カーテンコール

 舞台が暗転する。

 惜しみない拍手が起こらないのは、出来の良し悪しの問題ではない。観客はただ圧倒されているのだ。その証拠に、物音一つ、衣擦れ一つ、聞こえない。

 誰も、帰って来られていないのだ、現実に。

「……」

 僕もまたその一人だった。呼吸も忘れて、暗闇となったこの空間で、物語の余韻から抜け出せずにいた。

 すごいものを見た。言葉が見つからないくらいの。どう言い表すべきか分からない、ただ、本物を見たのだ、正解を。そんなような確信だけがあった。

 全身の鳥肌は治まらないし、興奮で指先の感覚は無いうえ、高揚した顔面は火照っていて熱い。

 こんな、こんなものを作れるのか。高校生というのは。

 鼻から息を吸ったが、震えてしまってうまく空気を取り込めなかった。

 そうこうしているうちに大音量の音楽が鳴り響いて、舞台袖からたくさんの人が出てくる。いわゆる、演劇版のスタッフロールである。

 そこでようやく、破れんばかりの拍手が沸いた。つられて僕も、脱力してしまって未だ思い通りに動かぬ手を懸命に叩いた。吸いきれなかった息も吐き出した。

 舞台にあがってこちらに手を振る彼らは、台詞を言う役者だけに留まらず、裏方だったのであろうジャージ姿の生徒も多く見られた。中心に立っているのは騎士や皇女、姉姉妹、すっかり見知った顔ぶれだ。 奥底の魔女もいる。だが、肝心の末の姫と王子はまだ登場しなかった。序列というか、順序があるのだろうか。僕は演劇には詳しくないので、よく分からない。でも拍手を緩めることはしなかった。

「すごかったな」

「な」

 隣から昂ったような声が聞こえた。派手なネックレスやピアスをつけた子たちだ。恐らく同い年。校舎内で話しかけられた時は輩に絡まれたのかとドキドキしたが、地図が読めないから連れて行ってくれないかと頼み込まれて渋々了承した。見に行けと親に言われて見に来ただけだったから、僕はさっさと帰ろうとしていたのだけど、彼らのおかげで僕は今ここにいるのだと思うと少しありがたかった。パンフレットは僕が握りしめてしまったので、大きく印刷された早蕨祭という文字にはシワが寄っていた。

「あの人魚、ニツキだったよな、あれ」

「ああ、俺も思った。絶対そうだよな」

 盗み聴くつもりはなかったのだが、頷き合う彼らの声が耳に入って、彼女がニツキという名前なのだと知る。彼らは彼女の知り合いなのだろうか。羨ましい限りだ。

 舞台上の演者らが大きな身振りをすると、袖からようやく人魚姫と王子が登場する。

 僕は思わず首を傾げた。彼らはもちろん先ほど渾身の演技で僕を魅了した二人であったが、なぜかその格好に似つかわしくない機材を身につけていたからだ。王子は何か機械を、姫に至っては、ギターにスタンドマイクまで持っている。

 突き刺すみたいに勢いよくそれを舞台に置いた彼女は、ハウリングなど意にも介さずといった様子で、マイクに口を近づけた。彼女が肩に掛けたエレキギターを爪弾くと、王子を初めとしたその場にいた数人が彼女に合わせ、突如としてバンド演奏が始まった。僕には状況は全く飲み込めなかったが、彼女の歌声は相変わらず人を惹きつける、力強い声をしていた。

 背後が俄かに騒がしくなる。振り返ると、第二体育館の外から光が漏れて、それを横切る大人が何人かいた。教員のように見えた。何かをしきりに叫んでいる。しかし彼らが訴えても、バンド演奏にかき消されて何も聞こえなかった。

 その歌は、今しがた公演を終えた『人魚姫』に準えたものだった。海だとか空だとか青だとか。そんなような歌詞が聞き取れた。明るく勇猛な曲調が、理屈や理性を踏み越えて、僕の心に激流のように荒々しく流れ込む。音楽になんて詳しくないのに、意識が引きずり込まれそうになる。

 伝説に残るセイレーンは、美しい歌声で船を難破させたというが、彼女が放つのはそれとはまた違う、暴力的な魅力だった。彼女から目が離せないというよりは、僕の顔が彼女によって彼女に向けさせられているような、そんな感覚。頬を掴まれているような感触さえした。

 転調した曲はさらに盛り上がりを見せ、彼女のボルテージも最高潮となる。観客たちも、僕も、いつの間にか手拍子をしていた。客席は一体となって、彼女を讃えるように彼女の歌を聴く。

