渇望
「古い月が新しい月に抱かれてる」
星の光だけが雲を透かす夜。散りばめられた闇に手を延ばして彼女は言う。
「古い月が新しい月に抱かれてる」
体を海面に揺蕩えて、彼女は広大な夜空を見上げていた。
「空に入る日が来るなんて思ってもみなかった」
人間離れしたその美貌に、思わず目を奪われる。もっと近くで見たいと思ったが、彼女の身体の何十倍の大きさであるこの船ごと彼女に近寄れば、彼女が暗い水の中へと消えてしまうだろうことはすぐに予想できた。
王子は振り返った。背後に、吹き荒ぶ風に遊ばれる帆と、燃え盛る王都とが映った。彼はゆっくりと舳先へ歩いていく。
彼女の気配はまだそこにある。
突風に王子の体が傾いて、咄嗟に掴んだ縄が軋んだ。彼女が息を呑んだのが聞こえた。彼女は片方しか露わになっていない目を凝らして注意深く周囲を探るが、新月の夜、入江の影になっている船には気がつくことはできない。彼女は不安げに髪をかきあげた。
「……今夜はなんだか流れが速い。荒れてるんだ、海と一緒で」
息を潜めていた王子は胸を撫で下ろし、今度はゆっくりと膝立ちで、彼女の方を窺った。彼女の髪は白く波打ち、淡い光を放っている。まるで月光のようだった。
王子は再び王都を振り返る。火の手は城へと延び、恐らく既に焼け落ちているだろう。王子の視線は暗い暗い波間へと戻りくる。
ふと耳に、陰鬱とした煙の匂いには似つかわしくない、優しい歌が水面に響く。王子が意識をそちらに向けると、柔らかな歌声は、彼女のものだった。暴風を鎮めようとでもいうのだろうか、だが彼女にならばそれも可能な気がした。
彼女と一緒になれるなら。彼女のいる海の、一部になれるのなら。王子はそんなことを考えた。
子守唄のように紡がれる美しいその声に、王子の心が凪いでゆく。彼の体は吸い込まれるようにして、夜の海に落ちていった。王子は固く目を閉じた。この時期の海の冷たさに、備えるため。
「今のは何?」
驚いたのは彼女である。何か大きな水音がした方へ泳いでみると、細かな泡の柱の中で誰かが横たわっていた。
「こんな日に海から上がるなんて、私くらいだと思うんだけど」
訝しげに近づいた彼女は、海中に霧散していく泡の中を進む。それから大きく声をあげた。
「わあ、人間!」
男の体上半分は彼女と大差ないつくりだったが、下半分が彼女とはまるきり違っている。二つに分かれた尾ビレ、聞いたことがある。足というのだそうだ。
「人間って、海では暮らせないんじゃ?」
彼の周りをくるくると泳ぎながら、彼女は思案を巡らせる。彼をじっと見ると、苦しげな表情を浮かべて泡を吐いた。
「大変!」
彼女は即座に事態を理解し、彼の体の下に入った。どうしてかは分からないが、放っておくとどんどん沈んでいってしまうのだ。彼女が力を込めて水をかき分ける。二人が海面まで戻って来るのは時間の問題だった。
再び夜風に撫ぜられた彼女は彼が咳き込んだのを確認した後、大急ぎで陸へ向かった。先ほどまでは無かった雨まで降り始めていた。
ところがである。彼女に最も近い浜辺はどこもかしこも赤く、巻きあげられた砂のような灰色の雲が空へと昇っていた。彼女は昔、父に連れられて海底火山を見に行った時のことを思い出す。見るからに危険そうな色をしたそこに彼を置いていくのは、良くないことだと肌で感じ取った。
「ああ、どうすればいいのかしら」
雨に打たれ、風に吹かれた彼の体は冷えていて、顔も青ざめている。このままでは彼は死んでしまう。成す術のない彼女にできるのは、せめて彼が波に呑まれぬよう、しっかりと抱えてやることくらいだった。
彼女が祈るかのごとく星のない夜空を見上げたその時。
「聴こえる、同胞の嘆きが!」
海面をまるで持ち上げるようにして現れたのは、奥底の魔女と呼ばれる者だった。
「おやおやお嬢さん、どうしたの、こんな……嵐の夜に?」
