問対

 雷鳴が轟く。間下はハッと我に返った。久々の夕立の気配が、すぐそこまで迫っている。生徒会室に一人、彼は抱えていた頭を背中にもたげ、逆さまに外を見る。雲は白とも灰色ともつかない。ニツキの髪に似ていた。そうしてぼんやり眺めていると血が頭に昇り、嫌でも痛む側頭部を押さえた。

「あの加減知らずめ」

 一年半を過ごした結果、感覚が麻痺しているのか、去年の骨折沙汰よりはマシかなどと思ってしまう自分がいる。流血沙汰も相当なのだが。

「ふう」

 上体を起こし、鞄を見下ろした。ニツキの手により一瞬にして凶器と成り変わった折り畳み傘は、今はここにはない。

 間下の表情が翳った。それまでの彼の貢献を鑑みられたことに加え母親の介入もあったことで、学園側が彼の経歴に傷がつくような処分を下すことはなかった。生徒会長の職から降ろされることも。丈夫新月についても、これまで通り。謹慎や停学を言い渡されることもなかった。

 彼の瞼が力んだ。

 結局あの時、彼はニツキに手をあげずに終わった、元よりそんな度胸など持ち合わせていない。彼の手が触れたのは、ニツキの右目を覆う眼帯だったのだ。間下はそれを力ずくで引き剥がした。

「中坊が喜んで着けるこんなもの、どうせ」

 曖昧だが、確かそんなようなことを口走って。格好つけか、キャラづけか。ニツキの好みそうなことだ。

 だから、まさか本当に彼女が隻眼だとは、夢にも思っていなかったのだ。今思い出してもゾッとする。ニツキの右眼は上瞼の辺りが酷く腫れていて、眼球は白く濁り。四谷怪談に登場するお岩を彷彿とさせる、そんな様相を呈していた。

 間下が彼女の異形に身を竦めたその隙に、ニツキは逃げ出した。彼女の後を追うように、セラとアリアもすぐに生徒会室から出ていった。その直後に角脇が飛び込んできて、部屋に一人佇む間下を、何も言わずに見つめ続けた。悔恨と心配が見え隠れしていた。

 手に残った眼帯はさっさと捨てた。ただただ薄気味悪かったのだ。

「コンコン失礼しまーす」

 なんともいえない視線をゴミ箱に注いでいた間下の意識が現実に引き戻される。それからおやと顎を撫ぜた。今日も今日とて、生徒会は休止日のはずだが。彼の返事を待たずに蝶番が鳴った。

「いるね、閣下」

「世良?」

 生徒会室に入ってきた彼を、間下が驚きの眼差しで見つめる。

「あー……そういえばお前んとこのクラス、ぎりぎりで出し物決まったみたいだな。良かった」

「あはは、なんとかね。閣下こそ期末の首席おめでとー」

「おかげで他の全部後回しになったけどな」

「まーしょーがないよ」

 セラは間下と向かい合う形で席に着いた。

「呼びに来たの」

 要件を問うより先に、セラの口が開かれる。可愛らしい風体でにこりとしたまま、彼は間したを真っ直ぐに見据えていた。

「誰を」

「閣下以外いないでしょ」

「俺? なんかあったっけ」

 視線を彷徨わせた間下は難しい顔をする。

「……もしかして、丈夫と関係ある?」

「あるある、大正解」

 わずかな警戒心が間下の中に生まれた。どうやらそれを感じ取ったらしく、セラの腕は左右に忙しなく振られた。

「あ、違う違う、へーきだよ、報復とかじゃないって、安心して。にっちゃん裏でコソコソされんの嫌いだし、やんないよー」

「そうなの?」

「うん。なんてったって、裏でコソコソしたいのはにっちゃん本人だからね。ボクが楽しみ取っちゃうわけにもいかないじゃん」

 セラは優しいのか怖いのか分からない、曖昧な手でセーターの袖を引っ張った。

「それに、閣下を呼んでーってボクに頼んだのは四天王寺だし」

「四天王寺が俺を呼べって?」

「うん、クラスのことで」

 いよいよ分からなくなってきた。間下は小さく唸る。テスト期間中、クラスの議題が早蕨祭で持ちきりだったことと、それらを間下の代わりに四天王寺が受け持っていたことは角脇から聞いていた。驚くべきことに、全てのホームルームにおいて舵取りを担っていたのは彼女だったという。勿論、間下が今こうしている時間も含めて。だとすれば、なぜ彼を呼びにやって来たのが他クラスのセラなのか、この点が腑に落ちない。

