第9話




 桜の木の下に、死体が埋まってる。


 なんて言ったのは確か、梶井基次郎だったかしら。

 死体だったかな? 肢体? 屍体? どれだったっけ?

 死体が埋まっているから桜の花はキレイなピンクだし、死体が埋まっているから、それが腐乱して臭う、なんて書かれてた記憶があるけど、果たして、生ける屍だらけのこの状況下で、不思議なことに、桜の木はキレイなピンクのままですが、腐ったにおいはしません。

 桜の木の下に、本当に死体が埋まっているなら、日本中に死体が埋められていることになりますね。小学校なんて、死体に囲まれているってことです。でも今は、桜の木の周りを、死体が歩いているんです。


 桜の木の周りを、屍体が徘徊してる。


「二〇歳を超えたら、桜の木の下でお花見しようね」

 誰からともなく、そんな話が出たのは、いつだったろう。

 お酒が飲めるようになる、タバコが吸えるようになる、それがどうしたって言うんだろう。あんまり、そこに憧れは感じない。じゃあ、お花見にどんな期待があったんだろう。

 きっと、ただみんなで集まって、わいわいごはんを食べたい。ただそれだけのイメージだったんでしょう。

 一〇年。そんな時間が存在していたのかどうかも疑わしくなるほど、昨日別れた友だちと今日再会したかのように、毎日の日常を過ごすように、私たちは再会するはずでした。

 どうでもいいことを話して、しょうもない馬鹿話をして、役に立たないことばかりやっている。ボケてツッコミ、くだらないことをささやき合って、笑って怒る。そんな関係性にある人を、友だちというのなら、きっと私たちは、友だちでした。

 それすらも、もうできない世界に変わってしまいましたけど。


 九日目の日が沈みました。

 三六五日、毎日、日はまた昇り、日はまた沈みます。

 今日だっていつだって、自然の営みは、いつもと変わりません。

 周りが暗闇に支配されていく中、ゆりとメジロ、コルリは、慎重に、少しずつ進みました。

 桜の木まで、図書館の入り口から、たったの五〇m。走って行けばものの数秒でたどり着けるそこまでの道のりが、なんと遠いことか。

 何時間もかけて、ようやく、半ばを過ぎた辺りです。

 捕まったらゾンビになる。その現実が、目の前に突きつけられていく。

 桜の木の下に死体があるんじゃない。桜の木の周りを、生ける屍が彷徨っているんです。

「けっこうきついな。動きが取れなくなってきた」

 図書館の庭を徘徊しているゾンビたちの数は、思ったよりも多かったようです。もしかすると、小学校の校庭からも、流れてきているのかも知れません。

 ゾンビだらけの町を、何日も時間をかけてやってきたメジロが弱音を吐き、コルリがそれに感化されました。

「ゾンビが増えすぎたのかな。やばいよね。このままじゃ、全滅しちゃう」

「なんかいい方法ないの?」

 ゆりの質問に、

「僕が持ってきたバッグの中に、簡単な武器はあったんだけどね」

 と、メジロがため息交じりに答えます。

 メジロは、図書館にたどり着いたとき、大きなバッグを抱えてきていました。それは、アメリカから持ってきた荷物ですが、中には、モデルガンやエアガン、護身用の武器などが入っていたそうです。メジロは、アメリカでは、ドリンクやイート、メールや簡単なバゲッジなど、要するに小さな荷物を運ぶデリバリーサービスを、個人でやっているそうで、今回は、模型屋さんの個人輸入物の配達を、帰日に合わせて引き受けていたそうです。

「運び屋じゃん」

 簡単に言えば、コルリの言う通り。コルリとゆりが、冷たい目でメジロを見ます。

「違法じゃないよ!」

「慌ててるところが嘘くさい」と、ゆり。

「一応、合法だよ! モデルガンとはいえ、手続きは面倒くさいけど」

「サバゲー趣味なの?」

「やったことはあるけど、趣味ってほどじゃないよ」

 ゾンビ禍において、配達することもなくなったガスガンは、そのまま持ち歩き、図書館までの道すがら、対ゾンビ用に試用してみたらしい。もちろん、殺傷能力はないけど、なんだかんだで威力は強く、弾が当たると、ゾンビはひるんだそうです。

