【大正浪漫短編小説】花街月影吉原幻灯 ―月を詠む人と共に―(約10,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
【大正浪漫短編小説】花街月影吉原幻灯 ―月を詠む人と共に―(約10,000字)
第一章 月を見る人
明治から大正へと移りゆく世にあって、新吉原の灯りもまた、次第に姿を変えていった。行灯の柔らかな光は電灯の冷たい輝きに取って代わり、三味線の音も蓄音機の調べに押されるようになった。だが、仲之町の大門をくぐれば、そこはまだ古い江戸の匂いを残す異界。軒を連ねる置屋の簾の向こうには、時代に取り残された夢のような世界が息づいていた。
「雪乃姐さん、今夜も綺麗だねえ」
三階の廊下を行き交う
「おべっかは無用よ」
雪乃は薄化粧の顔に微かな笑みを浮かべながら答えた。
遊女となって一年。十八の春を迎えたばかりの雪乃は、既に玉之屋の若手きっての人気を集めていた。父の借金を背負って廓に売られた時には、これほどまでに己の境遇に馴染めるとは思いもしなかった。
雪乃は廊下の突き当たりにある二畳ほどの自室に戻ると、鏡台の前に座った。長く垂れた黒髪を梳きながら、窓の外に広がる夜空を見上げる。今宵は十三夜。雲の切れ間から覗く月が、どこか寂しげに光を放っていた。
「月を見るのがお好きなようで」
背後から突然声がかかり、雪乃は肩を震わせた。振り返ると、そこには寿々香(すずか)が立っていた。廓でも一、二を争う花魁である寿々香は、雪乃にとって姉のような存在だった。
「寿々香姉さん……」
「気に入った客はできたかい?」
寿々香は雪乃の横に座り、さり気なく肩に手を置いた。
「まだ、そんな……」
言葉を濁す雪乃の目が、机の上に置かれた一冊の本に向けられる。それは永井荷風の『腕くらべ』。先日、ある客から贈られたものだった。
「まあ、焦ることはないさ。けれど、いつまでも本ばかり読んでいては、身が持たないよ」
寿々香の言葉には優しさと諦めが混ざっていた。
「分かっています。でも……」
その時、廊下から急ぎ足の音が聞こえてきた。
「雪乃さん、お客様です!」
禿の声に、雪乃は慌てて立ち上がる。寿々香が手早く帯を直してくれた。
「行っておいで」
背中を押されるようにして部屋を出る。廊下を歩きながら、雪乃は深い息を吐いた。接客の間だけは、自分の心を閉ざすことにしている。それが廓で生きていく術だと、この一年で学んだのだから。
二階の広間に通されていた客は、二十代半ばほどの青年だった。紺の背広に角帽という出で立ちから、学生か知識人であることが窺える。
「篠原と申します」
青年は丁寧に挨拶をした。声は落ち着いており、どこか物憂げな雰囲気を漂わせている。
「雪乃でございます。よろしくお願い致します」
席に着くと、給仕の手によって酒が運ばれてきた。
「永井荷風はお読みになりますか?」
突然、篠原がそう尋ねた。雪乃は驚きを隠しきれない。机の上の『腕くらべ』が気になっていたのだろうか。
「……はい。時々、手に取らせていただいております」
「そうですか。私は彼の描く世界に魅了されているんです。特に、廓の情景描写には心を打たれる」
篠原の瞳が熱を帯びる。雪乃は思わず身を乗り出していた。
「荷風先生の作品では、『すみだ川』が好きです」
「ほう、なぜです?」
「川のせせらぎと人の世の移ろいが、とても美しく描かれているから」
灯火が揺れる座敷で、雪乃は何度も篠原の表情を盗み見ていた。客の話に相槌を打ちながら、その眼差しの奥に潜むものを探ろうとする。それは、遊女として身につけた処世術ではなく、純粋な好奇心によるものだった。
「永井先生は、この辺りの風景もよく書かれているんですよ」
篠原の声には、どこか懐かしむような温かみがあった。
「仲之町の提灯の明かりとか、夕暮れ時の空の色とか」
「ええ。『墨東綺譚』の中で、確か……」
雪乃は言葉を探るように、少し上目遣いで考え込んだ。
「大門から三味線の音が漏れ聞こえる場面がありましたわね」
すると篠原の目が輝きを増した。
「ああ、あの場面ですか。確かに美しい描写でしたね。でも、私はその少し前の、月が出てくる場面の方が好きなんです」
「まあ、私もその場面が」
二人の声が重なり、思わず目が合う。そして、小さな笑みを交わした。
