第41話 甦る運命

 * *

 

 空は少し曇り始めていた。賑やかな繁華街を抜けた私たちは時雨川沿いを歩いて自宅の方へ歩くことにした。

「こんな道あったんだ」

 時雨川に近づいたこと記憶がほとんど無い私にとって沿岸を一本で繋ぐ歩道はとても美しく映った。どこまで歩いても横には時雨川が流れている。その変わり映えのない景色が延々と続く人生に重なる気がしたのだ。でも全て変わらない訳じゃない。時雨川の流れが、川の形が、取り巻く生態系が少しずつ変わっていくように、延々と続く人生も少しずつ変化が起こっているはずなのだ。今まで思いもしなかった感情を呼び起こすほどこの道は美しかった。

「この先をずっと行くと俺たちが並行世界で最後にいたあたりの場所に繋がっているんだよ」

「そうなんだ」

 私たちの家がある地域まではここから五キロほどあるらしい。壱希が歩ける?と聞いてきたので勿論。と返した。

 この道は様々な人に利用されている。散歩中の老夫婦や学校終わりの小学生、時間が経つと中高生もちらほら見え始めた。

「なんだ、結構人いるじゃん」

「そうだな」

「あの『私たちの時雨川』っていう本、今ならちゃんと読めるかな」

 私たちが知らなかっただけだった。目の前には時雨川と共生し平和な日常を送る人々が沢山いた。でも、だとしたら尚更何故だろう。私も壱希も多分他の四人も周りの大人たちから時雨川には近づくなと言われていた。流れが急だから?本当にそれだけなのだろうか。


「あの、大丈夫ですか」

 隣から聞こえた壱希の声は私に向けられたものではなかった。咄嗟に意識を戻すと私と壱希の前には川と真っ直ぐ向き合って身体を震わせている少女がいた。歯を食いしばって何かを後悔しているようにも見える。どう見ても様子がおかしいのに通行人は皆携帯電話を見ながら歩いて気にも留めない。嫌な既視感が脳裏に過ぎって私は彼女に慌てて近寄る。

「ねえ、ここで何をしているの」

「えっ?」

 少女は話しかけられたことに対する驚きが相当大きかったようだった。しばらく全身が固まったように動かなかった。しかし私が彼女の背中に手を回して宥めると言葉もなく涙を流し始めた。

「どうしたの、大丈夫?」

 泣き収まるまで少女を抱きしめた。あまりにも華奢なその身体はもう少し力を強めたら骨がバラバラになって崩れるのではないかと感じるほど頼りなかった。しかし何故かその脆い上半身を私はどこかで同じように抱きしめたことがあるような気がしていた。微かな記憶を遡りながら丁寧に彼女を包み続ける。

「……あのね、……私が全部悪いの。……だからね、お姉ちゃんは私のことなんか良いから、もう帰っていいんだよ」

 

 少女がどうしてこんなことを言うのか分からなかった。でもさっきまで何をしようとしていたかは分かる。それをしようと思ってしまうほど彼女は追い詰められているのだろう。

 時雨川は昔から入水自殺が絶えない。そんな噂をいつか耳にしたことがあった。だから私たちは今までこの川に近づくことを忌み嫌った。『私たちの時雨川』などと言われても受け入れられない自分がいた。近づいたら死者に呪われると、本気でそう思っていたから。

 もしかすると私は今一人の命を預けられているのかもしれない。あの時守れなかった、いや実際には命は守られていたんだ。でもそれは私のおかげじゃない。神様のおかげだ。私自身では何もしてあげられなかったその命、目の前で吹き飛ばされたその命。逆らえなかった運命。


「帰らない。お姉ちゃんは帰らないよ」

 帰ってたまるものか。ここで帰ったら、ここでこの細く病弱な身体を離してしまったら。

「私がいなかったらさ、皆幸せだったんだよ……」

「そんなことない。あなただけが悪いんじゃないの。あなたがいなかったら皆の幸せは最初から無くなってしまうんだよ」

 かける言葉がどれも薄っぺらいものとして乾いて響く感覚がした。どうしても目の前の少女に近づくことができない。

「……裏切り者の私に生きる資格なんて無いの」

 

 聞き覚えのある台詞が耳を貫いて全てが繋がった。そうか、あの時こんな気持ちだったんだ。どうしてすぐに気づいてあげられなかったんだろう。どうしてそれまでの日常がずっと続くと思っていたんだろう。

「違う、あなたは生きなきゃダメ」

「離して……私なんかが生きてちゃいけないんだよっ!」

 少女が私の腕の中で動き始めた。この身体からどうやって出しているのかと思うほどの強い力に驚いたのも束の間、私の腕から少女の触感が消えた。振り向くと少女は既に時雨川に向かって走り出していた。

 

