橋を渡る、

大河

本編

「たとえば、見えるでしょうか。あの橋がそうです」


 週末になると決まって石段を歩いていた。

 神社仏閣巡りが趣味の両親に連れられて、方々の社、寺を訪れる。山中にある駐車場に車を停め、参拝道を上る。道中には必ずといっていいほど木でできた看板が設置されており、祀られた神様やら建造にまつわる歴史やらが読みづらい文字で綴られている。なるほど、なんて分かったようなふりをしながら文章に目を通し、拝殿、小銭を投げ入れて礼。

 小さな俺に理解できたのは、社の違いくらい。同じような風景、似たような建造物、変わらない行動の連続に嫌気が差していた。

 だからだろうか。

 新鮮な物語。ほんの些細なお話を、鮮明に記憶しているのは。


「此の世と彼の世には、明確な境界線があるのですよ」


 寺の住職だっただろうか。少なくとも両親ではなかった。

 その人は、建物の裏手に見える石碑と水の枯れた池、それから橋を指差した。


「手前と奥を比べてみて下さい。なんとなく奥の方が暗くなっているのが分かりますか? 橋を境に、手前側が此の世。向こう側が彼の世です」


 俺は暗さに差があるとは思わなかったが、周りの大人たちは口々に「言われてみれば」と呟いた。

 多くの物事は多数決で決まるから、この場合は俺の目がおかしかったのだろう。


「ですから、ええ。生者である皆様は、橋を――此の世と彼の世の境界を、決して渡らぬように」






 柏木峠とは、山形県高畠町と上山市を結ぶ峠の名である。1980年代に竣工したトンネルのおかげで、道全体が二車線に改装されており、一般的に想像される峠道よりははるかにスムーズな通行が可能となっている。冬季間の通行止めもない。