「まあとにかく来てみなよ。話はそれから」

 なおも渋る素振りを見せる間下に痺れを切らし、セラは彼の腕を掴む。

「ほら」

 散歩中に心変わりした犬でも諭すような態度だ。間下は彼に引っ張り上げられる形で席を立つ。まだ仕事は残っていたが、セラの瞳が適当な理由でもないことを物語っており、間下はパソコンを閉じることにした。

 生徒会室を施錠する。

「よし。行こう」

 職員室に向かうのとは反対方向を進んで、階段へと足をかける。空を一瞥したが、まだ降り始めまでは遠そうだ。間下はそっと胸を撫で下ろす。

「ね。閣下ってさ、ソフ虐っしょ」

「何?」

 聞き慣れない言葉に振り返ると、二段ほど後方にいたセラはおかしそうに笑った。

「なんて言ったの、今」

「ソフ虐」

「初耳」

 彼と視線を合わせたまま、後ろ向きに階段を上る。セラは危ないよと眉を吊り上げた。

「マジで聞いたことない」

「まー造語だから、ボクの」

「お前のかよ。どういう意味?」

「ソフト虐待」

 重心に任せて手すりを滑らせていた間下の手がぴたりと止まった。二階に至る踊り場。彼と同じ目線に立ったセラはじっと、相変わらず可愛い顔をして間下に眼差しを送る。

 ゆっくり間下は目を逸らした。

「は、なになに急に。そんなんじゃないって、うちは別に普通」

「視野を狭められてるから他の家庭を知らないもんね。比較対象がなければ、比べることはできない。死人がいなけりゃ葬式ができないのと一緒。タチ悪いよ、閣下んとこは相当」

