猫をPCケースに入れたら世界の狭間に繋がった話

つきかげ

第1話 シュレーディンガーの猫VSそこらへんの猫 

 放課後の窓から淡い夕日が差し込んで、教室が柔らかなだいだい色に染まる。

 廊下からは生徒たちの談笑の声。校庭では運動部の掛け声やボールを蹴る音がひびいている。

 日に日に冷たくなっていく風が、冬がすぐそこまで来ていることを教えてくれる。


 教室の中には、ついさっきまでいた大勢のクラスメイトたちの気配が少しだけ残っていた。

 一日の授業を終えた疲れもあって、なんだか眠たくなるような余韻が心地いい。


 そろそろ私も帰ろうかな。


 スカートの裾を軽く整えて、自分の机にかけてあったスクールバッグに手をかけると、天板に影が落ちたことに気がついた。

 顔を上げると目の前に友だちの亜鳥衣あといが立っていて、まっすぐこちらを見つめていた。


 一点の曇りもないガラス玉のような瞳でじっと見つめられると、胸のなかをくすぐられているみたいで、なんだか恥ずかしい。


「ねえ、ぴりか。聞いてくれる?」


 亜鳥衣はこっちを見たまま小さな声でつぶやいた。


「私、恐ろしいことに気づいてしまったかもしれない」


 濡烏ぬれがらすのようなしっとりとした黒髪が背中まで流れ、窓から差し込む光で毛先が白く光っている。

 綺麗だな――。

 つい見とれてしまっていたことにハッとして、少しだけ顔が熱くなる。


「どうしたの?」


 ぴりかは照れを隠すように、平静を装って言葉を返した。


「私たちは、もしかしたら本当の私たちじゃないかもしれない」


「え?」


 ぴりかは彼女の目を見つめ返し、小首をかしげる。


「自分ってなんだろうみたいな話? まあ、私もたまに考えることはあるけど」

「近いかな。でも、もっとこう、しなきゃわからない話というか」

「長くなりそうだし、帰るね」


 スクールバッグを手にとって教室の出口へと向かおうとすると、亜鳥衣は無言でぴりかの制服の襟首をつかんで、ぐいっと引っ張った。

 細い腕なのに、ものすごい力だ。

 そのせいで思い切り首が締まり、ぴりかは思わず「ぐえっ」と声を上げてのけぞる。なんなら目玉もちょっと飛び出た。


「やめて! わかった、わかったってば!」


 亜鳥衣って、時々こういうところがある。

 可愛いのにちょっと残念だから、彼氏ができた試しもない。

 まあ、私にもできたことないんだけど。


 制服の襟を整えながら亜鳥衣の方を向くと、彼女はふうっと一息ついてゆっくり話し始めた。


「最近、こんな記事を見つけたの」


 スカートのポケットからスマホを取り出し、画面を操作してぴりかに見せる。

 画面には新聞社のホームページが表示されていた。東大がシュレーディンガーの猫状態の高速生成に成功したという見出しが目に入る。


「シュレーディンガーの猫ってなに?」


 ぴりかは疑問に思い、画面を見つめたままたずねた。

 亜鳥衣がこういう話に詳しいのは知っていた。


「まず猫を箱に入れるでしょ。それで、開けてみるまでは中の猫が生きてるか死んでるかわからないってやつじゃない?」

「どういうこと? 生きてるに決まってるじゃん」


 亜鳥衣はこれみよがしに「はあ」とため息をついた。


 イラッ……。

 やっぱり帰ろうかな……。


「箱の中には猫と一緒に放射性物質が入ってるんだよ。それが一定の確率で崩壊すると、一緒に毒ガスも発生する仕組みになってるの。あー。詳しいことは帰ったら適当に調べておいて。ウィキペディアとかで」