 ただし、田舎道の常ではあるが、街灯が非常に少ないどころか山中一本もない。月のない夜は、自動車のヘッドライトだけを頼りに20分以上峠道を走行することとなる。

 うち10分ほどの区間は電波さえ届かない陸の孤島だ。万が一にも事故が起きれば、車を降り、電波の通じる場所まで歩いて山を下りる必要がある。

 そういった事情もあり、よほどのことがない限り、俺は夜の柏木峠を避けるようにしていた。


「…………」


『よほどのこと』というのは大抵、自分事か、もしくは家族・親族に関する出来事だろう。


 助手席シートに転がしたスマートフォンが振動する。車を一時停止させ、通知の内容を確かめる。

「警察が人手を増やしてくれるそうです」母からだった。

 既読も付けずに再発進する。


 認知症の父が行方不明になった。山形市で彼女と式場選びをしている途中、父と同居している母から連絡が入った。

 散歩に出かけると言って3時間経ったが、家に戻ってこない。

 コートは羽織っていかなかったのかと母に尋ねる。着ていたはずだと返答があった。

 捜索アプリを立ち上げ、現在地をチェックする。コートのポケットには見守りケータイを仕込んであるので、GPSで父の居場所が分かる。

 父の居場所は家だった。

 母が靴箱の中に転がっている見守りケータイを発見した。

「急いで帰る」

 俺は柏木峠を通ることを決めた。


 エンジンを吹かしながらきつい傾斜を上り切り、下り坂に入ってすぐの地点だ。

 トンネルの出口に差し掛かったところ。

 軽くブレーキをかけ、アクセルから足を離してすぐのタイミング。


 ふっと目の前が暗くなった。

 ライトが急に切れたのか。こんな時に。

 月明かりのない夜だ。目前には黒ペンキをぶちまけたような暗闇だけが広がる。

 何も見えない。

 ブレーキに足を掛ける。


 直後、警告音が響いた。

 車線逸脱を検知した音だ。

 同時にハンドルがひとりでに左回転。車は中央線から逃れる方向、つまり道路の外に向かって走り、山側の斜面にぶつかる寸前で停止した。


 最悪だ。早く帰らなければいけないのに。

 運転席から出て、スマートフォンで辺りを照らす。車の状態を確かめる。

 前輪は側溝にぴったりと嵌っていた。雑草が絡みついている。他、急な左ハンドルで轢いた石が跳ねたのか、車体に小さな傷が見えた。


 運転席に戻り、ギアをバックに入れる。何度かアクセルを踏み込んでみるも、前輪は外れそうにない。

 車を押してみる。びくともしない。

 アンテナマークはゼロ。ちょうど圏外のエリアだった。

 通りがかる車を待つか、電話できる場所まで徒歩で山を下るか。

 ……気分が悪い。




 3分ごとに電波状況を確認し、溜息を吐いている。

 暗闇の中で歩くにも灯りは必要だ。ライトのせいでバッテリーの消耗は激しい。

 どれくらい歩けば電波が入るのか。

 先が見えないという状態が続くほどに、足が重くなっていく。


 心が落ち込むほどに肩と頭が下を向く。視線が道路を捉えたとき、ふと、センターラインが目に留まった。

 消えかけている。

 交通量の少ない峠道だ。擦り切れたことを報告する人も、補修に割く人員もないのだろう。

 寂しい話だ。


 さらに10分ほど歩いた先で、メッセージの受信音。

 母からだった。

「父が見つかりました。事故で亡くなっていたそうです」






 ソファーに腰掛け、紙コップのコーヒーを口に運ぶ。

「修理が終わりました」

 三度ほど足を組み直した頃、男が戻ってきた。

 普段連絡を取っている担当営業は不在とのことで、代わりを新人と思しき若い男が務めていた。

「結局どうでしたか」

「車線逸脱機能の件ですね」

 男は腕に抱えた資料の束を漁る。


 事故から一週間が経つ。俺は修理屋ではなく、ディーラーを訪ねていた。

 理由は単純で、車線逸脱の動作不良をメーカーに相談すべきだと考えたからだ。


 事故の原因は、自動車が急ハンドルを切ったことにある。

 あの後、柏木峠の道路を見直してみたが、ほとんどの場所でセンターラインが削げ落ちてしまっていた。

 本来であれば自動車は車線そのものを認識できない。

 逸脱を検知することも、戻そうとハンドルを切ることもできやしないのだ。

 誤作動しているに違いなかった。


「こちらが詳細資料になります」

 男が差し出した資料を眺める。

 あまり見る機会のない検査項目がリストになって並んでおり、そのすべてにバツが付いていた。

「この度は大変申し訳ございませんでした」

「やはり故障していましたか」

「はい。完全に壊れておりました。逸脱検知は機能しない状態でした」

「……何ですって?」

「内部データを確認いたしました。逸脱を検知した記録も、警報が鳴った記録も、何もありません。動いていないので当然ですが……。機能をオンに切り替えても、何も動作しておりませんでした。今回の修理は車側面の傷、また念のためのヘッドライト交換を含めて全額無償とさせていただきます。大変にご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」

「待って下さい。さきほども伝えましたが、私は警報を聞きました。ハンドルも勝手に動いたんです。機能していないはずがない」

「ですがログは残っておりませんでした」

「ログが残っていなかっただけでは?」

「ええ。確かにログデータが消失した可能性もあります。なんといっても完全な故障ですので」

「しかし」

「この度は大変申し訳ございませんでした」


 話は終わり、とばかりに男は鍵をテーブルの上へ置いた。






 決して渡らぬように。

 忠告した誰かがいなくなってすぐ、俺は橋を渡ろうとした。けれど橋を渡る前に、父に腕を掴まれ引き戻された。

「まったくお前は人の言うことを聞かない。少しは落ち着け」

 抵抗して暴れる俺を、父は両腕で乱暴に縛り付けた。

「ここで勇んで馬鹿をやる価値はねえ。冷静になれ。物事の優先順位を考えろ。いつだってオレが止められるわけじゃねえんだぞ」




 結婚式に招いた母は、膝の上に父の写真を抱いている。

 写真の父は、生前は決して見せないような笑顔に加工されている。


 違和感しかない写真を見るたび、あの日、柏木峠で起きた不可思議な事故を思い出す。

 ハンドルを握った父の姿を、頭の中に思い描く。


「オレのために急いで事故起こす馬鹿があるか」


 そんな叱責が聞こえた気がした。

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