魔女はゆったりとした動作で彼女を射止める。日頃、その噂を耳にしていた彼女は初めて対面する魔女の迫力に対してわずかに怯んだが、腕の中の彼を思い、尾ビレを力ませた。
「私、この方を助けたいの。あの、力を貸してくださらない?」
「勿論、勿論。我らが偉大なる海の王、その末の娘。海の王の姫は、全ての海の民の姫。吾輩、こう見えても同胞には優しいの……詳しく聞かせてちょうだいな」
奥底の魔女は両の肘を海面について、肩を乗り出した。
「あんたのボーイフレンド?」
「いいえ、たった今出会ったの」
「出会いの早さは関係ないわ」
「彼、意識を失ってる」
「あらそう。今宵の海は海水浴には冷たすぎたのね」
「どうすればいいの?」
「簡単。寒くて震えているのなら、暖かくしてやりゃいいの」
「どうやって?」
「さあ?」
「私をからかってるの?」
「まさか。吾輩も海の民だから、具体的にどうすればいいのかなんて知らないのよ」
「でもあなた奥底の魔女なんでしょう。有名よ。悩める人魚の願いを叶えてくれるって」
「ええ、だからその男を助けることはできるわ。でも介抱とかは専門外。吾輩は魔女、医者じゃあない」
「待って、あなた彼を助けられるの?」
「ええ。魔女ってそういうもんでしょう」
世間知らずの姫ねと奥底の魔女は息を吐く。
「造りが違うのよ。違う生き物なの。吾輩たちのようにヒレもエラもない、その代わりに魂と足がある。命は短いけれど、死ねばその魂は天国へ行く。死んだら泡の吾輩たちとは違ってね」
「天国?」
「人間たちはそう呼ぶらしいわ。魂の安寧の地を」
「私たちはそこへは行けないの?」
「行けないのよ、魂がないから」
「魂って何? もしかして足にあるのかしら」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「不思議ね、人間って」
「お転婆で賢いお姫様、吾輩、お茶会は好きだけど。こんなお話なんかしてたらその男が死ぬよ」
「そうだった! 彼を助けて!」
「勿論だとも。だがね、姫よ。海は気まぐれだ、理に波紋を生めば、その代償に何を望むかは海のみぞ知るところだ。こればっかりはどうしようもない」
「彼を助けてもらう代わりに私は、何かを…失うのね?」
「そういうこと。それは目に見える物かもしれないし、決して破れぬ制約かもしれない。それでもいいと言うのなら、この奥底の魔女に願うといい」
「……いいわ」
末の姫が頷くのを見て、奥底の魔女は鼻から音を響かせる。鼻歌らしかった。すると魔女が腰掛けていた一際高い波の周囲に渦潮が広がっていく。それは嵐と繋がり、空をかき混ぜた。雨が海を叩きつけ、強い風が吹き荒れる。しかし魔女のハミングはどういうわけか、けたたましい水音にかき消されることなくはっきりと辺りを包んだ。
奥底の魔女が息継ぎの合間に末の姫を見た。
「願いをどうぞ」
「彼を助けて」
腕の中の温もりを確かめるように末の姫は言い放つ。
いっとう強く空が荒れ狂う。
暴風雨によって生まれた竜巻から、奥底の魔女の声が響いた。
「命を繋ぐ代わりに心はお前のものとなる」
告げられたそれは魔女のものであったが、そうでないものからの言葉にも聞こえた。とにもかくにも、末の姫に聞き取れたのはそれだけであった。
うねる波と風に流されないように、無我夢中でヒレを動かして……辺りが静かになった頃には、抱いていたはずの彼も魔女も、嵐すら、跡形もなく消えていた。身を翻し燃え盛る王都を見つめる末の姫の脳内に、奥底の魔女のハミングだけがこだました。
浜辺の砂は輝いて、太陽の日差しを照り返す。穏やかな陽気は、昼下がりの散歩にはぴったりだった。遠くに商船を臨む波打ち際へ、美しく着飾った女性がやって来る。隣を伴する男性を、彼女は愛おしそうに見た。
「具合はどう?」
