緑のワンピースの女
さかもと
緑のワンピースの女
最近、俺の自宅の近所に新しく居酒屋ができた。
俺の自宅から最寄り駅までの道路脇にできた居酒屋で、毎朝の通勤時に看板が目に止まる。最初は、「あ、こんな所に新しく居酒屋ができたんだな」くらいに思っていた。
ある時、その居酒屋の看板の横に、大きなポスターのようなものが貼られていることに俺は気付いた。そのポスターには、大きな文字で「カレー大王のYouTube、始まります」というキャッチコピーと、坊主頭にした小太りの中年男性の顔写真が印刷されていた。
「なんだこれは?」と思った俺は、他に何か情報はないのかと、そのポスターの周囲を見回してみたが、特に目立つようなものは置かれていなかった。
俺はちょっと考えて、きっとこの写真の男性は、この居酒屋の関係者、例えば店主か誰かで、彼がYouTubeチャンネルを始めることにしたのだろうと思った。
企業やお店の販促ツールとして利用する為に、YouTube上で動画配信を始めるといったことは、最近ではよくあることだ。「カレー大王」というのが何なのかはよくわからないが、この居酒屋も、なんらかの形で動画配信を始めることにしたのだろう。
初めてそのポスターを見かけた朝、俺は通勤電車に乗車すると、スマホを取り出して両耳にワイヤレスイヤホンを装着した。そして、スマホのYouTubeアプリから、「カレー大王」と検索してみると、ずばりその名前のYouTubeチャンネルが結果欄に表示されてきた。そのチャンネルの説明書きを読んでみると、「カレー大王がお送りするカレー専門チャンネル。関西圏のカレー専門店の紹介や、普段は居酒屋を運営するカレー大王の日常など、色々なことを配信していきます」と書かれてあった。
きっと、あの居酒屋の店主の好物がカレーなので、カレーにまつわる専門チャンネルを始めたといったところだろう。そして、配信を続けていく中で、さりげなく自分の居酒屋の紹介もするようにしていき、そこから販促にも繋げていくことを目的としてやろうとしているのではないだろうか。
俺は、スマホを操作して、そのチャンネルでそれまで投稿されてきたいくつかの動画を適当にパラ見してみた。その内容はというと、関西圏で個人営業をしているカレー専門店へ実際に足を運んで食レポしてみたり、あの居酒屋の中でカメラを回して、常連さんとたわいもない会話をしている様子を配信してみたりといったもので、これといって特徴のあるチャンネルではなかった。
チャンネル登録者数は今のところ30人あまりしかいない。たぶんそのほとんどが、あの居酒屋の常連さんなのではないか。だが、坊主頭で小太りの店主が、ちょっとユーモラスな身振りや話し方で動画を進行していくので、観ていて退屈だとは感じなかった。今はまだ内輪でわいわい盛り上がっているだけだろうが、その内、カレーマニアみたいな人たちの目に止まることがあって、そこからアクセス数が爆上がりする可能性はあるんじゃないか。俺にはそう思えた。
俺はスマホの画面をスクロールすると、「カレー大王チャンネル」のチャンネル登録ボタンをタップしていた。
それからしばらくの間は、YouTubeアプリを開く度に、「カレー大王チャンネル」の新規動画をぼんやりと眺めるようになった。主にあの居酒屋の中で、常連客との絡みを撮影していることが多かった。俺はそんな動画を観ている内に、俺自身が店の常連になっていて、店主と親しく話をしながら飲み食いしているような気分になれて、ちょっと楽しかったのだ。
そんなある日のこと、「カレー大王チャンネル」内で、新企画が始まった。
その企画とは、「週一カレーの日」と題して、例の居酒屋で毎週木曜日の夜に、店主であるカレー大王が腕を振るって調理したオリジナルカレーを客に振る舞うというものだった。
その企画動画を観てみると、店主が特別に考案したレシピに基づいたカレーを調理する様子や、店内の常連客にそのカレーを振る舞って感想を聞くといったことが行われていた。
俺もカレーは好きな方なので、自宅近くでこんなイベント的なことを毎週やっているのなら、一度食べに行ってみてもいいんじゃないかと思わされていた。もうすっかり、店主の狙いに嵌められてしまっているなと思いながら、俺は毎週その企画動画を楽しみに観ていた。