「喧嘩売ってんの?」

「いっぱいいるよ、ソフ虐っ子なんて。実害がないせいで大人や法の庇護下に置かれるには満たないとされる者。閣下もその一人だよねって話」

「教育虐待って言いたいんなら、うちは違うよ。確かに他の家よりは教育熱心だとは思うけど、これは俺が望んでやってることだ」

「出た出た、教育熱心」

「お前もあん時言ってたじゃん、俺に。当たり前のことを当たり前にできるようにするのが教育って。なら俺の当たり前がそれってだけ」

「あー、あれね。ちょっと補足いるんだよねあれ。できるようにさせる、のか、できるようになってもらう、なのかで変わってくるから」

「どっちにしろ恩は感じるでしょ」

「刷り込みでそう思わされてるだけだよ。恩を返さなくちゃ、ってね」

「それでもいいだろ、俺はそれを目指してるんだから、何か悪い?」

「去年のアリアちゃんみたいで正直見てらんないんだよね」

「知るかよ、じゃあ見なきゃいいだろ」

 肩を怒らせ、一段飛ばしで駆け上がる。もうすぐ三階。

 這い寄るようにセラの声が響く。

「ボクは器用だからできるけど」

「はあ?」

 振り返ったが彼はまだ階段の陰にいる。間下に付き合う気はないらしく、ゆったりと一段ずつ踏みしめて間下の視界に戻ってきた。

「ねえ、勝手に生んどいて、何が恩なの?」

「……育ててもらったろ」

「産んだからでしょ、それは生んだ側の義務であり生命の本能。有り難がる所以はどこ?」

「守ってもらってる」

「自分が産んだ自分の子だから、死なせる訳にいかないんでしょ。自分が苛まれ、悲しくなるから」

 近づいてくるセラはなんだかいつもの彼とは異なる雰囲気を醸していた。

「勝手に生み、死なせないように奮闘する。それが生んだ側の追う業。だからって、その重責に見合う結果を生まれた側に求めるのはちょっと欲深くない?」

「お前に心はねえのかよ。親心には愛があるだろ」

「さあ? ボク倫理苦手。取ってないし」

 悪意はないのだと分かる、涼しい腕組みだった。

「本能が濁るとなんになるか分かる?」

「なに」

「煩悩」

「ダジャレじゃん」

 足を止めずに入れられた間下のツッコミに、セラはただ、可憐な笑顔を返すのみだ。

「つか愛とか心がお前に無いのも家のせいだろ。人のこと言えない」

「そうだよ、良いものは徳だけ。そういう世界」

「お前の眼鏡で俺を見たら、そりゃそう映るだろ」

「そうって?」

「可哀想に映るだろって」

「そんなこと言ってないよ、一言も。そう思われてると思うのは、少なからず自分がそう思ってるからでしょ」

「なわけ。ただの言葉狩りだよ、お前がやってんの。揚げ足取りと変わんねえ」

 なぜか間下の唇が弧を描く。喉が渇いた。

 セラがじりじりと間下を追い越して、階段を進んだ。

「……躾と教育には狭間がある。なだらかで緩やかで広大な狭間。パキッと分かれてないから、色んな捉え方ができる。難しい、すごく」

 一段行くごと、彼は呟く。

「良い躾と良い教育は同義じゃなく、逆も然り。知能のある生物を養う上で、どちらも必要で大切なこと。これに他者が口を挟むことはできない…でも、当人の耳に挟むことはできる。似ているけど、全然違くて、でもすごい大事なこと」

 セラは四階にかかとをつけた。

「成長は強いるものではなく喜ぶもの、この是非を」

 かすかな低さで問いかけながら彼は、柔和な視線で間下を離さない。間下にはセラの立つ場所がとても遠くに感じられた。間下を見下ろす彼の漂わせる、窓を割って入ってくる雷がよく似合う神々しさと寂しさ。後光を錯視するほどに。それだと彼にとっては異教か、などと呑気な理性に蓋をする。

 間下が何も言えずにいると、セラはふわりとセーラーの襟に空気を含ませた。長髪の人間がよくやる仕草よろしく。

「あはは、超人の閣下にまでそんな顔されたら本当にみたいじゃん。やめてよ、思われたらそうなっちゃうのがなんだから」

「世良君?」

 廊下に四天王寺が出てきたらしく、訝しげな呼びかけが階段まで届く。

「何してるの、まさかまだ行ってなかったの?」

「ちょうど帰ってきたところ。ごめんごめん遅くなって。閣下連れてきたよー」

「良かった。ありがとう、開けとくね」

「どういたしまして。ほら行くよ閣下、急いで」

「あ、ああ」

 教室の方に首を向け、またセラに向き直る。

 にこり一回転したセラには、もう先ほどまでの異様さは感じられなかった。

「ごめんねー、根暗で」

「いや……」

 気恥ずかしげにスカーフを直す彼の肩に並ぶ。

「俺こそ。家のせいだろとか、気軽に踏み込んでごめん」

「お互い様。優しいね、閣下は。もっと嫌われると思った」

「急に何言い出すのかとは思ったけど」

 四天王寺が開けたままにした扉に、セラより先に間下の手が触れる。軽く押さえたそれから目を離し、彼はセラを見やる。

「こんなんでヒスってもしょうがないだろ」

「言えてる」

 束の間に交わされたのは男子同士ならではの、絶妙な間合いの皮肉だった。セラに続いて教室を見渡すと昼休み以降を生徒会室で一人過ごしていた間下にはとても久々の場所に感じられた。

「閣下おかえりー」

「お疲れ」

「待ってたぞ」

 クラスメイトたちが間下を迎え入れる。各々が机をくっつけて、作戦会議でもしていたかのような様相だ。教卓には、四天王寺が立っていた。黒板に目を向けて、やはり早蕨祭の企画に精を出していたのだと分かった。意欲のあるクラスメイトを持って幸せだと思った。

「みんなこそ、お疲れ様」

 間下は彼女と入れ替わる形で教卓にもたれる。

「大変だろ。ごめんな、俺がいればもっと」

 彼の憂いた表情に、クラスメイトは訳あり顔を向けた。してやったりとでもいうような、浮ついたものだ。間下が瞬きを繰り返したところで、口を開いたのは四天王寺だった。

「閣下」

「ん?」

 隣で立っていた彼女に遠慮がちに肩を叩かれたのを首で見る。すると彼女は頭をつけた机の群れの方へと駆け出して。

「じゃーん!」

 クラスメイトと声を揃えて広げたのは、白いスクリーンだった。目を凝らして見てみると、何か映し出されている。見上げたところ彼らは、天井に取り付けられたプロジェクターを起動させたようだった。授業で時折使われるものだ。

