4.【かじってはいけない果実】


 あれは母性のようなものだと言いました。


 遠い街からやって来たという魔女の言葉でした。


「でも……あの人は未婚のはずだよ」

「若いね。結婚して子を産んだから母というわけでもないんだよ。女というものは」


 老いた魔女は笑い、手にした赤い実をかじろうと口を開けました。


「あ、取引前のは食べないでください」


 むき出しにした歯を渋々としまいます。魔女にも種類があるんだな。と少年は思いました。

 いえ、彼はもう少年ではありませんでした。月日が巡り、彼は青年と呼べるほど立派な体躯の男へと成長していました。青空をはめこんだ瞳だけが変わらずの面影を保っています。

 その目をいぶかしげに歪めました。


「だからって、ただの葉っぱや動物に母性を向けることなんてある?」

「バカだね。用があるのはいつだって中身の方さ」


 手中の果実を様々な角度から眺めまわしたあと、カゴの上で実を手放します。ゴロンと転がった鮮やかな赤色がさらに山を高くしました。


「中身?」

「天使のことだ。あん人には唯一で特別な天使がいるのさ。その天使は毎度、植物や動物に生まれ変わってあれに会いに来るんだ。あん人もそれを分かっていて、見分けもついてる」


 めくるめく魔女との日々を思い出す中で、青年は合点がいきました。


「だから、『おかえり』なのか」


 魔女が天使を見つけるたび、口にする挨拶の一つでした。彼女のそれはぬるま湯のような温度を持つ言葉でした。花に水をやるように、愛猫を腕に抱くように、慈しみに溢れたその一言を、青年は彼女から贈られたことがありませんでした。

 当然のことだったのです。それを贈る相手はずっと他にいたのですから。

 少年が青年にかわるまでの間、魔女は何度その言葉と想いを天使に差し出したのでしょうか。天使は何度それを受け止め、何度地上に現れたのでしょうか。

 かつて少年の心に突き立てられたまま抜けない爪が、また深く突き刺さるのでした。


「いちいち生まれ変わるなんてことしないで、いっそこっちにい続ければ楽なのに。天使にそれはできないの?」

「さあね。神の生んだものはみな天の使い。その枠から外れることはできないんじゃないのかい」

「ふうん」


 所詮は神のものだと老魔女は話します。そうして、唐突にずずいと身を乗り出します。


「そしてここからが、あれの一番変わってるところだ。あたしらは魔女、魔法使いだ。魔法さえあれば、天使の羽だってもぐことができる」

「そうなの?」

「ああ! だっていうのに、あの魔女はそれをしない。代わりになにをしてると思う?」


 青年はしばし思考しました。が、なにも浮かばず肩をすくめました。


「ただ待ってるんだ! 大切な天使が、いつか本当の意味で自分の元に帰ってくるのを待ってる!」


 青年は老魔女の勢いに気圧され、徐々に背をのけぞらせていきました。腰の曲がった老女が、両腕を左右に広げ、覆いかぶさるように近寄ってくるのです。影に飲み込まれるような奇怪な気持ちになりました。


「それは、あー。確かに変だね。でもいいんじゃない? 天使の羽を取るなんて野蛮だし、さ」

「お前は分かってないよ。あれが何十年生きてると思ってんだい。今にも本当に気が狂って、自分から天使に近づいちまうかもしれないよ」


 老魔女は、ああ、おっかない。と自分の発言におびえたように身を引きました。


「取引は無事終わったね? じゃああたしはお暇させてもらうよ。こっちまで狂わされたらたまったもんじゃない……」

「待って」


 山盛りの果実が入ったカゴを魔法で浮かび上がらせた老魔女の背中を呼び止めます。


「天使に近づくって、どういうこと?」


 果樹園の木々を背に、青年はうがたれたように立ち尽くしています。どこからか吹いた風が枝を揺らし、果実が一つ地面へと落ちました。

 老魔女が枯れ枝のような人差し指を操って、その実を青年の手へと持たせます。


「分かるだろう。命あるものが生まれ変わる前にゃ、一つやらなきゃならないことがある」





 魔女はいつも黒い恰好で、それが目印です。

 日陰にいるとうっかり見過ごしてしまうこともしばしばですが、今日に限っては、青年は決して彼女を見失うことはありませんでした。

 木陰にワンピースの裾が広がっています。


「あの方はお帰りになったようね」

「……凄いね。魔法ってなんでも分かっちゃうんだ」


 年老いた魔女は、薬の材料にすると言ってここの果樹園の果実を引き取り、己の街へと帰ってゆきました。


「残念だわ。同業者に会う機会はとても少ないの。それにここの果実に目をつける人も……ふふ。あの方は見る目があるわね」

「生産者の一人として喜ばしいよ。ところで、その手の実はどうしたの」


 魔女の両手はたった一つの赤い丸を抱えていました。


「勝手に獲ったわけじゃないわ。ついさっき、私の手の中に落ちて来たのよ。なんだか愛着が湧いてしまって――」


 言葉が続くことはありませんでした。青年がその実を奪い取り、かじりついたからです。

 歯を立てたそこから溢れ出した甘い水分がじゅわりと音を立てます。


「まあ。果樹園の実は勝手に食べてはいけないんじゃなかったかしら」


 魔女から注がれる目線をほどくように空へ目をやり、はがれた赤い皮を咀嚼しました。


「別に、いいよ」



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