雪乃は不思議な感覚に包まれていた。普段なら、客の言葉に合わせて取り繕うところだ。しかし、この青年と言葉を交わすとき、そんな計算は自然と消えていく。
篠原は本を語るとき、少し前のめりになる。そして、物語の一節を思い出すたびに、目線を遠くに向ける。まるで、その世界を実際に見ているかのように。
「雪乃さんは、どんな場面がお好きなんですか?」
その問いには、単なる社交辞令以上のものが感じられた。雪乃は少し考えてから、正直に答えることにした。
「私は……川面に映る街の明かりの描写が好きです。何かが終わっていくような、でも同時に、何かが始まろうとしているような。そんな予感めいたものを感じるんです」
言い終わって、少し照れくさくなった。こんな風に自分の感想を述べるのは、初めてかもしれない。
しかし篠原は、深く頷いていた。その目には、雪乃の言葉の意味を確かに受け止めたという色が浮かんでいる。
「私にもそう感じられます。荷風先生は、そういう……言葉にならない予感めいたものを、実に巧みに描かれる」
篠原は言葉を選びながら、静かに続けた。
「それは、ある意味で文学そのものの本質かもしれません。形にならないものを、それでも必死に掬い取ろうとする。そんな営みの中にこそ、美しさがある」
その言葉に、雪乃は強く心を揺さぶられた。それは、自分でも気づいていなかった何かが、明確な形を与えられたような感覚だった。
行灯の光が二人の間で揺れている。外からは三味線の音が漏れ聞こえ、どこか懐かしい調べが座敷に満ちていく。
雪乃は、この時間が特別なものだと感じていた。それは、此処ではない何処かを、此処に居ながらにして共有できる不思議な時間。本を読むことでしか味わえない世界を知る者同士の、密やかな共感。
篠原の眼差しには、そんな共有の喜びが確かに宿っていた。
外が白み始める頃、篠原は帰り支度を始めた。
「また来ます」
そう言って去っていく後ろ姿を、雪乃は長い間見送った。初めて、客を見送る時に寂しさを覚えた夜だった。
部屋に戻った雪乃は、また窓辺に立つ。夜明けの空に、まだかすかに月が残っていた。
「月を見る人がいる……」
つぶやいた言葉が、静かな朝の空気に溶けていった。
第二章 揺れる灯
仲之町に初夏の夕暮れが訪れる。軒先に吊るされた提灯が、そよ風に揺れていた。
「お客様がまたいらっしゃいましたよ」
晩餐の支度をしていた雪乃の耳に、禿の声が届く。
「誰?」
「篠原様です」
箸を持つ手が一瞬止まる。あの文学青年が初めて訪れてから、既に一月が過ぎていた。その間、彼は三度訪れ、そのたびに文学の話に花を咲かせた。
「雪乃、あんまり本読みに熱中するんじゃないよ」
寿々香が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫です。仕事は仕事として、きちんとこなしていますから」
確かに雪乃は、日々の義務は完璧にこなしていた。しかし、その合間を縫っては本を手にし、ページを繰る。それは現実から目を逸らすためではなく、むしろ己の置かれた現実をより深く見つめるためだった。
「あの人とばかり話していると、良くないわ」
寿々香の言葉には重みがあった。
「なぜです?」
「文学なんて……夢物語よ。私たちには似合わない」
寿々香は鏡台の前に座り、長い黒髪を梳き始めた。その仕草には何か深い諦めが滲んでいる。
「でも姉さんも、昔は本がお好きだったんですね」
雪乃の言葉に、寿々香の手が一瞬止まった。
「……なぜそんなことを?」
「机の引き出しに、本のしおりが挟まっているの、見えましたから」
寿々香はかすかに笑みを浮かべた。
「私もね、昔は漱石を読んでいたの。『それから』という作品があるでしょう? あれを読んで、何度も泣いたわ」
寿々香の目が遠くを見つめる。
「でも、ここではそんなものは邪魔になるだけ。だから、全部捨てたの」
その言葉に、雪乃は胸が締め付けられる思いがした。
「私は……捨てられません」
「そう? でも、いつかは分かるわ。この世界で生きていくためには、何を捨てなければならないのか」
寿々香は立ち上がると、雪乃の髪を優しく撫でた。
「さあ、行きなさい。お客様をお待たせしてはいけない」
雪乃は頷くと、部屋を後にした。