「体調はすっかり元通り。元気だよ」
「良かった!」
彼女が男性の腕を抱き締める。
「本当、びっくりしたんだから。あの夜は……ここで一人、海の向こうの国が戦火に焼かれているのを見てた。でもどうすることできなくて…風が強くなってきて、雨が降り始めて。帰ろうと思ったら、この浜辺にあなたが流れ着いて。もうあたしパニックになって、だってあなた死んじゃってるのかと思って!」
「驚かせてごめん」
「ううん、いいのよ。気にしないで。それよりも」
女性は何度も息を吸っては、言葉にできず吐き出した。男性はふらりと足を進めて、静かな波に手を延べる。水に浸したその手を見つめる様は、何かを思い出しているようでも、忘れようとしているようでもあった。
「それより、何?」
男性が促したのでようやく女性は、彷徨わせていた視線を彼に戻した。
そしておずおずと切り出す。
「あのね。お父様が、あなたを婿に迎えないかって」
「えっ?」
「と、突然よね、とても。すっごく。でもその……お父様の勘はよく当たるのよ。ねえ、あなたはあなたの口からは教えてくれなかったけど。あなた、あの国の王子様、なんでしょう。あの夜、火に呑まれたあの国の」
「……もう王子じゃないよ」
海に透かした手のひらを、亡国の王子は握った。
「だから、この国の皇女である君の婿にはなれない。今の私はただの漂流者だ。身分が違う、あまりにも」
「そんなことないわ。お父様はあなたをとても気に入っているし……国の違いとか、立場なんて関係ないわよ」
「だからって君の気持ちを無視するわけにはいかないだろう」
「あ、あたしの気持ちは……あたしの気持ちなら、お父様が汲んでくださってるわ」
皇女はそっぽを向いた。
「興味のない男の人と二人っきりで散歩になんか来ないわよ」
「……」
王子は黙って、海を見つめていた。しばらく彼らの間には、波の寄せる音だけが流れていた。商船はもう随分と東に行ったらしく、汽笛が浜の砂粒を震わせた。
「ごめん」
王子が言うと、皇女はどうしてと訊いた。
「君とは結婚できない」
「だから、どうしてなの?」
「漂着した私を介抱してくれたことには感謝してる。暖かい場所と、食べる物、着る服まで用意してくれて。君の献身と、教皇様の慈悲深さには、一生かけても足りないくらいの恩を感じてる。私に何か返せたならどれだけ良かったか」
「それなら!」
「けれど、君の夫になるということだけはできない、すまない」
背中越しに彼は、皇女を見た。
「それだけはできないんだ」
翳った王子の目線は再び海に向けられる。
「自分の心に嘘はつけない」
「……好きな人が、いるのね。故郷に」
問われた彼は、肯定も否定もしなかった。
皇女はさめざめと泣き出した。砂浜にへたり込んで、顔を覆う。そんな彼女を振り返ることもなく、王子は海に触れていた。
「ごめん」
「いいのよ、あなたが謝ることじゃないわ、勝手に舞い上がってたのは、あたしだもの」
「身分を隠してたのは事実だ」
「そこじゃなくて……もう!」
勢いよく立ち上がった皇女が、スカートの裾についた砂を払う。
「あたしは先に帰ってるわね。そろそろメイド長が怒りだす頃合いだろうから。これからのことは、また話しましょう」
「うん」
彼が答えるのを待った皇女は、涙を拭う仕草を見せつつ、王子の元から離れていった。またしばらく、波の音だけが辺りを包み込む。
王子はただぼんやりと海を見ていた。
そのうち、ぱちゃ、と水をかき分ける音が聞こえてきて、王子はそちらに首をやる。岩場の方だ。すらりと立った彼は、淡い白波の立つ岩場へと歩いていった。
岩陰にいたのは、あの月白の髪をした人魚だ。
末の姫は王子を見て、くるりと回った。
「ご機嫌よう」
王子が恭しく礼をすると、末の姫は困ったように笑みを浮かべる。何かを言いあぐねてから彼女は、遠慮がちに王子に身を寄せた。何しろ彼は、前のめりすぎて岩場から落ちそうなほどなのだ。
