牡丹の咲く庭
坂月タユタ
牡丹の咲く庭
娘が亡くなってから、三回目の春が来た。昔はよく花見なんかにも行っていたが、今の私や妻にその気力はない。娘と過ごした十八年の眩しさに比べると、これからの人生は何と淀んで薄暗いことだろう。毎日を目的もなく生き続けることは、死んでいるのと変わらない。娘の仏壇に手を合わせるたびに、早くそちらに行きたいとさえ願う。私たちにとって娘は、人生の全てだった。
ひとつだけ、新しく始めたことがある。庭の手入れだ。元々庭は娘のものだった。娘が植えた沢山の花たちが、季節に合わせて美しく咲いている。そんな庭をなくしたら、きっと娘が悲しむと思ったのだ。
昔は何が面白いんだと鼻で笑っていたが、いざやってみると意外と奥が深い。水をあげたら簡単に咲くのかと思っていたのに、予想外に元気をなくしたりして慌てふためくこともある。花それぞれにちゃんと育て方があって、私は娘の部屋の本棚から図鑑を引っ張り出しては、どうして咲かないんだろう、と頭を悩ませる。
特に牡丹が咲かなかった。でも、これはそういうものらしい。いつか娘が言っていたことを思い出す。
「牡丹はね、咲くまでに何年もかかるのよ」
娘は耳に長い髪をかけ、種を植えたばかりの土の盛り上がりを愛おしそうに見つめていた。
「どんな花が咲くのか、楽しみだなぁ」
結局、娘は牡丹の花を見ることなく亡くなった。よく晴れた夏の日、心無いトラックが、私たちから娘を永遠に奪ったのだ。
妻もよく庭の手入れを手伝っていた。やはり牡丹がお気に入りのようで、今年は咲くかしら、なんて寂しそうに言う。私は膨らんできた蕾を見ながら、そうかもな、なんて答えた。
***
ある暖かい日のことだった。庭に娘がいた。私は目を丸くして、その後ろ姿を眺める。振り返った娘は、白い歯を見せて微笑んでいた。
「おはよう」
「…おはよう」
あまりにも自然な挨拶に、私もいつもどおり答えた。
「どうしてここに」
「牡丹の花、咲いたから」
娘が指差す先には、大輪の赤い花が見事に咲き誇っていた。
「見に来たのか」
「うん」
娘は何もかもが記憶にあるとおりだった。私は目の前に起きていることが信じられず、大声で妻を呼ぶ。顔を覗かせた妻も、まあ、と声をあげ、慌てて庭に出てきた。
「本当に、本当なの?」
「わかんない。死んでるんだし」
娘は当たり前と言わんばかりに答える。そういう自覚はあるものなのか。
「それよりほら、見てよ」
娘に促され、親子三人で咲いたばかりの牡丹の花を眺める。
「結構大変だったんだぞ、肥料なんか色々試してな」
「お父さん、そんなことできたっけ」
「たくさん勉強したのよ。あなたの本でね」
代わりに答える妻に、私はよせよ、とぼやく。
「他の花も、みんなちゃんと育ってて安心した」
「それもお父さんがやったのよ」
こそばゆくなった私は、家の方へと振り返る。
「せっかくだし、上がってくか?」
「うん」
娘に言うことじゃないよな、と思いながらも、快く答えてもらえたことが嬉しかった。家のソファに座る娘を見ると、本当に時間が巻き戻されたかのような気分になる。妻はもう見たこともないような笑顔で、娘にたくさん話しかけていた。時折私にも話題を振られるが、気の利いた事も言えずに「うん」とか、「ああ」とかしか答えられない。まあでも、昔からこうだよな、我が家は。
「そろそろお昼にしましょう。食べていくわよね?」
「うん、そうしよっかな」
娘が首を傾げながら答えると、妻は張り切って台所に立った。
「食べられるものなのか」
「そうみたい」
娘はいただきます、と手を合わせると、並べられた沢山の料理を食べ始める。私たちもいただきます、と言い、久しぶりの家族団欒となった。
「味はわかるのか」
「わかるみたい」
「そうか」
私は恐る恐る娘に質問する。色々聞きたいことがあったが、何かの禁忌に触れてしまったら、娘が消えてなくなるような気がして、それ以上は声をかけられなかった。
「やっぱり、お母さんの料理は美味しいよ」
妻はぽろぽろと大粒の涙を溢している。私も涙ぐんで横を向くが、おそらく何も隠せていないだろう。
その後も私と妻は娘と話し続け、あっという間に夜になった。暗くなった外を見つめる娘を見て、わたしは言う。
「行くのか」
「うん」
娘は立ち上がると、私たちの方へと向き直る。
「お父さん、私の庭をちゃんと守ってくれてありがとう。お母さん、お昼ごはんを作ってくれてありがとう」
またしても涙を流す妻の肩に、私は手を置いた。
「いってきます」
そう言って玄関を出た娘に、あの日の姿が重なった。こうして娘は帰らぬ人になったのだ。そして、今回もきっとそうなのだろう。
私は妻をぎゅっと抱きしめて、二人で静かに泣いた。それでも、布団で眠る時は、いつもより安らかな気持ちだった。
***
しかし、思いもがけないことが起きた。次の日の朝、庭に娘が立っていた。
「また来たのか」
「だって」
娘は足元の牡丹の花を指差した。
「まだ咲いてるんだもん」
そこで、私は図鑑を持ってきて、牡丹のページを開いた。三人で額を合わせてその内容を確認する。花はもって二、三日だそうだ。そして、翌年もう一度花をつけるには、それなりに手入れがいるらしい。
「結構大変なんだね」
娘は心配そうに言うが、私は胸を張った。
「大丈夫だ、お父さんが咲かせてみせる。来年も、そのまた来年も」
春の麗らかな陽射しの中で、娘は微笑みながら頷いた。
牡丹の咲く庭 坂月タユタ @sakazuki1552
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