第12話 神仏論1 神はサディスト

 バーで飲んでいると、ふと神様の話になり、見知らぬ女の人に絡まれた。

「神様が本当にいるなら、生まれた直後に死ぬ赤ん坊のことを説明してみろ!」


 知らんがな。


 普通の日本人は神とサンタクロースの区別がついていない。

 不信心者の極みである。

 

『神は慈愛に満ちていて人々の生活を常に見守っている』


 そんなセリフはキリスト教の坊主どもが客を集めるために唱えている嘘であることはいうまでもない。

『人間には制御できない荒ぶる存在』

 これが神性の定義の一つであることを考えて見てほしい。


 神という存在には生まれてくる赤ん坊の命を守る義務も無ければ、我が子に死なれた母親の気持ちを慰める義務もない。

 広く信仰を集めたがるがかと言って個々の面倒を見るつもりは毛頭ない。


 そして神仏という存在は基本的にサディストである。それも強烈な。

 彼らが与える試練というヤツは往々にしてそれを向けられた相手が死ぬほどの強烈なものである。

 これは神仏と人間では命に対する感覚が大きく違っていることに起因する。

 人間にとっては生き死には一大事である。だが彼らにとっては人間の生き死には、人にとっての寝て起きるぐらいの意味しか持たない。

 一切れのパンのために盗みを犯すぐらいならば、さっさと死んで生まれ直せ。

 本気でそう考えている。

 彼らの多くは最初から肉体を持たないか、あるいは肉体を持っていたがもう思い出せないほど昔のことであることが多い。だから肉体を持つことの重さ、肉体が与える苦しみ、肉体の弱さが理解できていないきらいがある。

 おのずから彼らが与える試練は一歩間違えれば死ぬようなものとなり、それは人間の側から見れば強烈なサディズムでしかなくなるのだ。

 そしてそれに耐えきる信者たちも自ずと狂ったようなマゾヒストが並ぶことになる。

 


 四国の石鎚山は有名な修行場で、神様が厳しいので有名である。年に一回そこの頂上で祭りがあるときは日本中から修行者が集まる。

 登山道とは言っても修行者の道である。そこでの登りは崖肌に鎖を這わせてあるのを必死に握りしめて登る形になる。途中の難所難所には先達が待ち構えていて、どこを掴めそこに足をかけよと登るのを手伝う。慣れた者はその岩肌を走って登りもする。

 この一年、身内に不幸があった者は不浄として、この日の祭りには参加できない。

 だがなぜがその事を忘れて、あるいはそれぐらいいいだろうと高をくくって登る者は後を絶たない。

 そういう連中は登山中に必ず崖から叩き落される。

 手足ぐらいは折れるが、不思議と死者は出ない。どうしてこんなことにと話を訊いてみると、たいがいがこの不浄の禁を犯している。


 これが神様というものがやることである。

 これは貴方のためですよと言いながら、顔に薄笑いを浮かべて人間を苦しめる。

 まさにサディストとしか言いようがない。



 たまに神様もこれではいかんと考えて、神人という形でこちらに出現する。

 つまり神の魂を人間の体に入れて生まれてくるのである。

 小さい内から霊的教育をする係が尋ねてきて、いろいろ指導を行う。長じて強力な霊能者になり、一派を形成する。

 そしてたいがいが老人になる前に死ぬ。

 自分が帰る場所のことを覚えているので死に抵抗しないのだ。


 だがそれで、人間の生が分かった気分になられては困る。

 自分が神であるもしくは神の配下であることを知ったままこの世に出て何の苦労か?

 老人の体の痛み不自由さ苦しさを知らずして何で生の苦悩を知った気分になるのか?

 人の心を見抜く能力を持って生き、それで友人に裏切られるという人生の苦悩をいかにして知るというのか?

 物見遊山でこちらに来られて分かったような気分で帰って行く。それでいかにしてこの地獄を理解するというのか?


 これから先も神がサディストを止めることはないだろう。

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黄昏の夢想 のいげる @noigel

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