「週一カレーの日」の動画が配信開始されてしばらく経った頃、俺がいつものように、その企画動画を何の気なしに観ていると、ちょっと不審なことに気が付いた。
動画では大抵、常に店主が画面に入っているように画角が調整されているのだが、たまに居酒屋店内の一番奥の隅にカメラが向くことがあり、その時に一瞬だけ、緑色のワンピースを着た髪の長い女性が映り込むことがあるのだ。
居酒屋店内の壁や家具などが、全て茶系の色で統一されているので、緑色の衣服がアンバランスでとても目立つ為に、はっきりとそこに女性が立っていることがわかる。
最初は、常連客の一人がそこに立っているだけだろうと思っていたのだが、カメラが部屋の隅を横切る度に、その女性がぼんやりと立っている姿が目につくので、嫌でも気になってしまうのだ。
他の常連客は、店内に四つほどあるテーブルに着席して、みんな店主に声をかけながら、「本日のカレー」を黙々と食べている。もしも、その女性が常連客なのなら、同じようにテーブルに着席して食事しているはずなのに、それをせずにただ店内の隅の方でじっと立っているだけなのだ。もちろん、店主と何か会話のやり取りをしている様子もない。いや、そればかりか、むしろ店主は、そこに女性が立っていることに気付いていないかのような素振りすら見せている。
俺はスマホを操作して、動画内で女性が映り込んでいる場面で、動画の再生を一時停止してみた。
居酒屋の隅に立っているその女性は、長い髪を前にだらりと垂らしているので、顔の表情はよく見えない。目鼻立ちがなんとなく判別できるくらいで、そこから視線や感情を読み取るようなことはできなかった。
俺は、もう少し調べてみようと思い、「カレー大王チャンネル」の過去の投稿動画を確認してみることにした。
「週一カレーの日」として先週に投稿された動画を見てみる。今週の動画と同じ構成になっているが、やはりカメラが部屋の隅を横切るときに、緑色のワンピースの女性が映っていた。動画の始まりから終わりまで確認してみたが、合計で三度映り込んでいた。
続けて、先々週の動画から過去にさかのぼって動画を全て確認してみたが、結果は同じだった。
部屋の隅には、あの女性がずっと立っているし、店内の誰もがその存在を無視しているかのように振る舞っていた。
ここまでずっと動画を確認し続けてきた俺は、もうあの緑のワンピースの女性の正体が何なのか気になって仕方なくなってしまっていた。
ふと、俺はあることを思いついた。動画のコメント欄で、店主に質問してみるというのはどうだろう。
俺は早速、「週一カレーの日」の最新動画のコメント欄に、質問を投稿してみた。
『初めまして、いつも楽しみに動画観ています。この動画を観ていてちょっと気になったのですが、店内の奥の隅の方に、緑色のワンピースを着た女性が立っているのですが、あの方は、お店のスタッフの方なんでしょうか? カメラによく映っているのに、何もリアクションがないので、いつも不思議に思っています』
俺がそう投稿すると、その日の夜に、コメントに返信がついていた。
『いつも動画視聴ありがとうございます、カレー大王です。店内奥に緑色のワンピースを着た女性が立っているとのことですが、こちらで動画を確認してみたところ、誰の姿も映っていないように見えるのですが……スタッフにもお客様にも、この日はそのような服装の人物が見当たらず、はてさて?????』
俺はその返信コメントを読んで、そんなはずはないと思った。
女性が映っていないとは、どういうことなのだろう。
実際にそれから、また動画を見返してみたのだが、確かにあの女性の姿がはっきりとカメラに映っていることを確認した。まさか俺にしかあの女性の姿が見えていないということはないだろう。
俺は、その返信コメントに対して、さらにコメントを打とうかと思ったのだが、何と打ってよいのかわからなくなってしまったので、結局何も打たずにスマホのアプリを閉じた。
次の木曜日の夜、会社から帰宅する途中で俺は、例の居酒屋に立ち寄ってみることにした。
「週一カレーの日」イベントは、毎週木曜日の夜に開催されていることはわかっていたので、それに合わせて、晩飯として店主のオリジナルカレーを食べにいくことにしたのだ。