 図書館まで来ることができた理由が、なんとなくわかりました。

「で、なんで置いてきたの!?」

 コルリの当然すぎる質問に、

「おまえは、自分の友達の頭に、銃だの何だの、ぶっ放せるのか?」

 ニセモノの銃とはいえ。

「……きついこと言うなよ」

 それはそうです。コルリが、キジに、ツバメに、果たして武器を向けることができるかどうか。

 ゾンビ映画というものが世に出て以来、ゾンビものには定番と呼ばれるものがあります。ショッピングモールに逃げ込んだり、金属バットやスコップを武器にして、襲いかかるゾンビたちの頭部を破壊する、あと、最近のゾンビは、走る。なぜか。ここのゾンビは古式ゆかしく、走らないでいてくれるけど。

 でも、ここに集まったみんなには、ゾンビを倒すことは、ちょっと無理だと思います。

 図書館から最初にゾンビ化した人たちを追い出したときも、もちろん、武器がなかったというのもありますが、なんとか、みんなをできるだけ傷つけないよう、徹底的に配慮しました。生ける屍になっていたとしても、だからといって、人を傷つけることができるほど、度胸はありませんでした。

 とはいえ。

「きれい事だけで、ゾンビだらけの世界は歩けない。親兄弟だろうと、友達だろうと、ゾンビはゾンビだ」

 時には心を鬼にすることも大事です。

 そのメジロの言葉に、ゆりが、少しだけ口角を上げて応じます。

「なんか、メジロ、変わったね」

「そう? しばらくアメリカで暮らしてたからかな」

「アメリカにいたの、全然知らなかったよ」

 メジロは、あまり頻繁に連絡をくれるタイプではないのは分かっていたのですが、一〇人の中で、一番、所在が分かっていなかった人です。

「あんたさ、もしかして、ノジコのこと、好きだったの?」

 コルリが、ドキッとすることを言い始めます。

「んなわきゃないだろ」

「でも確か、ノジコって、手術のために渡米したんじゃなかったっけ?」

 はい。

「そうそう、そうだったそうだった。え、まさか——」

 何が?

「メジロ、あんた、ノジコを追いかけて、アメリカに行ったの?」

 なぜか、コルリが興奮気味に話しを続けます。

「違う」

「純愛じゃん!」

「違うって!」

「熱いね熱いね、ヒューヒューだよー」

 コルリのはやし立て方が、多分に昭和のおじさんみたい……。

「母親の仕事の都合だよ! ロスで、偶然、再会しただけで」

 大きな声で否定すればするほど、

「へー」

「ロスで」

「偶然」

「再会」

「しただけで」

 ゆりとコルリが、交互にリピートしてきます。

「きゃあああぁぁーーーーー!♡」

「うるせえよ!」

 メジロくんが、怒りながら照れています。逆かな。照れながら怒っています。

「で、元気だった?」

 ニヤニヤしながら、ゆりが聞いてきます。嫌らしい顔。

 ちょっとばつの悪そうな顔をしながら、それなのに、どこか嬉しそうに、

「手術は成功してたよ。ただ、長時間の飛行機移動とかは厳しいみたいだから、手術後は、ずっとアメリカに住んでる。あいつが図書館に隠した手紙のことは、その時に聞いたんだ」

 だから、タイムカプセルを開ける約束は、私には守れないの。

 でも、その話を聞いて、コルリが引っかかりを覚えました。

「ちょっと待って。じゃあ、ゾンビの病気のことは?」

「あいつが病気だったのは十年前。心臓の病気だった。ゾンビじゃない」

 コルリが、タイムカプセルのある方を向きます。

 桜の木の下に、タイムカプセルが埋まっている。

「じゃあ、今、あたしたちが取りに行ってるのは、いったい何なの?」

 メジロは、視線を外さず、答えず、微動だにしません。

「もしかして、薬なんて、始めからないの?」

 ゆりの言葉にも、メジロは、答えません。

「はあ〜〜あぁああああああ!」

 コルリが、大きなクソデカため息をつきました。

 そしてそのまま、スタスタと、歩き始めました。桜の木とはまったく関係ない方向に。

「ちょっと、コルリ!」

 メジロの制止も聞きません。

「だったらさ、もういいよ」

 コルリは、歩きます。ゾンビが、コルリの周りにどんどん寄ってきます。

「薬はないかもしれないけど、僕にとって大事なものがあるんだ!」

 メジロは、必死で言葉をかけますが、

「それは、あたしの大事なものじゃないよね、たぶん。あたしの大事なものは、もう、この世の生き物じゃなくなっちゃったんだよ?」

 コルリが目指したのは、庭を徘徊し、今は、動くものに反応して、コルリに近寄ってきた、キジとツバメでした。二人とも、顔色が悪く顔面蒼白で、ただただ、ゆっくりと生きている人間を求めて彷徨っています。

