第2話 猫をPCケースに入れたら世界の狭間に繋がった
亜鳥衣の家は学校の近くにある二階建ての一軒家で、ぴりかと瑠流も何度か遊びに来たことがあった。
玄関のドアが開くと、小さな三毛猫が駆けてきて亜鳥衣の足元で甘えはじめる。
「お邪魔します……」声を落として控えめにぴりかが挨拶した。
「今日はお母さん、いないから」
亜鳥衣がしゃがんで猫を抱きかかえると「にゃー」と鳴きながら小さな体を彼女の腕に預け、安心したように丸くなった。
「かわいい」瑠流が楽しそうにいう。
「ちょっと狭いけど我慢してね」
亜鳥衣は子猫を撫でると、そのままスクールバッグの中へ誘導する。
子猫は少し戸惑った表情をしたけれど、するりと中におさまった。
「ねえ、もう一度聞くけどさ。本当にやるの?」ぴりかが不安そうに呟く。
亜鳥衣と瑠流はぴりかを見て、きょとんとした顔になった。何いってるの? とでもいいたげだ。
亜鳥衣はぴりかを無視して家の奥から工具をいくつか持ってきた。
ぴりかはひとつため息をついて、大人しくふたりについていくことにした。
このふたりを放っておいたら、何をやらかすかわからない。
自分がちゃんと監督しなきゃ。
学校に動物を入れるのは禁止されてる。ルールを破るのは怖いけれど、放置したらもっと厄介なことになりそう。
なんだかんだ、亜鳥衣や瑠流と一緒にいるのは悪い気分じゃないし……。
そんなふうに心の中で言い訳をしながら一緒に学校へ戻るぴりかだった。
校舎内に、もうほとんど生徒はいなかっか。
バッグの中で子猫が「にゃ」と鳴きそうになると、亜鳥衣は、しーっと唇に人差し指をあてた。
「あら、まだ残ってたの?」
不意に投げかけられた女性の声にぴりかがギクリとしてふり向くと、そこにはエプロン姿の保健室の先生が立っていた。
背中に冷たい汗が流れる。
バッグの中からひょっこり顔を出した子猫が「にゃあ」と小さく鳴いた瞬間、先生の目がわずかに細くなった。
「あら、かわいい猫ちゃん。でも、校舎に動物を入れるのはダメよ?」
終わった――。
ぴりかはすべてを諦めて隣にいた亜鳥衣を見た。
ところが彼女はまったく動じたようすはなく、それどころか笑みまで浮かべていた。
「はい。これはその……担任の岩倉先生が、理科の勉強で使うとおっしゃいまして」
ちょっと苦しい言い訳だけど、この状況で平静を保ちながら適当なことをいえる度胸に感心する。こういうところは見習いたいかも。
「岩倉先生が? そうなの?」
彼女は不思議そうな顔で亜鳥衣の顔をじっと見つめていた。亜鳥衣の目に動揺はない。
「それじゃ、失礼します!」瑠流がぺこりと頭を下げる。3人は挨拶をしてその場を離れ、そそくさと計算機室へと向かった。
「まだこっち見てるね。怪しまれてる。あまりゆっくりできないよ」ぴりかが小声で
「うん、さっさとやっちゃおう!」
そういって亜鳥衣はバッグの中の猫を抱きしめた。
†
ぴりかたちはなるべく目立たないように隅の席を選び、持ってきた工具で慎重にケースのカバーを外した。空いている隙間にバッグのまま猫をそっと入れる。
「にゃ」と鳴いて小さく身じろぎしたのがわかると、亜鳥衣は「ごめんね。ほんの少しだから」と安心させるように声をかけていた。
「今さらだけど、怒られないかな?」瑠流が小声で呟く。
「大丈夫。ケースのネジを外しただけだし、ちょっと試すだけ。一応スマホも入れておこう。猫の動画を流しておけば、本物の猫が鳴いても観測したことにならないから」と亜鳥衣。
そういうものなのかな?