「調子はどう?」
「元気だよ」
彼が答えても、末の姫は反応しない。
「やっぱり私の声は聞こえないんだね」
「ごめんなさい、聴こえないわ。でも元気そうで安心した。怪我はない?」
王子が首を横に振ると、彼女は海面を跳んだ。
「良かった」
再び王子のすぐ側まで泳いできた末の姫に、彼が手を延ばす。ウェーブのかかった長い髪を掬って、彼は小さく呟いた。
「綺麗だ」
末の姫は嬉しそうに自らの手も王子の首元へ延ばしたが、ハッとしたようにそれを引っ込めた。胸の前で手をさする彼女を王子は不思議そうに見る。
「どうしたの」
「……私、実は、あなたに黙ってたことがあるの」
王子が首を傾げる。
「言わなくちゃいけないことなんだけど、でもそれを言ったらあなたに嫌われちゃいそうで…言い出せなかったの」
「嫌わないよ」
瞳に涙を溜める末の姫の様子を、真摯な眼差しで見つめた王子は、片膝をついていた身をさらに乗り出し彼女を抱きしめる。至近となった温もりに驚いて両肩を竦めた末の姫が、堪えきれずに叫んだ。
「私、あなたの心を奪ってしまったの!」
岩場で泡立った波に彼女の涙が落ちる。
王子が目を見開いた時、先に帰ったはずだった皇女の声が響き渡った。
「怪物め!」
鬼気迫る彼女が王子に向かって駆けてくる。
「そんなことだろうと思った。お父様の勘はよく当たるのよ」
彼女の背後から鎧騎士がぞろぞろとやって来て、王子と末の姫を引き離す。物々しい雰囲気に慄いた末の姫はその場から去ろうとした。
引きずられていく王子が末の姫に対して言った。
「逃げろ!」
「怪物、おまえが逃げれば彼を酷い目に遭わせるわ」
彼に被せるようにして、皇女が王子を指差す。末の姫は向けていた背を、岩場の方へ戻した。
「分かったら大人しくしなさい」
「だめだ、逃げろ!」
王子はどんどん遠ざかる。
「彼女に手を出すな」
明確な敵意を注がれた皇女は苦悶に耐えるように歯を食いしばった。
末の姫が警戒心を解くことなく、じりじりと浜に寄っていく。
「彼に酷いことしないで」
「しないわよ、おまえがちゃんと捕まるならね」
「……分かったわ」
末の姫は何もしないという意思表示で、俯いて手を後ろに組んだ。今だとばかりに鎧騎士が彼女を取り囲み、縄で縛りあげる。
「人魚は死ねば泡になるというではないか、ぜひとも見てみたいものだ」
「駄目だ駄目だ、人魚の肉を食うと不老不死を手にすることができるらしい、泡にしてしまってはもったいないぞ」
「そりゃあいい、活き締めにして教皇様に献上しよう」
苦痛に呻くことはあれど、末の姫が強く抵抗することはなかった。尾ビレをくねらせて、器用にも彼女は皇女を見据える。
「彼に酷いことは」
「しないってば!」
皇女は憎しみに満ちた顔で砂を蹴飛ばした。
「あの人を惑わせておいて何を今更!」
末の姫の身体が丸太にくくりつけられ、砂浜に転がされる。
「お父様に言いつけなくっちゃ。行くわよ、おまえたち」
皇女が大股で立ち去ると、鎧騎士もそれに続いた。
末の姫は彼らの足音が小さくなってから身じろぎをしてみたが、丸太に縛られた状態で海へ逃げることは不可能なようだった。日光に焼かれて、鱗がじわじわと浮いてくる。末の姫は砂で髪が軋むのを気にするそぶりを見せた。
「……暑い」
上げていた頭をそっと砂浜に横たえる。
彼女が消耗していることは火を見るよりも明らかだった。
日が沈み、波の音が荒々しくなる。転がされた体勢のまま動かなくなった末の姫を、海から見つめる者があった。
「ああ、我らが末娘。人間に謀られたのね、可哀想に」
「心配が的中したわね、あの子は好奇心が旺盛だから」
「それに人を疑うことをしない優しい子だもの」
「お願いです、奥底の魔女よ。可愛い妹を、あの子をどうか助けてください」