「うざ……」ぴりかは顔をしかめる。


 この女はダメだ。

 黙っていれば可愛いのに、口を開くたびに残念な感じになっていく。

 こんな調子じゃ、一生ひとりぼっちになってしまうかもしれない。

 私が一緒にいて、支えてあげなきゃ。


「とにかく、死んじゃうってこと?」

「毒ガスが発生するとそうなるね」

「ええ……。どうしてそんなことするの?」

「ただの思考実験だよ。箱を開けるまでは猫が生きてるか死んでるかわからない。つまり、箱の中では生と死の両方が同時に存在してるんだよ」

「なにが『つまり』なのか全然わかんない」

「量子力学ではね、観測されるまでは状態が確定しないって考えるの。これが重ね合わせってやつだよ」

「へえ……?」


 ぴりかは口を半開きにしたまま、ぽかんとした顔で彼女を見つめる。


「それでね、ここからが本題なんだけど」


 亜鳥衣は少し真剣な顔になった。


「うち、猫飼ってるじゃん。ぴりかも知ってるよね。シュレーディンガーの猫が100%の重ね合わせになるなら、うちの猫もせめて70%くらいにはなるんじゃないかなって」


「……なるほど!」


 ぴりかが少し間を置いて、ポンと手を叩く。


「シュレーディンガーの猫が重ね合わせになるなら、亜鳥衣の猫も重ね合わせになるはず……!」


 少し考え込んで、「どういうこと?」再び疑問を投げかけた。


「いや、70%は無理でも、少しは頑張れそうな気がして」

「???」

「だから。猫をPCのケースに入れれば少しくらいは量子コンピュータ化しそうじゃない?」

「亜鳥衣って、本気なのか冗談なのかたまにわからなくなるよ」


 ぴりかは思わず頭を抱える。

 真剣に話を聞いていた自分が馬鹿みたいだ。


「でも、考えてみて。PCケースに猫を入れてみた人って、世界にどのくらいいると思う?」

「そんなこと考えるの、あんたくらいでしょ……」

「やってみなきゃわからないじゃん」


 少しだけムキになって抗議する亜鳥衣の姿は、やっぱりちょっと可愛いと思ってしまう。

 その時、前の席に座っていた友だちの瑠流るるがぱっと立ち上がり、ふたりの間にずいっと体を挟み込んできた。


「そうだよ!」


 ぴりかと亜鳥衣はびっくりして彼女のほうを見た。


「やる前から否定しちゃダメだと思う。そうやって、みんなつまらない大人になっていくんだよ!」


 瑠流は突然あらわれて、制服に包まれた小柄な体で精いっぱい胸を張り、得意げに言い放った。

 どうやら彼女は完全にあっち側みたいだ。


「そうだそうだ!」亜鳥衣は瑠流を味方につけ、水を得た魚のように意気揚々とぴりかに詰め寄った。

「ぐぬぬ……」

「あのね、ずっと聞いてたんだけど」瑠流が無邪気にいう。「箱から出たシュレーディンガーの猫って、ただの猫だから重ね合わせのスキルを失ってるってこと?」


 スキル?


「そうだよ」亜鳥衣は即答した。「シュレーディンガーの猫は、箱の中では生と死の重ね合わせの状態にあるけど、箱を開けた瞬間、ただの猫に成り下がるよ」

「でもさ、もし仮に箱から出たとしても、シュレーディンガーさんの飼っている猫はやっぱりシュレーディンガーの猫であることに変わりないよね。だったらスキルは失わないんじゃない?」


「それは違うよ。重ね合わせは、猫が誰のものかとか関係ないんだよ」

「じゃあ、そこらへんの猫は重ね合わせのスキル持ってる?」

「残念だけど持ってないよ」

「でも、そこらへんの猫をシュレーディンガーさんが『こいつ俺の』って言い張ったら、シュレーディンガーの猫になるんじゃない?」

「なるけど、量子力学と関係ないよね」


「じゃあさ、箱の中から、にゃーんって聞こえたら?」

「それは観測にあたるよ。にゃーんって聞こえたら、あ、生きてる、ってなるじゃん」

「でも中にスマホとかがあって、鳴き声の音声データが再生されてるだけかもしれないし」

「鋭いね。その可能性も考えるとまだ猫の生死は確定できていないから、重ね合わせもギリギリ保たれてる可能性があるよ」


「箱が透明で、その中で猫が元気に動き回ってるのが見えたら? しかもにゃーんって鳴きながら」

「その場合はアウトだよ。完全に観測されてるし、重ね合わせは消えちゃうね」

「ちょっと待って。外から見たら猫だけど実は猫の皮を被っただけのロボットかもしれないじゃん。ロボの可能性もゼロじゃないよね?」

「その可能性も考えると、箱が透明で、中で猫がにゃーんって鳴きながら元気に動き回っていたとしても、重ね合わせの状態は保ってるといえるかもしれないね」

「なんかさ、もう箱なくても余裕で重ね合わさってない?」

「そうだね」


「えっ、そうなの?」


 黙ってふたりの話を聞いていたぴりかがびっくりして聞き返す。


「ここまでの議論を踏まえた上で論理的に考えるとそうなるね。残念だけど」


 淡々とそう述べる亜鳥衣は、心なしかしょんぼりしているように見えた。


「あれ、もしかしてこれ、猫の皮が箱の代わりになってる? 皮だけあればいいってこと?」と瑠流。

「極論、そうなるね。不本意だけど」


 亜鳥衣はやっぱりしょんぼりしているみたいだった。

 もう滅茶苦茶だ。


「うーん。なんだかよくわからないや」


 瑠流は少し困ったように首をかしげる。


「どうもピンとこないね。実際にやってみないと」

「猫ならうちにいるよ。計算機室で試してみようよ。猫をPCケースに入れるの。今、ぴりかと話してたところだったんだよ」


 瑠流の目が一気に輝いた。


「試してみたい!」


「……本気でやる気なの?」


 ぴりかは呆れ顔でぼやきながら、和気あいあいと教室を出ていくふたりの背中を追いかけた。

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