 教室の明かりがふと消される。慣れない目でそちらを見やると、電源の所にいたのはなんとニツキだった。彼女は刹那、間下と視線を交わした後、すぐに逸らした。

「丈夫?」

 嫌な予感がした。

 怪訝に駆られて歩み寄る間もなく、クラスメイトにあだ名を呼ばれる。急ぎ向き直ると、先ほどよりもずっと見やすいそれがスクリーンに映っていた。

「これは……」

「ウチらのクラスの企画案、決定版でーす!」

 間下は目を見張った。それは彼が最後に確認したものとは見違えていたからだ。味気のない報告書の様式であった企画案は、模造紙に好き好きに書かれたようなカラフルな物へと変貌していた。間下の絶対に使わないアニメーション効果やらエフェクトやらが散りばめられ、賑やかな書面となっている。一定時間ごとにページが切り替わるのは、プレゼンテーションの資料よろしく映像化してあるがゆえだろうか。

 言葉を失う間下を前に、クラスメイトたちは得意げに拳を握った。

「いや、最近の閣下まじ忙しそうだったから」

「そーそー、負担減らしてあげたくてさあ」

「俺らに何ができるかって考えて、せめてクラスの出し物くらいは閣下がいなくても大丈夫なようにしようってなったんだ」

「いざやってみても、まとめ役とか進行役とか上手くいかなくて。最初はめっちゃ大変だったんだけど」

「ほんと、我ながらよくやったよ。今まで閣下に投げ過ぎてたんだよな」

「わかるわかる。改めて閣下のヤバさが分かった」

「四天王寺も頑張ってたもんねー!」

「えっ?」

 一人が彼女の背中を押した。

「私はただ」

「またそうやって謙遜して。文句なしで一番仕事してくれてたでしょ。閣下のためにって」

「そ、それは言わない約束!」

 四天王寺は顔を赤らめて、呆然とスクリーンを見上げたままの間下を見つめる。

「あの……私たちだけで、色々、試行錯誤しながら、やってみたの。どうかな、これ」

 彼女がスクリーンを指す。

 間下の目に見ても、概ねは良い出来である。ただ、間下は首をすぐに縦には振らなかった。

「第二体育館で、ってのはどういう意味?」

「あ、あのね。実はここには書いてないんだけど、演劇部が協力を申し出てくれてて。それで教室じゃなくて、第二体育館で公演をしたらどうかってことになったの」

「劇部?」

 思わずニツキを見る。だが彼女は、間下を見ることはしなかった。

「なんでまた」

「第二体育館てほら、元々、演劇部が使う予定だったとこでしょ。でも、演劇部は部の力だけじゃ公演に間に合わないみたいで…私も詳しくは知らないんだけど…そこを使わせてもらう代わりに、劇部のみんなと、クラスのみんなで共同制作って感じ」

 間下はニツキを凝視した。彼女は黒板の方を向いて手をひらひらとさせただけだった。

「最初は部活動とクラスの出し物を一緒にするのはどうかって話になったんだけど……」

 四天王寺はそこで何故かセラを指した。

「世良くんのところも同好会と協力して出し物、やるんだって」

「……まさかお前ら、かるた大会ってそういう」

「面白そうでしょ。小倉百人一首の日本語版トーナメント、こっちは同好会の子たち担当ね。んで、うちのクラスの子たちがオリジナル翻訳した英語版百人一首トーナメント、こっちがクラスの担当。英語版は国際色強めでルールもちょこっとずつ変えて。セッティングとか参加賞品にはなんと、茶道部と花道部、書道部にも協力してもらいまー…あ、やべ、ここはまだ内緒なんだった」

「そんな申請まだ来てないぞ」

 舌を出してみせるセラに、間下は反論した。

「それに。そうやってクラスと部会で繋がられるのは困るんだよ。他の部会の心象が悪くなるし。ずるいって意見が必ず出てくる。四天王寺も、実行委員ならそれくらい」

「や、じ、実は委員会の方で書類は通してあるの……うちのクラスも世良くんのクラスも。今までにない相乗効果を生む可能性があるっていうのを認めるってことで、委員長も許可してくれてて。も、もちろん試験的に、だけど。もしかしたらまだ生徒会に行ってないのかも、報告」

「初耳だよ、そんなの」

「そっか、じゃあまだなんだね。でも私、すごく良いものになると、思うんだ。どっちのクラスのも。だって、そうやって出来ない部分を補い合って、一つの良い物をお客さんに見せようとするのって……上手く言えないけど、素敵なことだって思うから。みんなと話し合ってると、なんだかね、ワクワクしてくるの」

