第1章 エピローグ
酒造工員アベル・ラッドのバラックの中は、オイルランプの灯で暖色に染められていた。
ジェフ・マクレガー警部はその家の中で、壁を見つめていた。壁は子供が喜びそうなピンクホワイトのペンキで塗装されていた。もちろん、アベルの手によるものだろう。
壁際には、ディズニーキャラクターの人形が、いくつも置かれていた。ミニー、エルサ、ベル……。
棚には、地下鉄マルタにおいてはかなり高額で販売される、子供向けのお菓子がいくつか置いてあった。レイズのポテトチップス、ネイチャーバレーのチョコレートバー、シュガーフォナのグミ。
そう、そこは親子の慈しみの家だった。
椅子に座ったままじっと顔を下げているテレサとエイミーにジェフは言った。
「もうわかってると思うけどね、アベルは戻らない」
テレサは両手で顔を覆った。エイミーは大粒の涙を流し、肩を震わせた。
ジェフは、深くもあり静かでもある口調で言う。
「わたしは中央自治政府から与えられた権限で、自己の判断で遺族に犯罪被害者給付金を給付できる立場にある」
ジェフはテーブルの上に、分厚い紙幣の束を置いた。
「これは犯人たちのアジトから押収した金の3分の2だ。これであなたたちの傷が癒えるとは思えないが、わたしにできるのはここまでだ」
テレサは顔を抑えたまま、身動きひとつしなかった。エイミーの涙が止むこともなかった。
ジェフ・マクレガーは、静かにその家から立ち去った。
静かで薄暗い配電室……。
ジェフはコーヒーが好きだった。
マルタではコーヒーは酒よりも高価だ。
ジェフは少しだけインスタントコーヒーを持っていたが、めったに飲むことはなかった。
だが、今日はどうしても飲みたい気分だった。
小型コンロで湯を沸かす。熱湯がはいったカップに、スプーンで2杯のインスタントコーヒーを入れる。香りを嗅ぎながら、スプーンでゆっくりとかき混ぜる。
一口飲んだ。
美味いとは思った。ジェフはしばらくの間、口の中に広がるコーヒーの香りを感じる。
やがて、ジェフは思った。
人は生まれながらにして善か? それとも悪か?
また一口、コーヒーを飲む。
ふと、ドストエフスキーの有名な一節を思い出した。
〝わたしはなにか善を行おうとする希望を持ち、そこに悦びを感じることもできる。だが同時に、悪を行いたいとも思い、そこにも悦びを覚えることができる〟
ジェフ・マクレガー警部は、もう一口コーヒーを飲んだ。
第1章 「斧の魔物」終
地上は滅んだ ~蒼然の警部~ 近藤瑞穂 @CosmicMirror
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