篠原は前回と同じ座敷で待っていた。窓の外では、提灯の明かりが夜の闇に揺らめいている。
「雪乃さん、これを」
篠原は一冊の本を差し出した。夏目漱石の『それから』である。
「あ……」
思わず声が漏れる。寿々香との会話が蘇った。
「どうかされましたか?」
「いいえ。ただ……少し驚いただけです……」
雪乃は本を受け取った。表紙には古書店のしみが付いている。誰かが読み終えた跡だろう。その痕跡に、妙な親近感を覚えた。
「代助の生き方について、どう思われますか?」
篠原が尋ねる。
「愛と義務の間で揺れる姿は、痛ましくもあり、美しくもあると思います」
「そうですね。私たちは皆、何かの間で揺れながら生きているのかもしれません」
篠原の言葉に、雪乃は深く頷いた。
給仕が運んできた茶を、雪乃はゆっくりと啜った。
「雪乃さん」
「はい」
「私は本の中の世界と、現実の世界。その境界が、時々曖昧になることがあります」
篠原の声が、いつになく低く響く。
「ええ。でも、それは……」
「美しいことだと思います」
篠原の言葉に、雪乃は息を呑んだ。
座敷の灯りが、二人の間に柔らかな影を落としている。外では三味線の音が聞こえ、それは妙に現実離れした雰囲気を醸し出していた。
「私たちは今、本の中にいるのでしょうか。それとも……」
雪乃の問いは、宙に浮かんだまま消えていく。
しかし、二人の心の中では、その答えが確かな形を取り始めていた。それは、文学と現実が溶け合うような、不思議な感覚。
篠原は、そっと『それから』を開いた。ページをめくる音が、異様なほど鮮やかに響く。
「代助は、三千代への思いを」
その言葉を聞きながら、雪乃は自分の心の中で何かが動き出すのを感じていた。それは、本の中でしか味わえないはずの感情が、現実の中で芽生え始めるような……。
月が雲間から顔を覗かせ、座敷に淡い光を投げかけている。二人は、その光の中で、言葉にならない何かを確かに共有していた。
「島崎藤村の『破戒』はお読みになりましたか?」
篠原が尋ねる。その声には、どこか期待を含んでいた。
「ええ。主人公の丑松が、自分の出生と向き合っていく……」
言葉を探しながら、雪乃は窓の外に目をやる。
「社会の壁と、心の壁。それを乗り越えようとする姿に、私も何か」
自分の境遇と重ねているような口ぶりに、篠原は目を細めた。
「その感想、とてもよく分かります。私たちは皆、何かしらの宿命を背負って生きている。でも、その制約の中にも、確かな希望は」
「はい。むしろ、苦しみを抱えているからこそ、より深く生きようとする……」
雪乃は自分の言葉に、はっとした。それは、この座敷で客と交わす社交的な言葉とは、明らかに違っていた。
篠原もそれを感じ取ったのか、茶碗を持つ手が少し震えている。
「私は泉鏡花の『歌行燈』が好きで……」
篠原が続ける。
「現実と幻想の境界が溶けていくような。そんな世界の中でこそ、かえって真実の愛が見えてくる」
「まるで、私たちのよう、ですね」
思わず漏れた言葉に、雪乃は自分でも驚いた。
篠原の瞳が、かすかに揺れる。その中に、言葉にならない何かが宿っているのが見えた。
「北原白秋の『邪宗門』をご存じですか?」
篠原の声が、いつになく低く響く。
「歌麿の恋歌のような……」
「ええ。現世の戒めを超えた、魂の触れ合いとでも言いましょうか」
篠原の言葉に、雪乃は息を呑んだ。
座敷の灯りが、二人の間に柔らかな影を落としている。外では三味線の音が聞こえ、それは妙に現実離れした雰囲気を醸し出していた。
「与謝野晶子の和歌をお好みですか?」
雪乃が、少し大胆に尋ねる。
「はい。特に『みだれ髪』の」
「つぶつぶと、碧玉なすも、なまめきの――」
「「涙なりけり」」
二人の声が重なった。そして、小さな笑みを交わす。
「時には、現実よりも文学の方が真実に近いのかもしれません」
篠原の言葉は、しみじみとした響きを帯びていた。
「でも、今このときは」
雪乃の言葉は途中で消えた。しかし、その意味は確かに二人の心に届いていた。
篠原は、そっと樋口一葉の『たけくらべ』を開いた。ページをめくる音が、異様なほど鮮やかに響く。
「美登利のように、私も――」
その言葉を聞きながら、雪乃は自分の心の中で何かが動き出すのを感じていた。それは、本の中でしか味わえないはずの感情が、現実の中で芽生え始めるような……。