それは末の姫の姉たちであった。皆一様に不安げな面持ちで、横たわっている末の姫を見つめていた。
「勿論だよ、我らが偉大なる海の王の姫たち。あんたらの願いは全ての海の民の願いだ」
奥底の魔女は、水煙草をふかして深呼吸した。鼻歌が、煙と共に空へ沈むと、彼女のいる辺りがゆっくりと円を描き、緩やかな渦潮へと変貌していく。
暗雲が立ち込めて、姉たちは互いに手を繋ぎ合った。
「さあ、願いをどうぞ」
「あの子を救ってください」
彼女たちの声が揃った。飛沫をあげて、渦潮は彼女らをその中心へ呑み込む。奥底の魔女のハミングが、辺り一帯に響いた。
時を同じくして、浜辺にも大波が迫っていた。口を開けてやって来たそれは、砂浜ごと食らい尽くし、末の姫を縛りつけた丸太も当然、巻き込んだ。
「そんな」
波が引いたのを見計らって、王子が砂浜に飛び込んでくる。逃げて来たのだろう、昼間の身なりとは見違えたように彼の格好はみすぼらしく、ところどころ見える肌には傷や汚れが見てとれた。
力なく砂浜に臥せる末の姫らしき影を見つけた彼は、一目散にそちらへ走った。彼女の傍に駆け寄り、そして絶句する。末の姫に……足が生えている!
「大丈夫、生きてるよ。あんたの時と同じ」
声のした方向に意識を集中させると、夜の海上に、誰かがもたれていた。
おそるおそると言った調子で王子が彼女に問う。
「貴女は」
「王子様に名乗るほどの名は無いわ…そうね。皆はあたしを奥底の魔女と呼ぶ」
「彼女は、彼女に一体何が……?」
「人間になったの。あのままじゃ、人魚であるその子は死んでしまうからね。その子の姉姉妹がみんなして、その子を救ってと海に願いを捧げた。だから海はその子を人間へと変えたのよ。人間なら、その状態でも死ぬことはない」
王子は着ていたぼろのシャツで、末の姫をくるんだ。そしてそっと抱き寄せる。息はあるが彼女の瞼は固く閉ざされ、唇には血の気が無かった。
「とても冷たい」
「だがね、生きてる。海が、姉姉妹それぞれの何を望んだかは知らないが…まあどうせ髪とかなんとかだろう…あたしは同胞には優しいし、姫の髪というのは上等だ」
魔女の言っていることが、王子にはよく理解できなかった。耳を傾けている間できたことといえば、腕の中で冷たくなっている末の姫の顔についた砂や塵を払ってやることくらいだった。彫像のように美しい彼女に死が這い寄って来ていることを予感し、王子は身震いした。
「奥底の魔女よ。彼女を人魚に戻してやってはくれないか」
「ほう、ほおう、あたしに願うのね」
面白がるような態度を見せた奥底の魔女は浜辺の近くまで海を滑ってくる。
「いいとも。たとえ同胞でなくっても、奥底の魔女は拒まない。あんたはただでさえ、海の嘆きに近しいし」
そう言って奥底の魔女が、煌めく短剣を王子に手渡した。
「特別サービス」
王子は受け取ったそれを空に向けてかざしてみた。光の角度で異なる顔を見せる刃は、鱗のようであり、羽のようでもあった。
彼が尋ねる。
「これは?」
「セイレーンの涙という。その剣であんたを貫き、返り血をその子に浴びさせる、そうすればその子は人魚に戻る」
仰天した王子が、短剣を握る手に力を込めた。
「大袈裟に言ったけどね。滲んだ程度の血をその子に触れさせるだけでも同じことが起こるから。ただし、忘れちゃいけないことが一つ。どんなに小さな傷だろうと、その短剣で斬りつければ人間は死ぬ」
「つまり、私の命と引き換えに、彼女は人魚に戻れると?」
「そういうこと」
王子は抱き寄せた末の姫と、手にした短剣とを交互に見て、最後に奥底の魔女を見上げた。暗雲から降り注ぐ雨に顔を濡らしながら、重く頷く。
「貴女の恩情に感謝します、奥底の魔女」
「あたしが優しいのは同胞に対してだけよ」
末の姫の手に、短剣を握らせる。王子は自らの手をその上から被せ、胸を目掛けて突き立てた。否、突き立てようとした。