 四天王寺は胸を張る。それに合わせて、クラスメイトたちから拍手が起こる。若人が互いに労いあい、誇らしげに讃える様は、まさに美しい青春の一ページ。

 間下が初めて見る光景だった。研鑽、努力、切磋琢磨。様々な形容が浮かんでは、間下の記憶領域へ沈んでいく。

「いいぞ、四天王寺ー!」

「俺らで最高の人魚姫、やろうな!」

 クラスが一体となって声を挙げる。

 人魚姫。アンデルセンの代表作。人魚と人間の種族違いの恋愛を主軸とし、作者の片思いを投影した悲恋の結末で未だに大きな影響力を持つおとぎ話。

 教室を眺めていた彼は知らずのうちに、冷たい空気を肺に送っていた。

「……勝手なことを」

 和気藹々とした雰囲気に水を差す声がした。それはクラスメイトの耳を静かに、だが確実に揺らした。教室の隅で人知れず、ニツキが目をまん丸にして歯を見せた。

「……え?」

 四天王寺が首を傾げる。皆もまた驚いて声の主を見る。視線の先にいるのはもちろん、間下だ。声の主は彼しかいなかった。教卓に両手をついて、俯いていた。

「決定した?」

 かすかに息が震えている。

「俺がいないうちに?」

 指先が突っ張って、手の甲に骨が浮き出ていた。

「俺の許可なく?」

 ゆらゆらと頭が頷いていた。

「俺のクラスなのに?……ふざけんな、ふざけんなよ」

 彼の言葉はどこか悲しげでもあった。

「これまで全部、俺任せにしてたくせに。急に何もかも自分たちでやりますって? はは、そうかよ、やる気が出たから、やれば出来るから、俺はお払い箱ってわけか」

「そういうわけじゃ」

「じゃあどういうわけ。面白そうだから、ワクワクしたから、なんか新しいこと出来そうだからって飛びついたんだろ。それで後々、面倒な仕事が湧いたらどうせ全部、俺に放り投げてくるくせに」

「そんな言い方は」

「そうだろ。去年がそうだったんだから」

 間髪入れない彼の強い言葉に、四天王寺は思わずたじろぐ。

「で結局、全員でクラスのために貢献しますなんてのは今回だけで、修学旅行の話が始まればまた俺任せなんでしょ」

「だ、だからそれはごめんって……これからはちゃんと、見て見ぬふりはしないからさあ」

「そうそう、押しつけんのはもう絶対ないから」

 間下は思わず喉で笑った。見て見ぬふりをしていたという自覚は、押しつけていたという自覚はあるわけだ。

「……つか何それ、怖いんだけど」

 皆が彼の放つ圧に狼狽える中、一人のクラスメイトが前に出た。

「なんか、さっきから俺のおかげみたいな言い方してるけど。閣下だって、頼られんの好きでやってたんでしょ、今までだって」

 ひくりと、笑みが引き攣った。

 耳の辺りの骨が軋んだような音がした。

「好きでやってるわけねえだろあんなこと!!」

 強烈に叩きつけられた間下の手が、教卓を震わせる。目線を上げなくとも、場が凍りついたのが感じられた。

「……誰が喜んでやると思う、聞こえが良いだけの雑用係。内申の点数稼ぎ以外の何者でもない、あんなの。あの位置を好き好んで引き受けてると思ってんならお前、相当おめでたい頭してるよ」

 決して聞いたことのない、間下が他人を貶める口ぶりに、クラス中が固唾を飲んだ。

「しんどいよ、しんどいに決まってる、俺だって!」

 二度目の振り挙げられた手は、今度は力なく教卓の上に落ちた。

「しなくていいならしたくない。それで済むならそうしてほしい。そうすればもっと時間を使える、勉強にだって、趣味にだって……やりたいこと、見つけるための時間にさ」

 間下の顔は伏せられたままだ。

「でも好きじゃなくたってやらなきゃいけない、ずっとそうやって生きてきたし、そもそも俺より上手くできる奴なんかいねえの分かってるし、他人に任せたところで俺がイライラするだけだし…上手くやるには、俺がやるのが一番早いから。だったら俺にはこれしかない。とにかくもう、俺にはそういう生き方しかできない……なのに!」

「よく言った!」

 これまでずっと閉じ込めてきたのであろう感情を吐露する間下によって硬直する教室内を、今度は別の声が引き裂く。間下が二の句を継ぐ前に、ギターのようなダミ声が割り込んだのだ。