 喉を壊す勢いでがなる彼女は、僕の思い描いていた人魚とは程遠い。なのに、心を掴んで離さない。全身に血が駆け巡った。

「青春てのは!」

 演奏のさなか、歌の合間、彼女が観客席を指差した。

「夢を諦める過程を美化しただけの言葉だ」

「おやめなさい!」

 人混みをかき分けて舞台の側まで走って行った教員の声が、マイクに入った。

「今すぐに!」

 しかし彼女に当てられたのか、客席はそんな指導を見て見ぬふりするだけだった。人魚姫は教員をにやりと見下ろすだけだった。演奏は、歌は、止まらない。

 怒髪天といった様子の教員はなおも喚くが、それならと対抗するがごとく、彼女の歌も音も大きくなった。

「代表者!」

 呼びつけられた生徒がゆっくりと歩み寄った。

「間下君! 何やってるんです」

「何とは?」

「丈夫さんのことですよ、生徒会長として責務を」

「なんのことでしょう。演出ですよ、あくまで。ほら、先生も楽しんでください」

「何言ってるんです、分からないの、今すぐ丈夫さんを止めて!」

「まだ幕が下りてない」

「なっ……!」

 僕はそこで、彼女の苗字まで知ることになった。

 暗がりで行われる口論とは対照的に、スポットライトに照らされた人魚姫たちは、活き活きと楽曲を披露している。

「いくら生徒会長とはいえ、教員に歯向かうなんて、どういう風の吹き回しです!」

「生徒会長だからこそ、ですよ」

「はあ!?」

「生徒会長だから、こうやって堂々と大人に歯向かうんです」

 僕はヒソヒソうるさいなあと思った。正直、視界の邪魔だったので他の場所でやってほしかった。人魚姫に集中したいのに。

「よして下さい、うちの子を大勢の前で叱るのは!」

 ところがそうはいかなくなった。客席からもう一人、大人がそちらへ向かって行ったのだ。

 ほとんどの観客はステージの上に夢中だった。こんなふうに周りが気になって仕方ないのは、端に座っている僕くらいのものだろう。神経質すぎるとよく言われるのだ。

 言動からして新たに加わったのは生徒会長の母親らしかった。

「貴方もよ、こんなことでいちいち揉めないで。評価に関わるんだから。貴方ただでさえ最近成績が落ちてるのよ、しっかりしてちょうだ……」

 その辺りで、エレキギター特有の、稲妻のような駆動音が轟いて、彼らの口論はそこで途切れた。

「な、なんなの」

 僕には人魚姫が、狼狽える大人の集団を瞥したように見えた。黙ってろと言わんばり、彼女は美しい月色の髪を振り乱し、熱気に沸いた体育館に言い放つ。

「どれだけ間違えなかったかだ。おつむの出来も、ダチとの時間も。青春とは、どれだけ間違えなかったかという相対評価の上に成り立っている! バカバカしい!」

 びりびりと客席を揺るがすそれは、彼女の魂の咆哮に思えた。

「間違って、間違って、間違って、間違って、間違いだと言われてなお、正解だと信じられるモンを見つけること。どうせ人生一度きり! そうだろ、宇宙船地球号の船員クルーども!!」

 人魚姫は劇中で一度もしなかった、悪どい顔で笑んでいた。初めて見たのに、なぜかしっくりくるその表情が、蜂蜜のようなその、たった一つの瞳が、僕を捉える。

「過て、若人」

 その瞬間、僕の心臓が止まった。

 彼女は知らないに決まっている、僕のことなど。僕が抱えている悩みなど。けれど彼女の放ったメッセージは、どうしようもなく僕の胸に突き刺さる。人目も憚らず、涙が溢れてきた。パンフレットがさらに歪んだ。

 彼女は客席に向けて、握った拳を突き出した。立てていた親指で、不敵に床を指した。

「軽音楽部は、次なるピカロを待っている!」

 地下の劇場に風が吹いた。少なくとも僕はそう感じた。彼女の一方的な、乱暴な、清々しい戦線布告は、突風となって客席を貫いた。

 怒涛の展開に置いてけぼりを食らった観客は、彼女を見ることしかできない。

「以上『新訳 人魚姫』……これにて閉幕!」

 第二体育館ではただ一人、マスラオニツキという名の彼女が、訳知り顔でギターをかき鳴らしているだけだった。年相応のはしゃぎ方で、愉快そうに歌いながら。

 さっき止まったばかりだというのに僕の心臓は、今までにないくらいうるさかった。

「ンじゃな、まだ何者でもないオメーたち!」

 彼女はそう言ってスタンドマイクを蹴り倒すと……肩に担いだギターを、ステージに叩きつけた。

「ハッハア!」

 彼女の高笑いと稲妻のような駆動音が、ひしゃげて脳を揺さぶった。

 悲鳴と歓声がごちゃ混ぜになって、第二体育館を飲み込んだ。

 その後どう過ごして、どうやって家に帰って来たのかはあまり覚えていない。あの舞台がどういう形で終わったのかも、隣で観ていた彼らとどう別れたのかも、もはや定かではない。僕があの日の記憶の中で、次に思い出される鮮明な情報は、この身に刻まれて離れないあの音が、スリー・コードと呼ばれる和音であるというものくらいだった。

 僕は翌日の画塾で人魚を描いた。

 仏頂面の先生に、僕は初めて褒められた。

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