「やめろ! 逃げろ、コルリ!」

 キジとツバメが、コルリに気づいて寄ってきます。

「あたしは、やっぱり、たとえゾンビになっても、この二人と、ずっと一緒にいたかったんだなあ」

 コルリが、両手を広げてキジとツバメを受け入れ、キジとツバメは、ゾンビの本能の赴くままに、コルリに噛みつこうとします。

 そこに。


 ダダダダダダダダダダダダダダダダ!


 突然、小さな弾が無数に飛んできました。キジとツバメは、弾に当たると、ひるんだ様になって、コルリから離れていきます。

 図書館の方を見ると、そこには、頭に紅いバンダナを巻き、サングラス(度なし)をかけ、その手にはマシンガン(ガスガン)を持ち、肩には銃弾のベルト=弾帯(イミテーション)をかけ、腰には拳銃を一丁(エアガン)と、サバイバルナイフ(登山用、本物)をひっさげた、スズメが立っています。


 ダダダダダダダダダダダダダダダダ!

 ダダダダダダダダダダダダダダダダ!


 スズメは、景気よく、マシンガン(ガスガン=UZI(ウージー)というらしいです)をぶっ放します。BB弾が四方八方に連射されて飛び散ります。多分、日が落ちて薄暗がりなのにサングラスをかけているから、ちゃんと狙えていません。なのに、その弾に圧されて、ゾンビたちの動きが鈍ってきました。結果オーライです。 

 そのひるんだ隙に、スズメは、コルリの元へ走ります。

 そして、二人して静止します。

「助けに来たよ」

「なんで?」

「助けに来るのに理由がいる?」

「余計なことしないでよ。あたしは、あの二人と一緒に——」

 コルリは、一人ぼっちでいたくなかったのです。キジとツバメと離れて、自分が自分でいられないなら。キジとツバメがゾンビになるなら、自分もなる。コルリにとっては、ずっとやってきた、あまり前の選択だったのです。キジとツバメと、ずっと一緒にいたい。ただそれだけなのに。私の気持ちは、どうして誰も、尊重してくれないの? 何で? なんで?

 何で邪魔をするの?

「ひとりぼっちは淋しかった」

 スズメのその言葉に、コルリはハッとしました。一人ぼっちは、他にもいたんだ。

「図書館の中にいたら、安全だったかもしれないのに」

 ゆりは、苦笑しながら言葉を挟みます。

 それに対して、スズメは、平然と答えます。

「それよりなにより、怖かった。もうひとりにはなりたくない」

 言葉は弱気だけど、スズメは、ちっとも怖そうじゃありません。むしろ、この状況そのものも、楽しんでいるようです。

「大体それ、僕の荷物でしょ? 勝手に開けたな?」

 メジロが、呆れて言います。

「いいでしょ。なかなかサマになってると思わない?」

 マシンガン(ガスガン)を、しっかり構えます。けっこうその気だ。

「やれやれ」

「私はどうすればいいの?」

 コルリが、スズメに問いかけます。

「ねえ。私を守ってよ」

「は?」

「守りたい人がいればいいんでしょ?」

 といいながら、スズメは、腰に下げていた拳銃(エアガン=パイソンという、らしいです……詳しくないからわかんない……)を、コルリに差し出します。

「スズメ、あんた……」

 といいながら、コルリはため息をついて、

「あたしのこと、好きだったんだね」

「いや、違うけど」

「あんたの思い、受け止めることは……できない!」

 けっこうためました。涙を堪えているようでもあります。苦渋の決断の演出です。

「えと、それでいいんだけど」

「あたしの心に中にはさ、キジが……ふふ、ツバメもついでに、二人が、ほら、いるんだよね」

「わかってるけど?」

「そこまで言うなら」

「特に何も言ってない」

 と、コルリが拳銃を受け取って、

「わかったよ」

 構えます。

 ……何が分かったんだろう?