彼女が慣れた手つきでスマホを操作すると、スマホからにゃあにゃあと猫の鳴き声が響きはじめる。バッグと一緒にスマホも入れて、カバーを閉める。計算機室にいる何人かの生徒が、けげんそうな顔でこちらに視線を投げるのがわかった。
「準備は整ったね」亜鳥衣がいった。
早速パソコンを起動して、色々なソフトを立ち上げてみた。
なるべく大きな負荷がかかるように、複数のブラウザで動画サイトなどをたくさん開いてみる。
「嘘でしょ。……なんか、パソコン速くなってない?」ぴりかが口にした。
「うん、明らかに速いね。低スペックのはずなのに」
3人は顔を見合わせ、驚きながらモニターを見つめる。
「Ap◯xをインストールしてみようよ」瑠流が提案する。
「いいね」亜鳥衣が同意した。
マウスを操作し、PCゲームのプラットフォームで目的のゲームをインストールする。驚くべきことに、通常なら時間がかかるはずの、巨大なサイズのファイルのダウンロードが一瞬で終わった。
「はや!」
3人は声をあわせて小さく叫んだ。
「どういうこと? 百歩ゆずってPCの性能が上がったとしても、通信速度まで上がるはずないよね?」ぴりかが疑問を口にする。
「うーん。確かに……」亜鳥衣も複雑な表情だ。
「見て! さくさくプレイできるよ!」
瑠流はこちらの疑問などお構いなしに、ゲームを楽しんでいた。
「それに仮に量子コンピュータになったとしても、グラボが強くなったわけでもないのに」
亜鳥衣は不思議そうな顔でモニターとPCケースを交互に見た。
ぴりかがぽつりと呟く。「パソコンって0と1のデジタル信号で動いてるんだよね?」
「そうだね」亜鳥衣は即答した。
「量子の重ね合わせって、0と1が同時に存在している状態のことだよね? シュレーディンガーの猫みたいに」
「そう!」
PCケースの中からにゃあにゃあと猫の鳴き声が漏れている。亜鳥衣の猫が鳴いているのか、スマホの音なのか区別はできない。
「猫の影響で0と1が同時に存在する状態になって、PCの処理速度が上がったってことは……」
ぴりかがさらに考え込むように顎に手をあてる。
「そろばんはどう?」
亜鳥衣の眉がぴくっと反応した。
「たとえば珠が下にあるときが0で、上にあるときは1って考えると、そろばんってデジタルっぽいよね」
「そう。そうなんだよ!」
亜鳥衣が興奮したまなざしでぴりかを見つめる。
瑠流は相変わらずゲームに夢中だ。
プレイしているのはFPS形式のチームバトルで、キーボードを叩きながら時々「味方が弱すぎる……」とぼやく声が聞こえる。
目の前のPCが実際に高速化していることは認めなきゃいけない。
じゃあ、珠が上にも下にも同時にある状態なら、そろばんも速くなる? どういうこと?
こうして考えてみると0と1で表現できるものは身の回りにたくさんあることに気づく。
たとえば電気のスイッチ。オンとオフ。0と1だ。鍵。開いてるか閉まってるか。信号機の赤と青。生と死……。
ふと誰かの気配に気づいて顔をあげると、担任の岩倉先生がこちらに近づいてきているところだった。
興奮していたせいか、気配にまったく気づかなかった。入口には保健室の先生も立っている。
「学校に猫がいるって本当か?」
PCケースの中からは、にゃあにゃあと鳴き声が漏れている。もう隠せない。
「逃げよう!」
ぴりかたちは急いでケースを開けて中からスマホと猫の入ったバッグを取り出した。バッグの口から猫が顔を出して「にゃー」と鳴いた。
「ああっ!」その瞬間、瑠流が悲鳴に近い声をあげた。
どうやらPCがダウンして、動かなくなってしまったらしい。
「観測によって猫の状態が確定したから、量子状態が崩れたんだよ。普通のPCに戻っちゃったんだ」亜鳥衣がいった。
わけの分からない出来事が続いて頭が痛くなるけれど、確かにこの状況、重ね合わせがとけてPCが負荷に耐えきれなくなったと考えるべきかも。
「待ちなさい!」体格のいい岩倉先生が怒鳴りながらこちらに向かってくる。
猫が一瞬の隙をついてバッグの隙間から飛び出した。そして、閉じ込められていたストレスを発散するみたいに縦横無尽に教室を駆けまわる。
「ほら、怒鳴るから怖がって逃げちゃったじゃないですか。まずは猫を捕まえましょう!」亜鳥衣が先生を非難した。
「お、おう。大きな声を出してすまん……」
先生の戸惑う顔が見えた次の瞬間、部屋全体がゆらいだ。
立ちくらみのような感覚で、意識を失いそうになる。見ると、亜鳥衣も同じように頭を押さえていた。立っているのがやっとみたいだ。
瑠流はぼんやり椅子に座って、虚ろな表情を浮かべていた。
「今までわたし、何してたんだっけ……?」瑠流がかすれた声で呟く。
「えっと、記憶が曖昧で。私も何がなんだか……」ぴりかは言葉に詰まりながらも、必死に意識をつなぎとめようとする。
「そうだ。Ap◯xとか……あれ? でも、学校のパソコンでできるわけ……」
視界が歪む。
記憶がバラバラに砕かれる。
まるですべての辻褄をあわせるため、現実が捻じ曲げられているみたいに。
「観測されたことで重ね合わせの状態が崩れたんだよ。確定した事実と矛盾しないように、過去に
「Ap◯xって、なんだっけ……?」瑠流がうわ言のように呟く。
「いや、それは覚えてるでしょ……」
あらがえない力が脳内にまで入り込んで、記憶が直接書き換えられているみたいだ。
みんなで過ごしたふしぎな放課後が、指の隙間からこぼれ落ちる砂みたいに消えていく……。
――いやだ!