もちろん、俺の本当の目的はカレーではなく、例の緑のワンピースの女の正体を確かめることにあったのだが、そんなことはお首にも出さずに、通りがかりに晩飯を食べに寄ったサラリーマンの体で、件の居酒屋に入店した。
時刻は夜の七時を回ったところなので、店内は程よく混雑していた。
店に入ると、カウンターの奥から、あの店主が「いらっしゃいませ!」と元気よく声をかけてきた。こちらは、動画でいつも見慣れているので、顔見知りの知り合いから声をかけられているような気持ちになる。
「あの、本日のオリジナルカレーを食べに来たのですが」と告げると、店主はにっこりと笑って、「ありがとうございます、そちらの奥の席へどうぞ」と言われる。
奥の席へ腰掛けると、店主がお冷を持って俺の側まで来た。
「あの、申し訳ないのですが、当店ではYouTubeで動画配信をさせていただいておりまして、本日のカレーイベントの日には動画を撮影させていただいております。お客様の姿が映り込んだりすることもあるかもしれませんが、何卒ご了承をお願いいたします」
店主からそう告げられたので、俺は、「わかりました」と言って頷いた。
「それでは本日のカレーはスパイスチキンカレーでございます。ご用意させていただきますので、少々お待ちくださいませ」
店主はそう言うと、カウンターの奥に戻って行った。
俺は店内をぐるりと見回した。十メートル四方の客席スペースに、テーブルが四つあり、カウンター席も含めてほぼ全ての座席に客が腰掛けており、全員で黙々と皿の上のカレーを食べていた。
問題となっていた、店の奥の隅のあたりのスペースに目をやると、そこには木製の壁があるだけで、緑のワンピースの女はおろか、人が立っているような気配すら感じることができなかった。
俺は訝しく感じながら、上着のポケットからスマホを取り出して、YouTubeアプリを立ち上げる。「カレー大王チャンネル」を開いて、最新の「週一カレーの日」の動画を倍速で再生してみた。そこに確かにあの女が映っていることを、もう一度確かめたくなったからだった。
けれども、動画を最後まで確認した俺は自分の目を疑った。不思議なことに、店内の隅が映るタイミングで、あの女が映り込むことが一度もなかったのだ。
見落としているだけなんじゃないかと思った俺は、もう一度最初から動画を再生しようとした。
その時、「お待たせいたしました!」という店主の声が背後から耳に入ってきて、俺は我に帰ってスマホをポケットにしまった。
席にカレーが運ばれてくる。パッと見た感じでは、特に何の変哲もない普通のカレーだった。俺は店主に「いただきます」と言うと、スプーンを取って食べ始めた。
それにしても、納得のいかない気持ちで一杯だった。今しがた観た動画では、緑のワンピースの女は跡形もなく消えていたように見える。動画の中に、女がはっきりと映っている場面があれば、それを店主に見せて確認してもらうことができるんじゃないかと思ったりしていたのだが、これではどうすることもできない。
判然としない気持ちのままで、カレーを食べていると、いつの間にか、店主が俺の正面に立っていることに気が付いた。
「お客様は本日が初めてのご来店ですよね?」
俺が「はい」と答えると、店主は満面の笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「当店では、YouTubeの動画配信で、お客様からカレーの感想などをいただいているのですが、もしよければ、今から軽く撮影させてもらっても大丈夫でしょうか?」
それを聞いた俺は、快く承諾した。以前から「カレー大王チャンネル」をよく観ていて、一度来店してみたかったということを店主に伝えると、本当に嬉しそうな顔をして喜んでくれた。
そして、スマホカメラを構えたスタッフの男性が店主の後ろに立ち、店主から俺がインタビューを受けるような形で撮影が始まった。
最初は、住んでいる場所や年齢について尋ねられ、その後で、今食べているカレーがどうかといった感想について尋ねられた。俺は、緑のワンピースの女のことが気になっていて、正直、味のことなどよくわからなくなっていたのだが、「スパイスの香りが絶品です」「鶏肉がホロホロで美味しいです」とか、適当に頭に浮かんだ言葉を並べ立ててお茶を濁しておいた。