月が雲間から顔を覗かせ、座敷に淡い光を投げかけている。二人は、その光の中で、文学を超えた何かを確かに共有していた。
夜が更けていく。給仕が運んでくる酒を、二人は静かに飲み干した。
「雪乃さん」
「はい?」
「あなたは、この生活に満足していますか?」
突然の問いに、雪乃は言葉を失う。
「それは……」
答えられないまま、目を伏せた。窓の外では、提灯の明かりが風に揺れ続けている。それは、雪乃の心そのもののようだった。
やがて行灯の光が消され、月明かりだけが部屋に差し込んでくる。
二人の吐息が、夜の闇に溶けていく。指先が触れ合うたび、雪乃は身体の奥底で何かが震えるのを感じた。それは、今までの客との時とは違う、切なくも甘い痛みだった。
「雪乃さん……」
篠原の声が、掠れている。その手の温もりに、雪乃は目を閉じた。
襟元が乱れ、長い黒髪が解かれる。月光に照らされた肌が、淡く光を帯びていた。
篠原の指が、そっと雪乃の頬を撫でる。その仕草には、本の頁を繰るような優しさがあった。
二人の影が、行灯の明かりに揺らめきながら、次第に一つになっていく。
夜更けの雨が、静かに窓を叩き始めた。
◆
篠原が帰った後、雪乃は『それから』を開いた。ページを繰るたびに、寿々香の言葉が響く。そして、篠原の問いが。
「満足、なのかしら……」
呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
翌朝、雪乃が起きると、寿々香の姿が見当たらなかった。
「寿々香姉さんは?」
禿に尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「昨夜、お得意様とお出かけになられました」
雪乃は胸が騒ぐのを感じた。寿々香は普段、決して廓の外には出ない。それは彼女の信条だった。何か、只ならぬことが起きているのではないか。
不安を抱えたまま、雪乃は窓辺に立った。朝もやの向こうに、かすかに街の喧騒が聞こえる。近代化の波は、着実にこの廓にも押し寄せていた。
第三章 影を追う
八月の暑気が街を包む中、寿々香の失踪は廓の噂となっていた。
「大金を持って、お得意様と駆け落ちしたんだって……」
「いいえ、借金を背負って、どこかに売られたという話よ」
廊下を行き交う声に、雪乃は耳を塞ぎたくなった。
寿々香が姿を消してから、既に一月。彼女の部屋は手つかずのまま残されている。鏡台の上には、埃を被った櫛が寂しげに置かれていた。
「雪乃さん、篠原様がいらっしゃいました」
禿の声に、雪乃は我に返る。最近、篠原の訪問は週に二度を数えるようになっていた。
座敷に向かう途中、玉之屋の女将に呼び止められた。
「雪乃、気を付けなさいよ」
女将の目は鋭く、雪乃を射抜くようだった。
「何のことでしょうか」
「寿々香の二の舞になるなってことさ」
雪乃は黙って頭を下げた。
座敷では、いつもの篠原が待っていた。しかし、その表情には何か暗い影が宿っている。
「どうなさったんですか?」
「実は……寿々香さんのことで、話があります」
雪乃の心臓が高鳴った。
「寿々香姉さんを、ご存じなんですか?」
「ええ。私の友人の……話なのですが」
篠原は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
それは、ある実業家の息子に関する話だった。その男は寿々香の常連客で、最近になって急速に関係を深めていった。そして一月前、二人は密かに廓を出る計画を立てた。男は寿々香の前借金を返済する約束をし、新しい生活を始めようと誘ったという。
「しかし、その約束は守られなかった」
篠原の声が沈む。
「どういうことですか?」
「男は既に結婚が決まっていた。寿々香さんを騙して……」
雪乃は息を呑んだ。
「寿々香さんは今、神楽坂の料亭で働いているそうです。もちろん、借金は残ったまま」
篠原の言葉に、雪乃は目を伏せた。窓の外では、蝉の声が虚しく響いている。
「なぜ……教えてくださるんです?」
「あなたに、同じ過ちを繰り返してほしくないから」
篠原の言葉には、どこか切実なものが含まれていた。
「私に気があるとでも?」
思わず突き放すような言い方になった。
「……すみません」