 よくわからないけど、せっかくやる気になってくれたところなので、

「どっちにしても、もう、他にやれることはないんだから。タイムカプセルを開けよう」

 ゆりの言葉に、メジロ、コルリ、スズメが頷きます。

 そして改めて、ようやく、

「だるまさんがころんだ!」

 メジロのかけ声で、再開です。


 メジロは、両足をぽんと伸ばした状態でクロスさせ、両手を大きく斜め上に広げるポーズ。

 ゆりは、足を肩幅ほどに開いた状態で、左手を左胸に、右手を大きく真横に伸ばして、人差し指と小指と親指をピンと伸ばして、何かを指すポーズ。

 コルリは、左足を前に突き出して指先を着地させ、左手を股間の辺りにあて、右手は前にかしげた頭にかぶっている帽子を(かぶってないけど)押さえるようにしているポーズ。ポウ。

 スズメは、両足を揃えて立ち、そのまま足首を曲げて、身体を四五度ほど傾けたポーズ。


 スズメは、いきなり大技に挑戦しようとしたことと、余計なものを身体にぶら下げているせいだと思いますが、バランスを崩して倒れそうになります。が、真横にいたコルリが、そっと支えてくれます。

 お互い見つめ合います。スズメは普通に「ありがとう」という視線ですが、コルリは、「君の愛情を受け取ることができなくて済まない」と言う気持ちをたっぷり込めた視線で、気分はどこかの歌劇団の男役です。

 コルリの勘違いと妄想はそのままに、何度か、だるまさんがころんだを繰り返し、みんなは、少しずつ進みました。

 次第に、桜の木の下に近づいていきました。しかし、近づけば近づくほど、その先には困難が待ち受けていました。

 桜の木の下に、ゾンビたち、中でも、友だちたちが、集まっていたのです。

 ツグミ、キジ、クイナ、かもめ、ツバメ。

「なんでこんなところに集まってるんだ?」

 メジロが、不思議がります。こんなゾンビの行動は、図書館までの道のりでも見たことがありません。ゾンビが、生きている人間を求めるゾンビが、それ以外のものを求めるなんて。

「桜の木の下を、掘ってる……?」

 ゾンビと化した友だちたちは、確かに、素手で、木の下の地面を掘り返していました。

 ゴリゴリと、ガリガリと。ツグミの細い指が、キジのキレイなマニキュアで彩られた指が、クイナの柔らかい手が、かもめの小さな手が、ツバメの長い指が、泥だらけになりながら、地面を掘り返しています。

 桜の木の下には、思い出が埋まっている。

 ゾンビの友だちたちの顔は、どれも真剣です。

「もしかして、人間だった頃の記憶が、タイムカプセルを求めているのかも」

 その、ゆりの発想は、とてもロマンチックです。ですが、このままだと、

「近づけないな」

 メジロの言うとおり。せっかくですが、なんとかして、その場をどいてもらう必要があります。とはいえ、

「エアガンで撃つのは、やりたくない」

 コルリの気持ちもその通りです。では、他に方法が?

「しょうがないよね。みんな、後は任せたからね!」

「コルリ?」

 コルリは、静止を解いて、堂々と歩きだしました。そして、上空に向かって、エアガンを撃ちます。

 周りのゾンビたちが、コルリに気づきました。寄ってきます。同じように、桜の木の下にいた、ツグミたちも、コルリに気づきます。ツグミたちが、のそりと、立ち上がり、ゆっくりとコルリの方をめがけて動き始めます。

「何してんの、コルリ!?」

 もちろん、驚いたのは、ゆりだけじゃありません。でも——

「動いてるものに反応するなら、とりあえず動いて、でっかい釣り針になればいいんでしょ? これが、あたしなりの守り方だよ!」

 コルリはそう言いながら、周りのゾンビたちを、どんどん引きつけます。

「やめなよ! 危険だよ!」

「戻れ、止まれ、コルリ!」

 そう言われても、コルリは止まりません。どんどん、コルリの周りに、ゾンビが集まっていきます。エアガンを地面や空中に向けて撃って、ゾンビを威嚇しつつ、距離を詰めさせないようにして、桜の木の反対方面に誘導します。

