いかなる名人上手でも

蟹場たらば

名人の証明

 この日は久しぶりに、娘の自宅兼アトリエを訪れることになっていた。


 娘は画家だった。それも「新進気鋭の油彩画家」という地位にあった。贅沢三昧とはいかないまでも、絵だけで生活できる程度には売れているようだ。


 もっとも、人格形成という面では、それがよくなかったのかもしれない。いくら来客が父親とはいえ、玄関に現れた娘は、化粧をしていないどころか、寝癖までつけたままだった。実力主義の要素が大きい世界にいるせいか、いい歳をして未だにろくに社会性が身についていないのだ。


「ちゃんと食べてるのか?」


 リビングのソファまで案内されたところで、私はそう話を切り出した。


 偏った食生活をしていないかという意味もあったし、食費は稼げているのかという意味もあった。また、食事も取らずに絵を描くのに熱中していないか、という意図も込めたつもりだった。


 しかし、生活習慣を確認するために来たわけではないことは、娘には筒抜けだったらしい。


「新作の催促を頼まれたの?」


「まぁ、それは……」


 娘の察する通り、美術商から私に連絡があったのだった。


 近々、娘の個展が開かれるのだという。また、今回の目玉は、多数の新作の発表にあるのだという。


 そして、残りの一作の完成が、当初の予定から大幅に遅れてしまっているのだそうである。


 ふわふわしたような見かけによらず、娘は豪胆な性格をしていた。大学在学中はろくに結果が出ていなかったのに、「画家になるから就職はしない」と宣言して、両親つまり私や妻と喧嘩までしたくらいだった。


 一方で、娘には奇妙なくらい神経質なところもあった。進路指導で東京の有名な芸大を勧められた時も、売れ始めたのでアトリエを持つように勧められた時も、「住み慣れた家から引っ越したくない」と、長らく駄々をこねていたほどだった。


 そういう極端な性格だから、美術商も娘の扱いにはかなり慎重になっているらしい。プレッシャーをかけるような真似はしたくないので、ご家族の方から進捗を確認していただけませんか、と懇願されてしまったのである。


「で、どうなんだ?」


 家に行くという電話を受けた時点で、私の目的が何なのか理解していたようだ。娘は部屋の隅に用意していたを指差す。


 それは、掛け布で隠されたキャンバスだった。


「なんだ、もう完成してたのか」


 実用性重視の工業製品と違って、芸術作品には新奇性や独自性が求められる。そのため、毎回異なるものを作らなくてはならず、作業に必要な時間を予想するのが難しい。どれだけ時間があっても完成しないこともあれば、不意なタイミングであっさりと完成することもある……ということだろう。


 これまでの絵と比べて、新作はいったいどこが新しいのか。それを確かめるために、私はキャンバスの方へと歩き出す。


 けれど、途中で娘に腕を掴まれてしまった。


「でも、納得いく出来じゃなくて」


 美術商に未完成だと伝えたり、布を掛けて隠したりしていたのは、他人ひとに見せたくなかったからだったようだ。


 力仕事もスポーツもしていないせいで、娘の腕はひどく細い。だというのに、引き留めようとする力は強かった。私はソファに座り直すことにする。


「新作があるっていうのが今回の売りなんだろう? 食っていくには、少しは妥協もした方がいいんじゃないか」


 そんな風になだめたところで、娘は聞く耳を持たないだろう。


 まだ駆け出しだった頃にも似たようなトラブルがあった。あの時でさえ、「生活のためには仕方ない」「金があれば制作に集中できる」と私が何度も言い聞かせて、それでしぶしぶ作品を出展したくらいである。それなりに稼げるようになった現在では、もう通用しないに違いない。


 それに、今でこそ会社員をやっているが、私も若い頃には芸術に――文学に情熱を燃やしていた。「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」とうそぶいていたことさえあった。だから、納得いかない作品を発表したくないという、娘の気持ちも分からないでもないのだ。


 そこで私は、昔読んだ作品を持ち出すことにした。


「岡本綺堂きどうの『修禅寺しゅぜんじ物語』って知ってるか?」


「『明日あすの神話』とか『太陽の塔』とかなら知ってるけど」


「太郎じゃなくて綺堂な」


「で、それが何?」


「伊豆の修禅寺に『頼家よりいえの面』っていう、来歴の分からない不気味なお面があって。それに着想を得て書かれた戯曲があるんだ」


 綺堂の代表作で、過去には映画化やドラマ化もしているし、今でも歌舞伎やオペラとして演じられている。けれど、まったく聞き覚えがなかったようで、娘はいつも以上にぼんやりとした顔をしていた。