「壱希!あの子が!」

 後ろで様子を見守っていた壱希がすぐに少女を追いかけて既のところでその腕を掴む。

「離してぇっ!!」

 壱希は少女を持ち上げると幼児を抱きかかえるようにひ弱な身体を腕の中に収めた。私は二人に駆け寄る。壱希と目が合って同時に頷いた。壱希もきっと分かっている。

「ねえ、聞いて」

 抵抗するのをやめた少女に顔を近づける。彼女の眉尻が僅かに上がったように見えた。

「今本当に辛いよね。自分のせいで今まで仲良かった友達の輪が壊れちゃったって思ってるんだよね」

 彼女の目が完全にこちらを向いたのが分かった。

「恋愛ってね、時に人を全然違う人に変えてしまうの。あなたも恋愛で全然違う自分になっちゃって怖かったでしょ。あなたの周りの友達も皆同じ。人を好きになるってそういうことなの。」

 まだこちらを見てくれている。

「でもね、悪いことばかりじゃないんだよ。好きになって初めてその人のことをよく考えるようになって思いやりが生まれるの。あなたが今辛いのはきっとそれだけあなたが優しい女の子になれたってことだと思う」

 

 私は自分でもよく分からないまま口を動かしていた。まだ私なんて齢十八の未熟な人間なのに、自分がそれを一番分かっているのに。でもこの子を前にしたら口が止まらない。この言葉でこの子が、彼女が少しでも救われたらと思ってしまうから。あの時出来なかったことをずっと後悔しているから。

「絶対元の関係に戻れる。だって最強の六人なんでしょ」

 少女が目を見開いた。そして私と目を合わせる。

 

「いつか一緒に話せる日が来る。その時はもしかしたら今と全然違う世界に変わっているかもしれない。でも最強の六人が離れることはないの。それはもう決まっていることなの」

「なんで知ってるの。……お姉ちゃん、誰?」

「私は楓。夢咲楓」

「お姉ちゃんが……楓?」

「うん。だからさ、明日皆で話すんだよ?」

 私が目線を送ると壱希は少女を降ろした。地面に真っ直ぐ立った彼女はよく見ると私とあまり変わらない背丈だった。はじめよりもどこか大人びた表情の少女を見て私は胸を撫で下ろす。

「家一人で帰れる?」

「はい。ありがとうございました。」

 律儀に頭を下げる少女。私は最後、彼女に伝えたいことがある。

 

「栞」

「えっ」

 栞は名前を呼ばれると思っていなかったのか、勢いよく頭を上げる。

「生きていてくれてありがとう」

 栞は何も言わずに頷くと前に向き直って歩き出した。私たちはただその背中を見つめ続ける。そして祈る。もうこんなところに来なくて済むように、最強だった六人が復活するように。

 

 振り返る直前に見えた彼女の口角はきっと上がっていた。


 

 * * *



 あ。

 

「栞!?」

 颯の言葉で初めて自分の瞳から何かが零れていることに気づいた。本当に突然の出来事だった。

 でも私はすぐに何が起きたかを理解した。そしてそれを理解した瞬間、自然と引き攣っていた頬が綻んだように感じた。

「颯、大袈裟過ぎだって」

「だって、栞がいきなり泣き出すから」

 颯は私のことをよく心配してくれる。共同生活が始まって以来、颯の優しさにどれだけ救われたことだろう。

「向こうの二人、上手くやってくれたみたい」

「壱希と楓?」

「うん」

 私の中でいつになってもぐるぐる渦巻いていた闇があの一瞬で軽くなった感覚があった。おそらく楓が五年前に何かしたのだろう。

「たった今ね、私たちの世界が繋がってることが証明されたの」

「えっ?どういう意味」

「楓が多分五年前の私を救ってくれたんだ。その救いが今に繋がった」

「じゃあさっき泣いてたのって」

「うん、そういうことだと思う」

 颯が満足気な顔をした。

「俺にはよく分かんないけど、栞がそう言うってことは本当なんだろうね。」


「あ、壱希からだ。もしもし?」

 しばらくして颯に壱希からの着信があった。

「もしもし颯?俺たち気付いたら並行世界に戻ってた」

「え、五年前の世界は?」

「さっきまでいたんだけど、急に音が無くなって。まさかと思って周りを見てみたら並行世界特有の無感情人間で溢れててさ」

 私も壱希の声を颯と一緒に聞いていた。二人は楓の腕の力で過去の世界に行ったが、帰りは何もせずに戻ってきた。一見理解不能な事象に思えるが、PMOの業務をしていた時どこかでそんな事例を見たことがあった気がする。行きの条件はあるが、帰りの条件は無い。そんな不思議な現象。

「壱希?以前そういう現象が起きたことがあったの。それについて私も調べてみるから、とにかく今はPMOに注意して家に戻ってね」

「分かった」

「あ、あとさ。もしかしたら楓の身に何か起こるかもしれない」

「それって……」

「私もまだ分からない。でも楓のことはお願い、壱希」

 うん。という重々しい壱希の声が最後だった。

 隣に座る颯は心配の眼差しで私を見つめている。颯には今のうちに伝えておいた方がいいかもしれない。

「颯」

「何?」

 彼はやはり勘が良い。次に話される内容の重大さを何となく分かっていそうだった。

「颯に伝えておきたいことがあるの」

 

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