アンコール!

 開けっぱなしの窓から時折、花弁が迷い込む。大体は先端が日焼けて変色しているのだが、彼の手元にへなと寄り添ったそれは、可憐な桜色を保っていた。視線はそのまま腕時計に移って、彼が瞬きするのと同時にチャイムが鳴った。

 青空ならもっとムードもあったろうに、と花弁を摘みあげた彼は用心しながらそれをマウスパッドに挟んだ。甘い花の匂いと木の皮の匂いが混じって、狭い部屋をかすかに湿らせる。

「降るかもな」

 ソファに寝そべった学ランが、折り畳み傘の内側からくぐもった声を響かせる。傘骨は機能していたが、継ぎ方のせいか少し歪んでいた。彼は布面の、完全には張っていない部分を見つめた。流石に元通りとはいかなかった、それでも買い換えるのも嫌だった。せっかく奴が進んで直したのだから。

 椿の葉がざわついた。折り畳み傘はまた、自分の出番を喜ぶように風を含んで膨らんだ。

 彼はキーボードを打ち込む傍らで、詰襟の一番上のボタンを外した。

 空気を混ぜようとしてるのか、傘がくるくる回った。

「まーた仕事か」

「いや、これはコンペ用の脚本」

「そいつァいい」

 ダミ声が機嫌良さげに言うと、傘がより速く回転する。

「自分の未来は自分でDIGンなくっちゃな」

「お前もな。期末終わったからって気抜いてんなよ、すぐ中間だぞ。三年は外部の模試も受けさせられんだから」

 白い手は傘から伸びて、ごつごつした関節でこちらに左右に振ってくる。中指を立てられなかっただけマシだ。

 彼は半ば諦めに近いため息を吐いて、力なく笑った。

「ったく。これで最後だと思って期末見てやったのに、また同じクラスなんてな。先が思いやられるわほんと」

「ラブコールか?」

「何をどうとったのか教えてもらえる?」

「ッハ、いいじゃねえか。三年間一緒のクラスになるなんざ天文学的確率だ、仲良くしよーぜ」

「奇跡みたいに言うな。学年人数が400として、一年次が40、二年連続が4、三年連続が0.4……10パーセント、1パーセント、0.1パーセントだ。数学的にもわりかしでかい数字だよ」

「ざっと千人に一人で済む話だろ」

「お前ね。人の親切を」

「ま確かにそンなんじゃあ、天文学的数値には程遠いわな」

「おいこら聞いてんの。そんなだからこないだの証明落としたんだぞ、大問七」

「うるせーうるせー」

 殻に閉じ籠るイソギンチャクみたいに、傘がソファとくっついた。

 これ以上話しても無駄そうだ。彼の視線は窓の外を経由してからパソコンに戻した。校舎に漂う活気は新入生たちを彷彿とさせた。ゆったりとした風が土の香りを運んできて、瞼が重くなった。

「つかオメー、そのオッサンみてえな写真立てまだ使ってンかよ」

 傘からやる気なく垂れ下がった腕が、彼の机の上のそれを示す。早蕨祭の集合写真と、修学旅行の際に撮ったものとで二枚。鏡合わせのように立ててある。

 王子に扮したセラは、公演時の美貌をそのままに、写真に閉じ込められていた。角脇も、他クラスの人間とはいえ、あの頃のセラはまだ軽音楽部員だったし、まあセーフだろうということで手打ちにしてくれた。書類にもいくつかの部活動に協力を仰ぐとしか書いていなかったし。そこら辺の悪賢さであれば、彼女にも負けない自信がある。彼はソファにくつろぐ折り畳み傘を盗み見た。

 元々、顔立ちが整っており背もあったセラが見事に彼の期待に応えたのは言うまでもなかった。角度で誤魔化す算段だったのに、本当に姫にキスしたことには驚いたが。舞台に潜む魔物の仕業か、あるいは人魚に魅了されたのか。

「……なーんて」

「ア?」

「なんでもない、独り言」

 彼は写真の隅で誇らしげにしている彼自身を見つめる。今のところ人生で最も良い笑顔を浮かべていた。それもまた自己評価に過ぎないが、でもそういうのを抜きにしても最高の写真だと思うのだった。