「鎌倉時代の伊豆に、まるで生きているかのような面を作る、夜叉王やしゃおうという面打ちの名人がいた。その評判を聞きつけて、ある時二代将軍の源頼家が、自分をモデルにした面を作るように依頼した。

 ところが、今回の仕事はどうも上手くいかない。何度作り直してみても、できあがるのは生気のない面ばかりだった。それどころか、恨みがましい目つきまでしていたほどだったんだ。

 そうして夜叉王が半年以上もスランプに悩んでいると、痺れを切らした頼家が直接家まで訪ねてきた。しかも、面を見た頼家は、〝もう十分に似ている〟と喜んだ。それで将軍の言葉には逆らえず、夜叉王は不本意ながら出来の悪い面を渡すしかなかった」


 しかし、夜叉王はすぐに自分の行動を悔やんだ。不出来な作品が将軍家の宝物ほうもつとして残れば、後世で笑いものにされてしまう、と。そのせいで、今日かぎりで面作師おもてつくりしを引退して、これまで作った面もすべて壊すとまで言い出す。


 それを止めたのは、夜叉王の娘だった。


「後悔から自暴自棄になった夜叉王を、次女のかえではこう慰めたんだ。

〝いかなる名人上手でも細工の出来不出来は時の運。一生のうちに一度でも天晴あっぱれ名作が出来ようならば、それがすなわち名人ではござりませぬか〟って。

〝拙い細工を世に出したをそれほど無念とおぼし召さば、これからいよいよ精出して、世をも人をもおどろかすほどの立派な面を作り出し、恥をすすいでくださりませ〟って言って」


 これを聞いた夜叉王は、面を壊すのをやめて、代わりに娘の言葉について考え込み始めるのだった……


「面に限らず、芸術の世界なら何にでも通じる話だと、父さんは思うぞ。たとえば綺堂自身もいろいろ書いてるけど、話題に上がるのは『修禅寺物語』や『半七捕物帳』みたいな代表作ばかりだからな」


 こうして訳知り顔で語っている私だって、ほとんどの作品は大昔に一度読んだだけで、それきりになってしまっていた。おかげで、もう内容はうろ覚えで、読んでいないのと大差なかった。


「他にも、正岡子規は生涯で二万五千近い俳句を詠んだんだそうだ。だけど、世間で知られてるのは、せいぜい一つか二つってところだろう」


 有名な〝柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〟。あとは〝いくたびも雪の深さを尋ねけり〟〝鶏頭けいとうの十四五本もありぬべし〟〝をとゝひおとといのへちまの水も取らざりき〟あたりが出るかどうかではないか。


「手塚治虫だって七百作も描いたらしいけど、今でも読まれてるのは『ブラック・ジャック』と『火の鳥』くらいじゃないか」


「私は『ブッダ』も『アドルフに告ぐ』も読んだよ」


「揚げ足を取るんじゃない」


『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』なんかも有名だから、読んだことのある人もいるだろう。けれど、それらを合わせたとしても、七百作にはまだまだ遠く及ばない。私がそんな反論をすると、ようやく娘も「まぁ、そうだけど……」と引き下がるのだった。


「俳句にしろ漫画にしろ、後世に残るのはほんの一握りの名作だけだ。逆に言えば、過去の駄作凡作が掘り返されて批判されるなんてことはめったにない。

 だから、芸術家にとって大事なのは、駄作を作らないことじゃなくて、名作を作ることなんじゃないか」


 あたかも次女に慰められた時の夜叉王のように、私の言葉を聞いて娘も考え込み始める。


 しばらくして、結論は出たようだった。


「……まぁ、ピカソだって絵だけで一万作、版画や彫刻を合わせると十五万作も作ったって話だからね」


 そう相槌を打つ娘の表情は、これまでよりも柔らかいものになっていた。どうやらそれなりに納得してくれたらしい。


「お父さんはどうせ『ゲルニカ』くらいしか知らないでしょ?」


 ついには、私をからかうようなことまで言い始める。


「『泣く女』とか『アヴィニョンの娘たち』とかも知ってるぞ。お前の作品を鑑賞するために勉強したからな」


「じゃあ、『天使の降り立った場所』は?」


「どんなのだったかな。聞き覚えはあるんだけど……」


「今適当に考えたんだけど、実在したんだね」


「まぁ、十五万作もあればな」


 それからも、多作ぶりがギネス記録にも認定されているだとか、青の時代の『老いたギター弾き』もいいだとか、私と娘はピカソに関する話で盛り上がった。


 けれど、いつしか話題が最初に戻ってきてしまった。


「『修禅寺物語』って、主人公が励まされたところで終わりなの?」


「……一幕目はな。全部で三幕あるから」


「じゃあ、三幕目で名作を作って終わるとか?」


「…………」


 できれば結末については教えたくなかった。内容が内容だけに、娘が再び心変わりしかねないからだ。


 しかし、たとえ今教えなかったところで、あとで自分の手で調べるだけだろう。


「面を渡した直後、敵対する北条氏の手によって、モデルの頼家は暗殺されてしまった。つまり、生気のない面しか作れなかったのは、死の運命を見通すような神の領域にまで、夜叉王の腕が達していたからだったんだよ」


