンタドレス」の絵は、よく知られているモネの印象派的な絵とは違いますよね。
モネがブレークしたのは、下の絵のあたりからです。
1869年、「ラ・グルヌイエール」75x100cm
非常に有名な絵で、これは前に取りあげました。
写真ではよくわからないでしょうが、
水が揺れる描写をするのに、絵具を厚く重ねています。それをモネがついに捜しあてた手法でした。
「サンドレス」の絵はその二年前で、
まだこのようなクラシックなスタイルでした。
ここで、1869年二十九歳のモネと、 1907年十七歳のエゴン・シーレの「水」を比べてみねると、おもしろいです。エゴン・シーレは絵具を重ねなくても、波の立体感が、独自のスタイルで描けています。すごい才能です。もしエゴン・シーレがもっと長く生きられたら、どんな絵を描いたのでしょうかね。
それが、全く想像できないというのが、悲しいです。
モネがあってエゴンシーレにないものは、寿命とその明るさじゃないかと思います。
さて、話をもとに戻して、コーネリウスが、どうしてこのモネの絵をもっていたのでしょうか。
ミュンヘンのマンションから千枚以上の絵が撤収されましたが、この一枚だけはどこかに残っていたのでしょうか。それは本人だげか知っていることですが、たぶん、そうではなく、彼がザルツブルグの家からもってきて、何もなくなった壁にかざっておいたのではないかと私は思います。
これが、コーネリウスの好きなスタイルの絵だったのではないでしょうか。ザルツブルグにはノアールとかモネ、ピサロなどの最盛期の作品があり、ミュンヘンのものより、上質なものが多いと言われています。でも、コーネリウスは古典的な絵を好んだので、その中から、これをもって来たのではないかと考えます。
ちなみに日置さんはアボンダン村で、運んできた絵画は納屋にしまい、好きな絵十枚だけを居間に飾っておいたとテレビで言っていました。一番好きなのが、シャイム・スーティンの「ベルボーイ」だったそうです。
☆
1925-26年作、98x80cm
スーチンについては前に書きましたが、モジリアーニの弟分みたいな人で、ユダヤ系ロシア人。シャイで、貧しく、幸せとはほぼ縁のない人でした。
このボーイさんは本当に困ったという表情をしています。
日置さんも、日本で松方さんは破産してしまうし、戦争は激しくなるしで、とても困った状況にあり、だから、この絵に親近感をもっていたのでしょうね。彼自身、こんな顔をしてこの絵を見ていたかもしれませんね。
でも、コーネリウスなら、たとえ、この絵をもっていたとしても、病院には持参しなかったことでしょう。あのモネの静かな海の風景画が好みだたのだろうと思います。
コーネリウスの写真で見ると、貴族的というか、おぼっちゃんですよね。
日置さんの好きだった「ベルボーイ」は日本には返却されず、今は、ポンピドー近代美術館にあります。
またゴッホの「アルルの寝室」など、その他十数作の名作が返却されていません。なぜでしょうか。
そのことについては、別の機会に書きたいと思います。
グルリットはそれほど絵画を愛したのか、それとも略奪絵画を隠し続けてきた欲深い人間か 九月ソナタ @sepstar
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