「あたしさあ、欲張りなんだよね。友達も、好きな人も、みんな、手放したくないの。だから、誰のことも裏切ることができない。損な性分ってやつかね」

 それでも、コルリの周りにだけゾンビがいるわけではありません。ゾンビは、ゆりたちの周りにも、次々に群がってきます。このままでは、全員が襲われて終わり——

「一人でカッコつけるのはやめてよね!」

「スズメ! 動くな!」

 メジロの制止も聞かず、スズメも、コルリ同様に動き出しました。コルリの動きと連動させながら、マシンガンで威嚇を続けます。ゾンビには当てないよう気をつけて。

「スズメ、あんた……!」

「このまま、小学校に誘導するよ!」

「やっぱり、あたしを愛して……!」

「違うから!」

 スズメとコルリが、それぞれに派手な動きをしつつ、ゾンビの群れを、小学校の校庭に連れて行きます。さながら、ハーメルンの笛吹き。

 そして、小学校の校庭の中程まで来たとき、小学校にいたゾンビたちも群がってしまい、スズメもコルリも、囲まれ、捕まってしまいました。

「コルリ! スズメ!」

 ゆりの叫びは、果たして、二人に届いたのか。確かめることはできません。

 桜の木の下からは、ゾンビがいなくなりました。でも、あまりにも犠牲が大きすぎる。

 このまま、長期戦になるわけにはいかない。あと少し。一気に行こう。

「待って! 慌てないで!」

 ぽつり……

 メジロの言葉も待たず、ゆりが、

「だるまさんがころんだ!」

 自分のかけ声に、動き出そうとしたとき、背後にいたクイナが、ゆりに襲いかかりました。

「クイナ!」

 驚いたゆりは、逃げることができません。両腕を伸ばされ、身体を掴まれそうになります。

 その瞬間、ゆりの身体が吹っ飛ばされました。

 メジロが、ゆりを突き飛ばしたのです。クイナは、ゆりではなく、メジロに襲いかかりました。

「メジロ!」

 突き飛ばされて地面に倒れつつ、ゆりが動こうとしますが、

「動くな!」

 メジロが制止します。ゆりは、その動きを止め、ストップします。

「……嘘でしょ」

 目の前では、メジロがクイナに掴みかかられ、クイナは、よだれを垂らしながらメジロに噛みつこうとしています。

「ねえ、クイナ。もうちょっとだけ待っててくれないか? 僕は、タイムカプセルを開けるんだ。だから、もう少しだけ、待ってて。お願い」

 そう言うと、メジロは、クイナを力任せに突き飛ばします。クイナは少し離れたところに飛ばされました。再度、起き上がって襲いかかってこようとしたところ、メジロがしっかりストップして、クイナの意識から外れました。