「なんだ。結局名作だったんだ」


 娘は呆れたようなねたような風に、ソファの背もたれに体を投げ出す。


 だが、私はあえて説明を続けることにした。上手くやれば、夜叉王を反面教師として、娘をさとすことができるかもしれないと考えついたからである。


「暗殺事件に巻き込まれたせいで、夜叉王の長女・かつらも致命傷を負ってしまった。けれど、頼家の件で自信を取り戻した夜叉王は、今後の面打ちの参考にするために、娘の死にゆく顔を紙に書き写すことにした……というところで話は終わる。だから、月並みな言い方をするなら、芸術家の業がテーマってことなんだろうな」


 もちろん、もっと詳しく見れば、それほど単純な作品ではない。


 かつらが頼家の巻き添えを喰らったのは、面を渡す際に見初められて、彼に仕えるようになったことが原因だった。ただ、公家に奉公していた亡母に似たようで、かつらはずっと貧しい職人生活を嫌って、都会での華やかな暮らしを夢見ていた。そのため、ほんの一時いっときでも将軍の側女そばめになれたと、彼女は満ち足りた思いで最期を迎えることになったのである。


 作中では夜叉王の職人気質かたぎに対して、かつらの性格は公家気質と表現されている。つまり『修禅寺物語』は、芸術家(職人気質)の業だけでなく、公家気質の業も描いていることになる。


 いや、納得いく仕事をしたいとか、派手な生活をしたいとか、そういう願望は多かれ少なかれ誰にだってあるだろう。だから、人間の業がテーマと言った方がいいかもしれない。


「ふーん……」


 そう相槌を打ったきり、娘は黙ってしまった。黙って、再び考え込み始めてしまった。


 一旦絵を描き始めたら、もう他のことは頭に入ってこなくなってしまう性質たちらしい。限界になるまで食事や睡眠は取らないし、相手が誰であっても電話や来客には対応しない。母親の見舞いどころか、通夜まですっぽかしたことさえあった。


 元文学青年の私から見ても、娘は明らかに業の深い人間である。それだけに、『修禅寺物語』の結末に、感じ入るものがあったのだろう。


 かと思えば、娘は不意に立ち上がっていた。


 やはり、納得いかない作品を世に出したくなくて、絵を描き直す気になってしまったのだ。


 ――というのは私の早合点だったようだ。娘の向かった先は、キッチンだったのである。


 業の行きつく先に恐れをなしたのか。それとも、単純に喉が渇いたのか。娘はただコーヒーカップを手に戻ってきただけだった。


「正岡子規の俳句ってどんなのだっけ?」


「え?」


「馬が通るとかいうのだっけ?」


 娘が絵を描き直そうとしなかったのは、「子規も何万と詠んだのに、一部の名句しか残っていない」という話も聞かせたおかげだったのかもしれない。拍子抜けしたような安堵したような気持ちで、私は質問に答える。


「〝雀の子そこのけそこのけ御馬が通る〟か? それは小林一茶だろう」


「ああ、そっか」


「まぁ、一茶だって二万句作ったらしいけどな」


「じゃあ、松尾芭蕉は?」


「確か五千だったかな」


 そのあとも、娘に質問されるがままに、「結核で早死にしたことを考えると、かなりのハイペースで句を作っている」とか、「死に際にも、へちまを季語に三句も詠んでいる」とか、私は子規について説明する。


 その最中のことだった。


 娘の手から、コーヒーカップが滑り落ちた。


 カーペットにコーヒーが広がって、奇妙な色彩のシミができる。まるでアクションペインティングのようである。


 そして次の瞬間、その絵の上に、娘は倒れ込んでいた。


「おい、大丈夫か?」


 私が慌てて駆け寄ると、娘は弱々しく口を開いた。


「絵の具の中には、毒のあるものもあるんだよ」


 コーヒーに溶いて飲んだということだろう。だから、シミの色が奇妙だったのだ。だから、娘は倒れたのだ。


 しかし、そんなことをする理由が分からなかった。


 ますます混乱する私に対して、娘は震える腕で指を差す。


 その先には、例のキャンバスがあった。


 見比べてほしい、という意味だったのだろう。


 掛け布の下から出てきたのは、娘自身を描いた自画像だった。






(了)

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