「きめー」

「いいだろ、思い出なんだから、浸っても」

「脳に焼きついてる以上が必要か?」

 傘の下から聴こえる言葉にはロマンもへったくれもない。人魚姫と同一人物とはとても思えなかった。

「お前だって写ってるんだからな」

「だからなンだよ?」

 一蹴された彼は余計に唇を尖らせた。

 早蕨祭の隣を飾る修学旅行先での集合写真の方は、クラス全員で撮ったものではない。『人魚姫』の方で、感動に顔をくちゃくちゃにさせている角脇も写っていない。いるのは彼自身と行動を共にした班員だけだ。無論、諸事情で強制的に彼の班に入れられた彼女も。

 彼は撮影時のことを思い返して目を細める。表情もポーズも、誰一人として上手く撮れていない一枚。彼はその写真を気に入っていた。

「いいだろ。父さんがくれたんだ」

「……」

「初めてだったんだよ。父さんに何か貰ったのなんて」

「アーハ、なるほど…プレゼント…靴下が見えてたんだな、オメーの親父には」

「はあ?」

「大事にしろよ。ダセーけど」

「一言多い。ほっとけ」

 束の間感じさせた感慨を吹き飛ばすように、傘はゲラゲラと笑った。

 廊下を行く足音が騒がしくなる。いよいよ放課後だ。彼は息を吐き、もうひと頑張りと伸びをする。

 生徒会室の扉が程なくして叩かれた。何か用事を入れていただろうかと考えながら、彼は声を張った。

「はい」

「こ、こんにちはー……えーっと。その、入部届の控えを、ですね……」

「おっ、新入生か。どうぞ」

 合点のいった彼は、相手に見えていないと分かっていながら手招きをした。

 様子見のように扉がだんだん開いていき、数名の生徒が入って来る。彼は品行方正そうな少年の後ろに連なる彼らに釘付けになった。どこかで見た覚えのある顔だ。一人ずつじっと見て、それからあっと声をあげる。いつか、この学園で。あの日、校門の前にたむろしていた不良たちだ。中学生だったのか。

「あのう……?」

 彼が唖然としているのを、筆頭の少年が不思議そうに見守る。彼は急いで意識を引き戻し、少年の差し出す紙切れを受け取った。そしてそれを、確認済と書かれたファイルに綴じようとした。

「はいはい、美術部ね…ん、もう一枚ある…部活動新設の申請書……?」

 彼は読みあげつつ、深く座った椅子から、制服に着られた少年を見上げた。少年は気まずそうに瞳孔を右往左往させた。

 嫌な予感がした。

 綺麗に裏返し、その書面に書かれた文字を見て辟易する。声にならない嘆息が、生徒会室に静かに響きゆく。彼は額に手を当てがった。無性に目玉をぐるりと回したくなった。

「……受け取っておくよ」

 新年度が始まって、もう何枚目だろうか。嫌というほど見てきた四文字も、こうも目にする機会が多いとなんだか愛着まで湧いてくるようで。彼はおかしくなってきて、腹から笑いが込みあげたのを意地で抑えた。

「生徒会長、さん?」

 朗らかな彼の反応が意外だったようで、少年は何度も目をパチパチさせた。背後の彼らも顔を見合わせている。

「あの?」

「ああ、いや、なんでもないよ、なんでもない」

 そうはぐらかしはしたが、なおも彼の口角は上がっていた。

 今までになく冷たい風が吹き込んで、ああこれは降るなと直感する。くるぶしの辺りがくすぐったい。

「お前の客だぞ」

 不安そうな面持ちでこちらを窺う一年生には応えず、彼はソファに向かって声を飛ばした。目線は花弁を向いていた。マウスホイールに埃が見えて、拭いてやろうと取りあげる。

 傘がソファから浮いた。

「ア?」

「ラブコールだって言ってんの」

 彼はマウスから取り除いた埃を、足元のゴミ箱に放った。きちんと入ったかどうかは確認しなかった。それよりも彼女に、どうする、と問いかけるような視線を投げてやりたかった。

「このままだとマジで絶対数かもよ、元部長」

「オイオイ」

 寝ていた学ランを重そうに持ち上げて、傘の中が英語を喋る。罵倒の単語、だがそれらは隠しきれないはにかみをちらつかせた。

 ドタバタと床が騒ぐ。折り畳み傘に生えた足の下敷きになっていたギターケースが、ソファから転げ落ちた。

「またかよ、ファンボーイ?」

 喉に突っかかるような独特の乾いた笑いには、呆れが混じっているようでもあった。

 曇天に花開いた傘の端から、月白の髪と、にやり覗いた歯が燦めく。

 反動をつけて起き上がった彼女は、照れくさそうに彼を見た。

「サインとかねーぜ、ニツキちゃん」

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青光/アオピカ 山城渉 @yamagiwa_taru

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