 とはいえ、すでに、メジロも息が上がっています。

「大丈夫なの!?」

 ぽつり、ぽつり……

 メジロは、自分の身体を調べて、新しい傷がないかどうか確認してから言いました。

「大丈夫、クイナからは、感染してない」

 そう言いながら、メジロはぶるぶると震える身体を自らの手で抱き締めて、押さえようとします。とても、寒そうです。

「ごめんね。もう油断しない」

「僕はさ、本当はゾンビなんて、どうでもいいんだ。あいつの書いたものを最後まで読みたい。ただそれだけだったんだ」

「メジロ?」

 メジロが、その場から動かず、訥々と語り始めます。

 身体の震えは、収まりません。

「解決法なんてないのかもしれないし。それでも、人生最後だと思ったら、どうしても読みたくなったんだ」

 メジロの様子に、ただならぬものを、ゆりは感じました。

「……感染してないんだよね?」

「クイナからじゃないんだよ」

「嘘だって言ってよ」

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……

 最悪の場合は瞬間的に、かすり傷程度の時にも、長ければ——

「最長三日か」

「まさか、図書館に着く前に?」

 メジロが、服の襟元をめくります。首筋に、小さな引っかかれた傷があります。

「僕は、あいつの書いたものを読むんだ。そこにあるんだ」

 メジロが、諦めきれないように言います。もう、諦めるしかないのを知っているから。

 ただでさえ、元々色白なメジロの顔色が、はっきりと分かるほどに、青白くなってきました。顔面蒼白。

「メジロ。落ち着いて、メジロ」

 ゆりは自分が発している言葉が、まったく無意味であると悟っています。なんで慰めの言葉一つ言えないんだろう? 慰めたところで何にもならないのも分かっているけど。

「もう少しなんだ。そこにあるんだ!」

 メジロが、大きな声で叫びながら、立ち上がりました。

 ぽつ……さぁぁぁぁぁぁ……

 一瞬、ゾンビの群れが、メジロを見ました。が、すぐに興味を失ったように、意識を外しました。

 ゾンビはゾンビを襲わない。

 メジロの動きが一瞬止まり、その後、ゆっくりと動き出します。

 メジロは、ゾンビになっていました。


 雨。

 ポツポツと降り出していた雨が、しっかりとした線を空間に引いて、雨になりました。

 そんなこともかまわずに徘徊するゾンビたちの群れの中に、一人、ゆりだけが、立っています。

「どうしよう。どうしよう。どうしたらいいの?」

 残り、約三m。

 ここまできました。

 でももう、自分一人しかいない。

 ゆりは、そんなに強い人じゃありません。自分一人で何とかできるほど、器用でもなければ、度胸もありません。いつも、かもめがそばにいてくれたから、なにかあっても、気が紛れるし、自分の弱さを見つめずに済んでいました。

 もし、周りに誰もいなかったら、自分なんか、何もできないただの臆病者だ。

 ゆりは、もう、これ以上、進むことができない自分を自覚しました。

 無理だ、できっこない。

 そう言って、小学生の頃から今まで、やりたいこともやりたいと言わず、できることもできると言わず、ただただ、周りに流されて生きてきた。何をしたくて、なんのためにがんばろうとしているのかも分からない中で、虚勢をはって生きてきた。

 一人じゃなかったから。周りもみんな同じだったから。だけど、もうダメ。一人ぼっちになって、それでも、目的を達するためにがんばれるかなんて、無茶言わないで欲しい。

 あたしはがんばったよ! がんばった! うん!

 だからもういいじゃん! 死んだら、ゾンビってあの世に行くのかな? あの世にいけないから徘徊してるのかな?

 もし、あの世に行くんなら、あの世でみんなに謝ろう。

 ゾンビのままなら、そのままみんなと合流して、謝ろう。

 うん。がんばった!

 諦めたゆりの目の前に、かもめがやって来ました。ゆっくり。ゆっくり。

 ゴクリ。息を呑むのは、生きているゆりだけです。

 ゆりとかもめが、真っ正面から見つめ合います。かもめの目は、ゆりを。ゆりの目は、かもめを。二人は、お互いをじっと見つめます。

 まるで愛を誓おうとする恋人のように。

(こいつとなら、付き合えたのかな?)

 雨の影響で、桜の花びらが落とされてきます。

「そうだよね」

 ゆりが、軽く、全身に力を入れます。

「私は、かもめを助けるんだ。みんなを助けるんだ。ないかもしれない。だけど、あるかもしれない」

 さあぁぁぁぁぁぁぁぁ……

 雨は降り続きます。一週間以上降らなかった雨です。すぐには止みそうもありません。

 雨の中、ゆりが、かけ声をかけて、ゆっくり動きます。

「だるまさんがころんだ」


 ゆりは、右足を軽くあげて左足一本で立ち、左手は肘を曲げて、右手を人差し指を伸ばすポーズを取りました。


「よし」

 もうすでに、ゆりはびしょ濡れです。

 ゆりが、少し動いて止まります。

「だるまさんがころんだ」


 ゆりは、一気に腰をかがめてしゃがんで、大きな荷物を持ち上げようとするポーズを取ります。


 雨で落とされた桜の花びらが、ゆりの頭に顔に、降りかかってきます。

 ゆりが、更に少し動いて止まります。

「だるまさんがころんだ」


 ゆりは、腰から上を前傾させて、頭を下げるポーズ。


 ゆりが、少し動いて止まります。

 そしてようやく、桜の木に到達しました。

 大きな大きな桜の木。その花びらが、雨と一緒に、たくさん散っています。

「だるまさんが、ころんだ」

 