「その生き方しかできねー……そうだ、ソレだよ、オメーのギフト!」

 そしてそれはあっという間に、間下の元へと辿り着く。

「要らないと言われることへの過剰な恐怖」

 わざと人ごみを押し退けて。

「他人に頼られなければ自らの存在意義はないという強迫観念」

 誰もが唖然と間下を見る中。

「自らの知らない範疇で事が運ぶのを許せない、何にも勝るその、圧倒的な支配欲!!」

 教卓越しの彼の顎を、乱暴に掴んで上げさせた。

「その独裁は才能だ」

 捲したててくる彼女に間下が困惑するのも構わず、ニツキは至近距離に顔を寄せる。一つ目の細い瞳孔が、間下の両眼を交互に見た。

 間下は喉から声を漏らした。

「丈夫」

「オウ」

「お前が仕組んだんだな」

「たりめーだろ」

 指を突き出して、あっけらかんと彼女は言う。

「やっぱりニツキちゃんの目に狂いはなかった」

「はあ?」

 ぽかんとするばかりの彼の背後にするりと回り、ニツキはその肩を抱いた。視界が揺さぶられ、状況の全く飲み込めていない間下が目を白黒させる。

「さあファンボーイ、お目覚めの時間だぜ」

 彼女は声高にスクリーンの前へと躍り出た。組んだままの間下の肩と彼自身を、無論のこと伴って。クラス中の突き刺すような視線を感じる。青白い光が網膜を焼くように、細く紡がれた。眩しさに瞑った間下の瞳に、ニツキの声が覆い被さる。

「立場が、意志を、決めつける」

 ハッと弾かれたように間下の顔が強張った。

「T or F!」

 ニツキは虚空を怒鳴りつけた。

「生徒会長が守るのは学園の秩序であるか否か」

「は、はあ?」

 突拍子のないニツキの質問に、間下は重心を移動させた。ニツキはじっと、彼を見つめているだけだ。

「急に何」

「答えろよ、首席」

「そりゃあ……規範であるべきなんだから、そうなんじゃねえの」

「ンじゃ次。生徒会長が守るのは生徒であるか否か」

 今度は簡単だと思った。

 間下が大きく首を縦に振る。

「もちろん」

「じゃあ最後だ」

 おどけるように動いていたニツキはそこで、わずかに声のトーンを下げた。

「生徒会長が守るのは、秩序と生徒のどちらか」

「は。んなの選べるわけ」

「選べ」

 いつになく真剣な眼差しを向けられ、間下も答えないわけにはいかなくなった。数分ほど考えてから彼が口を開くまで、教室には静寂が漂っていた。

「……秩序を守ることは生徒を守ることに繋がる」

「生徒を守らねー秩序は排除すンだな?」

「そうは言ってねえ、ただ」

「秩序が生徒を守るならそーするってだけ、だろ」

「おお、さとりがもう一人」

「セラ。口挟むンじゃねー」

「はいはい」

「なあダシタ。オメーの言う秩序ってなンだ? それは大人が敷いたモンじゃねーのか? 生徒が守るその秩序は生徒を守ってンかよ?」

 ニツキは生え揃っていない眉をきりと締めた。

「オメーの言う生徒を守る秩序ってのが、この学園の規範に在るか?」

「……それは」

「この学園には、なんてったってニツキちゃんが居るんだ。オメーが作らねえ限り、今の学園の秩序じゃあ生徒は守りきれねー」

 彼女はさらに間下を覗き込む。

「分かってるよな」

 ああ、と頷きかけて、途中でそれは横に逸れた。彼の否定に、ニツキはうずうずするような素振りで黒い睫毛を瞬く。

 間下は譫言のように呟いた。

「作るだけじゃ、だめだ。在るだけじゃ。ただ敷いたのと変わらない」

 勝利を確信したかのごとく、ニツキの笑みが深まる。間下はそれには気づかず、斜めを向いて思案を続けた。

「規則が無くとも秩序を体現する……秩序になる奴がいねえと」

「テメエのなりてーモンはテメエにしかなれねー」

 間下の動揺が、左右に振れる瞳に表れた。ニツキを見る。笑っていた。悪役めいたいつものではなく、感情の読めない笑顔であった。諭しているようにも、静かに怒っているようにも、憂いているようにも見えた。