篠原は深く頭を下げた。その背中には、言い知れぬ哀しみが滲んでいる。
その夜、雪乃は寿々香の部屋を訪れた。鏡台の引き出しを開けると、中から一枚の写真が出てきた。若い頃の寿々香だろう。着物姿で微笑む彼女の横には、学生服姿の青年が写っている。
写真の裏には、達筆な文字で一行の書き込みがあった。
「永遠に、あなたと共に」
雪乃は写真を元の場所に戻すと、静かに引き出しを閉めた。
翌朝、雪乃は玉之屋の女将に願い出た。
「神楽坂まで、行ってきても?」
「何しに?」
「寿々香姉さんに、会いたいんです」
女将は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「気を付けて行きなさい。でも、日が暮れる前には必ず戻ること」
雪乃は深く頭を下げると、急ぎ支度を始めた。
神楽坂の料亭は、思ったより小さな店だった。夏の日差しを遮る簾が、かすかに揺れている。
「寿々香? ああ、もういませんよ」
女主人は冷ややかに告げた。
「どちらへ?」
「さあ。ここでも借金を作って、夜逃げしたからね」
雪乃は足元から崩れそうになった。寿々香の影を追って来たのに、そこにあったのは、また新しい影に過ぎなかった。
廓に戻る人力車の中で、雪乃は考え続けた。寿々香は何を求めて逃げたのか。そして、自分は何を求めているのか。
車窓の外では、夕暮れの街並みが過ぎていく。電柱の影が、車体を横切るたびに、雪乃の心も揺れた。
第四章 揺れる大地
九月に入り、虫の声が夜長を告げる頃、吉原の街にも変化の兆しが見え始めていた。
「電車が来るって話、本当なのかしら」
「そうよ。来年には、市電が千住まで通るんですって」
廓の外では、都市計画の噂が飛び交っている。明治から続く遊廓の在り方も、否応なく変わらざるを得ない時代が近づいていた。
雪乃は窓辺に座り、夕闇に沈んでいく街並みを眺めていた。通りには電灯が増え、行灯の明かりは日に日に少なくなっている。
「雪乃さん」
後ろから声がした。振り返ると、女将が立っていた。
「篠原さんが、また来ています」
女将の声には、かすかな警告が込められていた。
「はい……」
雪乃が立ち上がろうとした時、女将が腕を掴んだ。
「あの方と、どういうお話をしているの?」
「文学の話を……」
「本当に、それだけ?」
鋭い視線に射抜かれ、雪乃は言葉を失う。
「寿々香の二の舞にはならないって、約束したでしょう」
「分かっています」
女将は深いため息をついた。
「あなたの前借り、まだ半分も返せていないのよ」
その言葉に、雪乃は黙って頷いた。
座敷に向かう足取りが重い。扉を開けると、篠原が窓際に立っていた。
「遅くなってすみません」
「いいえ」
篠原は雪乃の方を向いた。その表情には、いつもの憂いの色が濃くなっていた。
「実は、重要な話があります」
篠原の声が震えている。
「私……東京を離れることになりました」
雪乃の心臓が止まりそうになる。
「九州の大学に、職を得たんです。文学の教師として」
言葉の一つ一つが、刃物のように胸を刺す。
「それで、雪乃さん。一緒に……」
「止めてください」
雪乃は強い口調で遮った。
「篠原さん。私たちは、どちらも夢を見すぎていたのかもしれません」
目から涙が溢れそうになるのを、必死に堪える。
「でも、このままでは」
「私には、ここでの務めがあります」
雪乃は立ち上がった。
「お気持ちは、痛いほど分かります。でも……私には、まだ果たすべき義務があるんです」
篠原は 長い間黙っていたが、やがて苦しそうな笑みを浮かべた。
「やはり、あなたは強い人なんですね」
別れ際、篠原は一冊の本を置いていった。漱石の『こゝろ』である。
その夜、雪乃は眠れなかった。窓の外では、地鳴りのような音が聞こえる。市電の工事が、着々と進んでいるのだろう。
ふと、机の上に置かれた『こゝろ』が目に入った。表紙をめくると、見慣れない文字が記されていた。
「拝啓――」
それは篠原からの長い手紙だった。自分の生い立ちや、文学に魅せられた経緯、そして雪乃への思いが、切々と綴られている。
最後の一節で、雪乃は息を飲んだ。
「私は、あなたの選択を誇りに思います。現代の激動の中で、古い美徳を守り抜こうとするあなたの姿に、私は心打たれました。だからこそ、一層の痛みを覚えるのです」