 ゆりは、右手に持った缶コーヒーを飲んで(持ってないけど)、一息つくポーズです。


 雷。

 心なしか、雨が強くなってきました。

 ゆりが、少しずつ動いて、桜の木の下の地面を掘り返します。

 ゾンビが来た。

「だるまさんが、ころんだ」


 ゆりは、一気に腰を下ろして座り、中空をただただ見つめるポーズを取ります。


 ゆりが、更にゆっくりと少しずつ動いて、地面を掘ります。

 ゾンビになっていた仲間たちが、途中まで掘り返しておいてくれたおかげと、雨で土が軟らかくなったおかげとで、そう苦労せずに、掘り返すことができました。

 袋に入れられた、クッキーの四角い空き缶。

 タイムカプセルです。

「だるまさんが、ころんだ」

 そういうと、ゆりは、桜の木の裏側に回り込みました。おそらくそこは、ゾンビたちの目線に入らない、死角です。

 ありがたいことに、桜の木が大きく、雨除けにもなってくれます。

 花びらが、落ちてきます。

 もう、図書館に戻ることはできません。五〇mの復路は、あまりにも遠い。

 ゆりは、タイムカプセルを、その場で開けることにしました。

 ビニールの袋から取り出した、空き缶=思い出の箱を開けます。

「……なんだこれ?」

 その中にあったのは、ガラクタばかりでした。

 古くさいおもちゃの人形、なんの映画か分からないDVD、ゲームセンターのメダル、お菓子のレシピ、みんなのプリクラ(色褪せてて何が映ってるかさっぱりわかんない)……

「はは、誰だよ、バッテリー切れのiPodTouch入れたの……そっか。あたしだ。お父さんの使い古しで、私にくれた、iPod。なくしたって言ったらものすごく怒られた、iPod。みんなの写真をおさめた、大事なiPod。もう何も聞こえないよ、iPod」

 ゆりが、すでにバッテリーが膨張して、当然使い物にならないモノを、そっと箱に戻します。そして、中を更に漁ります。そして、ようやく、手紙を見つけます。

 ノジコの手紙。

 十通ある内の十通目。助かる方法が記された、最後の手紙。

 厳重にビニール袋で包まれ、結露対策か、乾燥剤も入っていました。

 慎重に袋を開け、手紙を取り出します。原稿用紙にして、約一〇ページ分。

 雨に濡れないよう気をつけつつ、文面を見ます。

 十通目の手紙です。

 ところが。

「……白紙?」

 そこには、何も書かれていませんでした。

 めくってもめくっても。一〇枚ある原稿用紙は、全部確かめました。

「これ、ただの、白紙の原稿用紙だ」

 一〇枚の原稿用紙には、何も書かれておらず、ただ、その原稿用紙に挟まれた、メモ用紙がありました。

 メモ用紙には、こう書いてありました。

「かっこつけて続きものを書いたけど、結末、まだ思いついてないんだよね。でも、今は思いつかないけど。きっと、一〇年後、タイムカプセルを開けるときには、いいアイデアが浮かんでて、続きが書けるといいな。そんな私の夢は、将来、小説家になることです」

 最後に、「ノジコ」と署名がありました。

「なにこれ? もしかして、これって、ノジコが書いた、ただの小説だったってこと?」

 ざああああああああああああああ……

 そこには、もちろん、薬のことなんて、一文字も書かれていません。

 ノジコが書いた、小説。ああ、だからか。物語の創作の部分と、現実の、みんなのだるまさんがころんだのパートが混在していたのは、思いついたままに手書きで書いていたからなんだ。

 ゆりは、そう納得しました。

 当たりです。

 みんなをモデルにして、一生懸命、架空の物語を考え、でも、それに疲れたら、外で遊ぶみんなの姿を描写して。とにかく、文章を書きたくなったから書いていたのが、私の処女作です。

 未完だけど。

 ゆりの顔には、雨で散った桜の花びらが、たくさんへばりついています。

 雨で濡れているのか、それ以外のモノなのか、判別はつきません。

「くっくっく、あっはっはっは……!」

 ゆりが、大きな声を上げて笑い始めます。

 こんなもの。こんなもののために、みんな、みんな、ゾンビになった。

 メジロ、おめでとう!

 読む必要があるないじゃなくて、読む物がそもそもなかったよ!

 なかったよ……。

 一体なにしてたの、あたしたち……。

 ゆりの笑い声がどんどん大きくなります。

 雨が、更に激しく、雷が何度も鳴り響きます。

 強い風が吹いて、桜の花びらが更に宙に舞います。

 ゆりが、立ち上がって、桜の木の下から、離れます。

 その動きを感知したゾンビが、ゆりの周りに集まります。

 ゆりだけでなくゾンビにも、桜の花びらがへばりついています。

 ざああああああああああああ……

 ふっ、と……考えてみたら。

 考えてみたら、ゾンビと今の自分と、何が違うんだろう?

 まだ二十二歳。もう二十二歳。今自分が何をしたいのかも分からず、何をすればいいのかも見つけられてない。そんなことを言い訳にして、何もせずに生きてきた。

 生ける屍。リビングデッド。

 どっちが?