一通り質問が終わると、店主は深々と頭を下げて、「ありがとうございました」と言って、撮影が終了した。
三分ほどのことだったが、カメラを向けられているということで、ちょっとした緊張感を味わっていたのだろう。俺は、ほっとして、残りのカレーを無言で黙々と食べ続けた。
カレーを全て平らげた俺は立ち上がり、カウンターの方へと向かった。カウンターの隅にあるレジの前に立って、「お勘定お願いします」と店長に声をかける。すると、店長がレジの向こう側に回って、「千円になります」と俺に告げた。スマホカメラを持ったスタッフが俺たちのすぐ側まで近づいてきて、カメラをこちらに向けた。この精算のやり取りも、もしかしたら後で編集して、動画配信に使おうとしているのかもしれない。俺は、カメラには特に意識を向けずに、財布から千円札を取り出して、店主に「ごちそうさまでした」と言いながら手渡しした。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
店主からの言葉を背に受けながら、俺は店のドアを開けて外へ出た。
結局、あの女の正体を掴むことは、何もできなかった。あのお店に行けば、何かわかるかもと期待していたのだが、全くの徒労に終わってしまったことになる。
俺は、一日の仕事の疲れに加えて追加で疲れが加算されてしまったようで、げんなりとした気持ちになっていた。
それから数日後、自宅にいる時に、YouTubeアプリを立ち上げると、「カレー大王チャンネル」の新着動画が投稿されていることに気付いた。
先日、俺も参加した「週一カレーの日」に、お店の様子を収録した動画だった。
おそらく俺のインタビュー動画もそこには含まれているのだろう。
早速、動画を再生してみた。
まず、動画の冒頭で、店主の顔がアップになって挨拶するシーンから始まり、次に、当日のオリジナルカレーの仕込みのシーンが撮影されていた。五分ほど経った頃に、客が店に入店してくる様子や、彼らにカレーを振る舞っている様子が流れる。そして、客に向けたインタビューのシーンが始まり、そこには俺自身も登場していた。特になんということもない普通の受け答えをしている自分に対して、もうちょっと何かウケを狙えそうなことでも喋っておけばよかったと若干後悔する気持ちが芽生えていた。
何人かの客に対するインタビューのシーンが終わった後、客が続々と退店していくシーンが流された。
ここでも、俺がレジ前で店主とやり取りしたシーンが使われていた。
いつも観ているYouTubeチャンネルの動画に、こんなにも自分がフューチャーされた状態で出演していることに、どこか奇妙な感情が湧いてくる。まるで自分であって、自分ではないようなものを見させられているような不思議な感覚だった。
そのシーンでは、俺が店主に「ごちそうさまでした」と言いながら、千円札を渡している場面が流れていた。
店主の肩越しに撮影されているので、俺の上半身が正面から映しだされている。
店主が俺から千円札を受け取り、俺に最後の挨拶の言葉を投げかける。その言葉を受けながら、俺は店主に背を向ける。
その俺の背中に、緑のワンピースを着た女が、ぴったりと身を寄せていた。
ちょうど俺の背中に張り付くような状態で、でも両手はだらりと下げたまま、突っ立っているのだ。
出口に向かって歩き出した俺の背中に密着するように、緑のワンピースの女も移動していく。
動画の中の俺は、女の気配など何も感じていないかのように、平然と店のドアを開けて、外へ出て行こうとしている。
緑のワンピースの女もぴったりと離れずに、そのままずっと俺の背中に張り付いている。
俺が店から出て行き、ドアが閉まろうとしたその時、女が、首だけをさっと後ろに向けてカメラの方を向いた。
長い髪から垣間見える眼球が、こちらを見据えていた。
動画を観ている俺の目を、動画の中の女の目が、じっとりと見据えていた。
緑のワンピースの女 さかもと @sakamoto_777
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