手紙を読み終えた時、夜明けが近かった。雪乃は立ち上がると、鏡台の前に座った。
長い黒髪を梳きながら、窓の外を見る。街はまだ眠っているが、どこかで工事の音が始まっていた。古い街並みが壊され、新しい道路が通されていく。
そして、地面がかすかに揺れた。
それは、まるで目覚めようとする巨人のような振動だった。雪乃は不思議な予感に包まれる。何か大きなものが、この街に、そして自分に近づいているような……。
第五章 新しい月
大正十二年九月一日、正午前。雪乃は座敷で給仕の支度をしていた。
ここ数日、地面の揺れが頻繁になっている。古びた建具がきしむ音が、不吉な予感を運んでくる。
「雪乃さん、お客様が……」
禿の声が途切れた。
その瞬間、大地が激しく揺れ始めた。
「地震!」
誰かが叫ぶ。座敷の襖が外れ、食器が床に落ちる。雪乃は咄嗟に机の下に潜り込んだ。
揺れは、これまで経験したことのないほど激しかった。柱がきしみ、壁が軋む。二階からは悲鳴が聞こえる。
「逃げなきゃ……」
雪乃が机から這い出ようとした時、天井から大きな梁が落ちてきた。
「危ない!」
誰かが雪乃の体を押し倒す。見上げると、女将の顔があった。
「大丈夫?」
「はい……」
揺れが収まる気配はない。廊下では逃げ惑う客たちの足音が響く。
「雪乃、先に逃げなさい」
女将が叫ぶ。
「でも……」
「いいから! 私は他の娘たちを!」
雪乃は立ち上がると、崩れかけた廊下を駆け抜けた。階段を降りる時、ふと自分の部屋が気になった。
「手紙……」
篠原からの手紙が、机の引き出しに入ったままだった。
雪乃は逆方向に走り出す。途中、何人もの人とぶつかった。皆、必死の形相で外を目指している。
部屋に辿り着くと、既に内部は惨憺たる有様だった。倒れた箪笥や散乱した着物の間を縫って、机まで這って行く。
引き出しを開けると、手紙は無事だった。それを懐に入れ、部屋を出ようとした時、ふいに目に入ったものがある。
寿々香の部屋の鏡台の上。埃を被った櫛が、まだそこにあった。
雪乃は迷わずそれを手に取った。
「姉さん……」
その時、新たな揺れが襲う。廊下の天井が崩れ落ち始めた。雪乃は咄嗟に階段に向かって走った。
外に出ると、そこは地獄絵図だった。
倒壊した建物から火の手が上がり、黒煙が空を覆っている。通りは逃げ惑う人々で溢れ、悲鳴と叫び声が響き渡る。
「雪乃!」
振り返ると、女将が何人かの娘たちを連れて走ってきた。
「無事だったの……良かった」
女将は雪乃を強く抱きしめた。
「隅田川の方へ逃げましょう」
一行は、火の粉が舞う中を必死で走った。途中、何度も余震が襲う。その度に建物が崩れ、新たな火災が発生した。
ようやく川に辿り着いた時、日は傾きかけていた。
土手の上で振り返ると、廓の方角が真っ赤に燃えていた。吉原の街並みは、見る見るうちに灰燼に帰していく。
雪乃は懐から手紙を取り出した。篠原の文字は、夕陽に照らされてかすかに揺らめいている。
「お嬢さん方」
見知らぬ男が声をかけてきた。
「神田の方に、避難所ができたそうです。一緒に行きませんか」
雪乃は女将を見た。
「行きなさい」
女将は静かに頷いた。
「でも……」
「もう、あなたに借りはないわ。今日で、全部帳消しよ」
女将の目に、涙が光っていた。
最後の別れを告げ、雪乃は避難民の列に加わった。
歩きながら、ふと空を見上げる。
夕闇が迫る中、新月が薄っすらと姿を見せ始めていた。それは、まるで新しい時代の幕開けを告げるかのようだった。
雪乃は手紙を胸に抱きしめた。そして、ゆっくりと歩き出す。
北へ向かう避難民の列は、まるで細い川のようだった。その流れに身を任せながら、雪乃は考えていた。
これから自分は、どこへ行くのだろう。
九州には、まだ篠原がいるはずだ。
でも、その前に――。
「神楽坂に、行ってみようかしら」
呟いた言葉が、夕暮れの空に溶けていった。
新しい月が、静かにその姿を現し始めている。
(了)
【大正浪漫短編小説】花街月影吉原幻灯 ―月を詠む人と共に―(約10,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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