「お手本なんてねーンだよ。何もこの例題だけに限ったことじゃねー」

 結局それらは彼女自身の悪戯っぽい仕草にかき消える。

「オメーは賢い。ただ勉強が上手ってだけじゃねえ、テメエの性分をよく理解した上で諦めている、だから賢く生きられる。けど、ンなのはもっと後でいい、大人なんてモンになるのは」

「後?」

「骨折って、血ィ流して、ヘド吐いて、その後で。やりてーことやるのが、なりてーモンになるってことなンだから」

「何それ……当たり前じゃん」

 力なく肩を揺らす。へなへなとしゃがみ込んだ間下は、手で顔面を覆った。

「てかその理屈でいくと俺、次ヘド吐くんだけど」

「いいじゃねーか」

 腕時計のベルトが唇をひやりと拭った。彼を目で追っていたニツキが床を見下ろす。

「ニツキちゃんはたりめーのことしか言わねーよ。それがこの星のマジョリティだろ」

「じゃあ、去年のアレはお前のやりたいことだったわけ」

「アレはやりてーことをやった結果としてああなっただけだ。アレをやりたかったわけじゃねー……伝わってるか、コレ?」

 彼女は間下に手を差し出した。

「まいいや。こっからがオメーの出番だ、独裁者。最高の人魚姫にはまだ役者が足りてねー」

 羽織った学ランが衣擦れの音を立てる。

「ニツキちゃんの読みじゃソレが、オメーの真にやりてーこと……人生の命題だと思うンだが」

 間下は彼女の手に引っ張られる形で立ち上がった。

 ニツキは何も言わずに彼を促した。

 衣服を正し、クラスを見渡す。彼らの緊張はまだ解けていない。

 間下は一呼吸おいて、クラスメイトに向けて頭を下げた。初めてのことだった。四天王寺を初めとしたクラス中が息を呑む。

「みんな。感情的になってごめん、俺も抱え込みすぎてたみたい。みんなが納得して完成させた企画に文句はないよ。俺のためにっていうのも、嬉しかった。でも俺にはもう自分からまとめ役をやるって言う資格はないと思うから。すぐに決めろとは言わない、もし、みんながよければ、俺も参加させてほしい」

 貴方は謝らなくていいのよ、と脳裏で母親が悲嘆に暮れる。俺が謝りたくてやってることだと心のうちで開き直って、かしましい幻影を消した。もっと惨めな気持ちになるかと思っていたが、存外せいせいしたので驚いた。

「いーじゃん、閣下。見直した」

 この場で唯一、当事者でないセラがあくびをした。

「どっかの誰かさんみたいに意固地になって逆ギレかますより絶対いーよ」

「ア?」

「やめてこっち見ないで」

「いいぜ。喧嘩か、いくらだよ?」

「ちょっとー」

 分が悪いと判断したのか、セラは教室を出ようとした。それを追いかけるようにニツキが間下の傍を離れると、入れ替わりで四天王寺が彼の元へやって来る。彼女は幾度か言い淀んで、それから意を決したように身を翻し、クラスメイトたちを振り返った。

「このクラスは、閣下のおかげで今までやってこれたの。だから……私からもお願い。閣下を仲間外れにはしたくない」

「四天王寺……」

「だって、せっかくの早蕨祭だもん」

 照れ隠しなのか、四天王寺は髪を手で梳いた。

 誰からともなく拍手が起こる。反省の色を見せる者、憮然とした者、様々であったが皆、間下を迎え入れようと拍手を送っているのだった。

 間下の口元がだんだんと綻んでいく。彼は万感の想いで、小刻みに頷きを返した。徐々に彼の元に集まっていったクラスメイトたちが、間下を囲むようにして彼の背や肩を優しく叩く。歓声をあげる者までいた。

 許された、とは思わない。許そうとも。それでいいと思った。

 どうあれ早蕨祭はやって来る。馴れ合いでぬるい結果を出すよりも、ずっと良い。

 四天王寺がここ数ヶ月でお決まりとなった問いを投げかけてきた。

「どうする、閣下?」

「そうだな。色々あるけどまずは……」

 思案を可視化するように、間下の指が、楽しげに宙をなぞった。

「丈夫を連れ戻すとこからかな」

 言い終わるか終わらないかのうちに、窓ガラスの割れる音がして、彼とクラスメイトは肩を竦めた。それから渋いような、それでいて愛おしげな、悪ガキの顔をした。

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