ぴりかと亜鳥衣は、ふらつきながらも教室中を駆け回る猫を追いかけた。
猫は机の下をくぐり抜け、棚の上に飛び乗り、ひととおり暴れまわると、そのままドアの方へ向かう。
ドアを抜けた少し先で立ち止まって、こちらを見た。
その透き通った瞳に吸い込まれそうになり、思わず息を呑む。
「思ったんだけどさ。ドアも0と1で表現できるよね。猫がドアの内側にいる状態を0、ドアから出た状態を1と考えると……」ぴりかが呟いた。
「にゃあ」猫が鳴いた。
まるで、こっちに来てと誘っているみたいに。
亜鳥衣は小さく頷き、猫のあとを追って教室のドアの方へと歩みを進める。
彼女の足が、ドア――0と1を越える一歩手前で、立ち止まる。
そして、こちらに手を伸ばした。
「一緒に行こう」
そういって微笑む亜鳥衣の姿は、いつもとどこか違ってみえた。何が違うのかはわからない。でも、言葉では言い表せない神秘的な雰囲気がある。
「行くって……どこに?」
「いいから。こうしている間にも、どんどん記憶が消えちゃってる。さあ、行こうよ! 全部忘れちゃう前に!」
そのとき後ろから声がした。瑠流だ。
「ぴりかちゃん、亜鳥衣ちゃん。わたしも、いい?」
「もちろん!」ぴりかと亜鳥衣が声をあわせた。
ぴりかと瑠流は手を繋いで、亜鳥衣の待つドアの方へと近づいた。
そして、亜鳥衣と子猫の待つ
次の瞬間、学校の廊下の底が抜けた。
「きゃあああ!!」
落ちる。落ちる。落ちる――。
でも、不思議と風圧は感じない。
まっくらで息もできなくて、しだいに、落下しているのか、浮かび上がっているのか、その感覚も曖昧になっていく。
暗くてつめたい場所で、ひとりぼっち。
死ぬときってこんな感じなのかな? ふと、そんなことを思う。
縮こまりながら震えていると、声が聞こえてきた。
「大丈夫。見て。すごく綺麗だよ」
気づくと、目の前には子猫を抱いて優しそうにほほえむ亜鳥衣が浮いていた。
近くには瑠流もいる。
恐怖が少しずつやわらいでいく。
きっとそれは、隣で友だちが笑っていたから。
ぴりかは促されるまま、ゆっくりと周囲に目を向けた。
そこにあったのは。
見えるはずのない色。
触れられるはずのないもの。
聞こえないはずの音……。
ここはもう、学校ではなかった。
視界いっぱいに広がった光の粒子が、幾何学的な模様を描きながらうねり、様々な形をつくり、拡散する。
ぴりかも粒子と波になって、確率の海へと広がっていった。亜鳥衣も瑠流も同じように、空間を漂いながらその境界を失っていく。もう、全然怖くなかった。すっかり人の形を失ってしまったけれど、自分たちは確かにここで、重なりあって、繋がりあって、関係し合っていることがわかるから。
「ここは一体……?」
「宇宙のあらゆる可能性が、観測されるまで確定しない世界。0と1の狭間だよ」亜鳥衣が答えた。
ここは、時間も場所も、制約の
ぴりかは生まれて初めて、自分が宇宙の一部でありながら、宇宙そのものとして、あらゆるものと見えない糸で繋がっているのを実感した。
「どうして学校のドアがこんな場所に繋がってるんだろう?」ぴりかがゆらぎながら訴える。
「さあ……。事実が完全に確定する前だったから、世界が不安定だったのかな」
「あっ! あれ、わたしたちじゃない? でも少し違う……?」
瑠流のしめす方に視点を向けた。
宇宙のどこか。
自分たちによく似ているけれど、しかし絶対に自分たちではない3人の子どもたちが、笑いながらおしゃべりをしている。
これまで経験したことないはずなのに、泣き出してしまいたくなるくらい懐かしい、そんな感覚……。
「きっと、私たちは宇宙の別の場所でも友だちなんだね」ぴりかがゆらめく。
「ふふ」瑠流がぴりかの周囲をまわった。
「どうして笑うの? 亜鳥衣まで……」
「ぴりかって、しっかり者のふりして実は寂しがり屋だよね」
「……そんなことないし!」ぴりかは激しくゆれながら反論した。
まったく失礼してしまう。どうしてそう思ったんだろう?
