5.【おかえりなさい。私のかわいい天使】
はじまりは魔女の一言でした。
「雨が降りそうね」
村の中心部で占いをしていた最中のことです。その呟きが、一番最初の
周囲を取り囲んで占いに興じていた村娘たちは、きょとんとして談笑をやめます。揃って空を見上げます。あっぱれな晴天が広がっています。
「とてもいいお天気ね」
「ほんと。ねぇ、本当に降るの?」
「なにいってるのよ、この人の天気占いが外れるわけないわ」
若い娘たちは一人がしゃべると、口々にしゃべりだします。魔女は空の奥の奥まで見透かすように眺めたあと、膝の上に広げていた本をぱたんと閉じました。
「村の人達に伝えなくちゃ。あなた達も、降り出す前にお帰りなさい」
「やだ、そんなに早く降り出すの?」
娘たちはおろおろとして大急ぎで荷物をまとめ、それぞれの家路を急ぎ始めました。その様子を見ていた人々も雨に備えなければと動きます。
途端にせわしなくなった村の中心で、魔女は一人、落ち着き払って頭上に広がる涼やかな青色を見上げます。
「きっと、大雨になるわ」
そうして彼女も立ち上がり、村の外れの我が家を目指すのでした。
嵐が来る直前というのはいやに静かで、そして胸騒ぎを誘うような風が吹き始めます。
魔女の占いは風に運ばれるようにあっという間に村の中に知れ渡りました。
嵐の予感を触れまわる魔女の横を、村人が慌てて通り過ぎます。不揃いな足音に合わせて、どこからか雲が雷鳴をかき鳴らします。やがてぽつり、ぽつりと、雨粒が地面を打ち始めました。
それは意外にも、穏やかな訪れでした。魔女の裾に追いついた雨足は、くすぐりのような小雨でした。風が一足早く雨を連れて来たのです。
もてあそばれる髪の毛を押さえ、彼女は歩調をゆるめます。
周囲にいた村人がわっと騒ぎ立てます。
「降ってきたわよ!」
「すぐに嵐がくる」
「みんな、家の中に入れー!」
「……まぁ、風が」
「はやく帰らなきゃ」
「いそげいそげ」
「おかえりなさい」
窓が固く閉ざされます。扉に鍵がかかります。騒々しく活動を止めていく村の片隅で、魔女はゆるやかに両腕を広げ、その胸の内側に風を抱き留めました。
「また私のかわいい天使が帰って来たのね……おかえりなさい」
小雨に降られながら、魔女は夢見心地です。雨粒が草花を小突きます。それすら音楽です。軽やかな足取りが、彼女を踊らせました。
そんな彼女を、青年は見ていました。
「これから嵐だっていうのに、なにしてるんだよ、まったく」
彼女をつかまえて彼女の家まで送り届けた青年は、手際よく戸締りを完了させます。
外はいつしか嵐が到着し、雨と風が吹き荒れています。
「いや、いい。どうせ分かってるからね。天使がいたんでしょ」
「あなたにもあの子のことが分かるようになった?」
「さーね。……ところで、なにしてるの?」
施錠した窓が動かないことを確認した青年は、後ろでゴソゴソと動き回る魔女に気がつきました。
カバンに服や、家の中の物をしまっています。まるで旅の支度でした。
「実は、ね。ここを出ようと思うの」
「は?」
魔女がはにかみます。雨が窓を激しく叩いています。
「ずっとあの子を待つだけだったけれど、今度はあの子の行く先について行ってみようと思うの。ふふ。長いこと生きてきたけれど、初めての試みよ」
「天使についていく、の? この村を出て?」
「ええ。ついさっき、あの子が風になって帰って来たの。風の羽で、どこか遠くまで吹いていくつもりなんだって。素敵よね」
「いやいや、待ってよ」
じくりと痛んだ脳みそを額ごしに押さえ、青年は魔女の手から荷物を取り上げました。魔女の制止も聞かず、カバンの中の物をどんどん戻していきます。
「こら、やめて」
「わざわざ村を出る必要なんてないだろ、またいつもみたいに天使は帰ってくるよ」
「待つのは好きよ。この村も。けれど、旅も良いものだわ」
「いいや、良くないね。もっとよく考えるべきだ」
服をベッドの上に放ります。空になったカバンをひっくり返す青年の腕に、魔女の手が添えられました。細い指にとらえられ、青年はようやく彼女を見ました。
「お願いよ、私を止めないで。ボク」
しかし。彼女は青年を見ていませんでした。
「――ダメだ」
ワンピースの下で花は踏みにじられてしまいました。
全身を内側からむさぼられるような激情に突き動かされた青年は、魔女の両手をひねり上げます。その体を引き倒して、そして、
夜が明けてもなお嵐は続いていました。
外はいまだに豪雨と狂ったような風に荒れて、夜半の暗闇を保ったままです。部屋の中も似たようなものでした。ひっくり返った服があちこちで散らばっています。
魔女がのそり、と起き上がりました。なにも身に着けない体が寒そうです。布団を引き寄せ、そしてふと、むき出しのお腹に触れました。
「……ふ、ふふふ」
そのあたたかさに笑みが溢れます。
「あははっ」
笑いは大きくなりました。乱雑な部屋に響き渡りました。ベッドの上で魔女の笑い声が跳ねました。隣に横たわっていた青年が目を覚まします。なにごとだろうかと魔女を見ました。
彼女は今生で一番の幸福のさなかにありました。
「あの子が帰ってきた。ようやく、私の元に、またここに……なんて素敵なの」
裸のお腹を抱きしめます。
「おかえり。私のかわいい天使」
そこに宿った、一等大切な天使へ囁きます。暗闇の中で、魔女の体は真っ白に浮かび上がって見えました。そこは立ち入ることの許されない聖域と化しているように感じて、隣にいるはずの青年は、伸ばしかけた腕をだらりとベッドに預けました。
慈愛に狂った魔女を見つめる青い瞳から一粒、光が流れ落ちたのです。
『気狂いの魔女』/終
気狂いの魔女 一野 蕾 @ichino__
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