 生きてるのに、何もしたくないし何もしない肢体。

 死んでるのに、ゾンビの本能に従い徘徊する屍体。

 どっちも死体だ。

 私は何をしたいの?

 もう手遅れなんだろうか。

 もう何もかもが終わりなんだろうか。

 こんな不格好なままで。何者にもなれないままで。

 これが今の私。何にもない。

 ただの、したい。

 もし一〇年前からやり直すことができたら、何をするだろう。

 ううん、今から、何をするだろう?

 もう、そんなことを考えることすら、意味がないんだろうか。

 意味なんて、誰にも、何もないんだろうか。

 ないんだろうなあ。

 でも、せめて——

 ゆりは、もう他の誰のことも意識しません。ゾンビがゆっくりと群がってきます。

 ただ一人、かもめのところに、向かいます。

 どうせ仲間になるなら、せめて、かもめがいい。

 ううん。かもめじゃなきゃ、やだ。

 ゆりは、かもめの前に立ちました。お互いに、桜の花びらで彩られています。

 じっとその顔を見ます。見慣れてるはずなのに、改めて。

(かもめ、可愛い顔してるなあ、お前は)

 ゆりの口元が、少しほころびました。

「いいよ。かもめなら」

 ゆりは、かもめに近づきました。こちらに力なく伸びている、かもめの両手を取り、そのまま抱き寄せ、自分の両手で、かもめの頭を包むように持ちます。

 至近距離で見たかもめは、

(頭、ちっちゃいなあ)

 そして、顔を近づけ、かもめの唇に、自分の唇を、そっと重ねました。優しく、優しく。

 少し柔らかい。ぷるっとしている。

 女の子の、唇。

 頭頂部から、軽く頭がしびれた感覚を覚えました。これが。

「……噛んで……」

 一度、唇を離してから、もう一度。もう一度。ゆりは、かもめと口づけを交わします。

 身長差二〇cmの、キス。

(……いいよね?)

 あたたかい。

 ……あたたかい?

 その時——

 突然、全身の力が抜け、かもめが倒れました。

「かもめ!?」

 だけでなく、ゆりの周りを取り囲んでいたゾンビたちが、バタバタと倒れ始めました。

「……何? どういうの?」

 辺りを見渡すと、少なくともゆりの視界の中で、立っているのは、自分一人でした。

 ゾンビになっていた人たちが、全員、倒れています。

(ちょっと待ってよ。まだ私、噛まれてないんだけど?)

 ゆりは、妙な焦りを感じました。

 雨は降り続いている。雷が鳴っている。桜の花びらが舞い散っている。

 ざざざあああああああああああああああああ……

 どれくらい、たたずんでいたのか。

 おそらく、時間にして、五分、いや、一〇分か。もっとかもしれません。

 呆然とするゆりの周りで、もそもそと動く人がいました。一人、二人、何人も。

「……かもめ?」

 かもめもまた、他のゾンビ同様、起き上がります。足下がぬかるんでいて、少しバランスを崩しそうになりますが、なんとか、持ちこたえました。

 両腕を伸ばして、ぐぐっと宙に向かって、全身の伸びをしたかと思ったら、大きな大きなあくびをしました。

「かもめ……?」

 かもめの目に、涙と焦点が生まれました。小さく口が開いていきます。その口は、噛むためではなく、音を発するために使われました。

「……ゆり。ゆり」

 弱々しく、だけど、はっきりと。

 間違いなく、かもめの口から、自分の名前を呼ばれたのです。

「かもめ?……私がわかるの?」

 かもめが、辺りを見渡し、自分の身体をまさぐって、胸の辺りでその手を止めます。

 にっこり、ゆりに笑いかけます。

「私の心臓、動いてるよ」

 そう言うと、かもめは、ゆりの手を取って、自分の胸に当てます。そっと。優しく。

 かもめもまた、ゆりの胸に手を当てます。そっと、優しく。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ……

 トクン、トクン、トクン、トクン……


「私、生きてるよ、ゆり」

 聞くが早いか、ゆりが、かもめを抱き締めました。ぎゅっと。力強く。

 かもめも、ゆりを抱き締め返しました。そっと、でも、しっかりと。

 桜の花びらが、舞い散ります。


 雨は、降り続いていました。

 

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