「私たちは洞窟の焚き火が映しだす影みたいに、ひとつの光源から生まれて、いろんな場所で繋がりあってるのかもしれないね」亜鳥衣が輝いた。
「うーん。それなら本当の自分は?」瑠流が薄くなり震える。「影ばかりなら、本当の自分はどこにいるの?」
「もしかしたら本当の自分なんてどこにもいないのかも。私たちが『自分は何者か』って悩むみたいに、宇宙にたくさんいる私たちも同じことを考えてたりして」
ぴりかが円を描くように旋回する。「私たちはみんな、自分たちが何者かわからないまま、宇宙にある色んなものと観測しあってるのかな……?」
「うん。私たちは、私たち自身を含めた無数の存在と繋がり合って、はじめて存在できる―― 一見すると矛盾に満ちた、量子の影なのかもしれないね」
過去、現在、未来。
切り取られた瞬間が次々に折り重なる。
重なりあい、干渉しあい、時にはすりぬけ、次の瞬間、泡のように弾けて、再びどこかに漂いはじめる。
どこにでもいる可能性を秘めていて、どこにもいない――そんな不確かなものを探すみたいに。
どのくらい漂っていただろう。
しばらくすると、遠くでなにかが見えた気がした。
ドアだ。
「そろそろ戻る?」ぴりかが振動した。
「でも、戻ったら全部忘れちゃうんだよね。ドアを抜けた瞬間にすべての可能性がひとつに収束されて、学校のPCの性能が上がった世界や、この場所にいた記憶も……全部なかったことになる。せっかくわたしたちのことが少しだけわかりかけたのに」瑠流は不安そうにゆれた。
「きっとここは特別な場所じゃないよ」
亜鳥衣が優しくきらめいた。
「みんな忘れてるだけで、当たり前に存在してる普通の場所。だから来ようと思えばいつでも来られるはずだよ。……それこそ、猫がドアを通るたびにでも」
そして3人は
†
校門を出て帰路につくころには、すっかり陽が落ちていた。
「結局、何も起きなかったね」瑠流はがっくりと肩を落とした。
「まあ、そうだよね……」ぴりかはげんなりしていった。
「反省文10枚だって。だる……」亜鳥衣は心底面倒くさそうだ。
やれやれ。
結局、亜鳥衣の突拍子もない発想にふり回されただけだった。
もちろん普通のパソコンが量子コンピュータになるなんてことあるわけなくて、残ったのは校舎に猫を持ち込んで先生に叱られた結果だけ。
はあ、どうしてこんなことに。
「でもさ、ちょっとだけ楽しかったよね?」ぽつりと瑠流が呟いた。
「まあ……」「そうだね」
少し照れくささを覚えながら、陽が落ちて暗くなった道をとぼとぼ歩いていく。
あらためて考えると急におかしくなってきて、つい吹き出してしまった。
3人の笑い声が、夜の空の静けさに溶けていく。
亜鳥衣に抱かれながら、小さな三毛猫が透き通った瞳でこちらを見て、にゃあと鳴いた。
了
猫をPCケースに入れたら世界の狭間に繋がった話 つきかげ @serpentium
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