王子は目の前で起こったことが信じられず、わなわなと唇を震わせることしかできなかった。
彼が短剣を胸に突き立てようとした刹那、雷鳴が轟いたわずかな隙を見逃さず、末の姫が彼から短剣を奪ったのだ。そして奪い取った短剣で、自らを刺した。
「なんて、ことを……」
「あなたに返すわ、あなたの心。魂ってなんだか重くって、沈んじゃいそうになるんだもの」
腹部に突き刺さった短剣の柄が、曇った光を攪拌させる。
末の姫は透き通るような優腕で王子の頭を抱く。
「ごめんなさい」
消え入りそうな声で囁いたかと思うと、彼女はゆっくりと海の方へ吸い込まれていく。王子は彼女を追いかけたが、途中で足をもつれさせ、海にばしゃりと倒れ込んだ。
起き上がった彼の顔が青ざめているのを見て、末の姫が怪訝そうに魔女を見る。
「海の制約をお忘れ?」
奥底の魔女は鼻歌みたいに彼女に答える。
「王子は自らの命を繋ぐ代わりに心が姫ものとなる……なら、魂を返された王子は」
「そんな!」
慌てて末の姫は王子に寄り添おうとするが、彼女自身も尾ビレの先が徐々に泡となって海に混ざっていっていた。負傷していることもあってうまく泳げなかった。王子もまたふらふらと末の姫の元に向かうも、波に足を取られ、思うように歩けていないようであった。
「……ああ、海がご機嫌斜め」
二人がようやく手の届く距離まで近づいた時、奥底の魔女が呟いた。
「恩を仇で返されたと思ってる。あれは…あたしにもどうにもできない」
魔女の視線の先を、王子と末の姫は見た。波が意思を持ったうねりとなって、彼らを取り込まんとしていた。それは奥底の魔女の言う通り、海の怒りと称するに相応しい、禍々しさと猛々しさとを兼ね備えていた。
王子は末の姫に手を延ばす。
末の姫も王子に手を延ばす。
互いの指先が触れ合って、握る。
次の瞬間には、彼らは海の怒りに飲み込まれていた。彼らは海面を目指そうと上を見たが、そんな体力が残っているはずもなかった。そのうち二人はもがくこともやめた。
手を握ったまま、二人の身体が海へと沈んでいく最中、王子は頭上を見る末の姫の顔をやんわりと掴んでこちらに向けさせる。彼女の体は絶えず泡となっていっており、もう胸から上ほどしか残っていなかった。腹部に突き刺さっていた短剣も、海の藻屑となったのだろう。
王子は肺に残った空気の全てを尽くして、彼女に言った。
「君を愛している」
「……!」
切なく甘い告白が泡となって、冷たい海にじわり広がる。
末の姫は驚いたように目を見開いて、髪で隠れていない片目から大粒の涙を溢れさせた。その間にも彼女は長い髪までもを海に溶かしてゆく。
「あなたの声、初めて聞いた」
顔を綻ばせた末の姫は、王子を抱き締めた。温もりを分かち合うかのごとく二人は口づけを交わし、暗い海の底に沈んでいった。
だが、しばらくして、海水をかき分けるように一筋の光が揺らめくと、それを辿るようにして、王子がゆっくりと浮上して来たのだ。正確には王子の魂であった。それから、彼を追うようにして、末の姫も海底からやって来る。
そう、人間の愛を得た人魚の姫は魂を得、泡となって完全に消えることはなかったのだ。
二人は手を取り合って、光の元へ向かった。海面を越えると、奥底の魔女のハミングが聞こえた。それもすぐに眼下の景色となり。雨雲も越えると空は開けて、星々が彼らを迎え入れる。晴れていた。
王子はいつもよりも大きな月を見据えた。
「……旧い月が新しい月に抱かれてる」
「やだ、聴いてたの?」
「見惚れてただけだよ」
王子が言い返すと、末の姫が頬を染めてくすくす笑う。
月光に導かれるようにして、二人の魂は天国へと昇っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます