折衝

 階段を上っている時だった。

「お願いだから、変な気を起こすのはやめて。あと一年しかないのよ」

「……分かってる」

「分かってたらどうしてあんなことするのよ、今回は先生が入ってくれたから良かったものの!」

「ごめん母さん。俺が悪かった、だから怒鳴るのは、今は……」

「あ、ご、ごめんね、違うのよ、貴方を責めるつもりなんて」

「うん、分かってるよ。それに。今回に関しては俺も悪いんだ、本当に」

 生徒会長の声だ。盗み聞こうというつもりなどなかったのだが、このまま鉢合わせるのも気まずいなと思い、上の階へ向かっていた足は自然と止まった。踊り場の手すりは腰掛けるには少々高すぎる。

「とにかくお母さんは貴方に、貴方のお父さんみたいにはなってほしくないのよ」

 話しぶりからして、間下の母親のようだった。

 私は思わず頭を傾けた。傾けてから、関係ない自分がどうして、とも思ったがなるほど、彼の父親について考えてみれば当然でもあった。間下の父は演劇人である。といっても役者ではない。スポットライトなど浴びることもない裏方だ。しかし脚本家や演出家、時には舞台監督として数多くの名作を生み出し、日本の演劇に大きな功績を残した。観客を魅了する演出、縁の下の間下といえば、演劇に造詣が深い人間ならば誰もが知る名。

「ああはなってほしくないの」

 しきりに言う割には冗談でもないようで、母親は常に真剣そのものの声色だった。私が彼の家族だったら大手を振って自慢するのだが、どうも妻である彼女は、あの間下の、というふうに知られることすら嫌がっていそうな言い方だ。

「……うん」

 間下は暗く言った、いつもの覇気が嘘のようだ。

「分かってる」

「お待たせしました、どうぞ」

 ばたばたと忙しない音がして、新しい声が入ってくる。担任の角脇らしかった。彼らが教室に入っていったであろう静けさを合図に、私はゆっくり階段を上った。野次馬根性のような一種の好奇心に駆られていた。

「先生、どうにかならないんですか」

 くぐもった悲痛な声。

「煮えきらないのは困るんです、どうしたら良いのか、仰って頂かないと」

「どうしたら良いと言われましても」

「だってそうじゃありませんか。こんなこと学園内に知れたら、今後この子がどんな扱いを受けるか!」

「我々は言いふらしたりなんてしませんよ。間下は生徒会長としての仕事や勉学で、我々の期待以上の成果を上げてくれている。そんな子を貶めるようなことは」

「先生方がしなくても、その相手の方が言ったらどうするんです」

「あいつはそんなことしないって母さん」

「貴方は黙ってて。全てお母さんに任せなさい……いいですか。うちの子はなんの理由もなく他の生徒に手を出すなんてこと決してしません。母である私が保証します」

 なるべく遅く足を踏み出していたのだが、もう階上へ到着してしまった。

「うちの子がそんなことするはずありません、きちんと躾けてありますもの!」

「起こったことは起こったことです、お母さん。しょうがないんです」

 忍び足で教室に近寄って、そっと背伸びをするように、扉の窓から中を覗き込んだ。感情的になっている彼女を諭すような方の声は、やはり角脇だ。教室内の風景は、私が思っていたのとは様相が違っていて驚いた。六限が終わってすぐに駆けつけたのだがどうやら掃除は済んでいるみたいだ。机はほとんどが後ろに退げられ、残るのは教卓の傍に置かれた机、三人分だけ。角脇と、生徒会長と。それから生徒会長の隣に座った彼女が、彼の母親だろう。卒業式で着てくるような、整った格好をしている。フォーマルというんだったか。

「だとしても突然、生徒に危害を加えるだなんて、この子に限って絶対に有り得ません。何かあったに決まっています。その相手の方と何があったのか、どうして詳しく教えてくださらないんです」

「それは……本人が話したがらないんで。繊細な問題であると判断できるからこそ、無理に聞き出すってわけにもいかないんですよ」

「そんなの納得いきません。きちんと説明してください、それがうちの子の評価に関わってくるのなら、余計に!」

 当事者でない自分ですら息苦しさを覚えた。

「私はこの子が父親のような、明日のことも分からない遊びみたいな職に就かないで済むよう、この子にはちゃんとした、安定した進路を歩んでほしいんです。そのためにこれまでだってどれだけ私が…いえ、今はその話じゃないか…とにかく先生、説明責任は果たして頂かないと、いいですね!」

 二年でこれか。私は乾いた笑いを口に乗せた。去年はどうだったことやら。この調子で来年は、どうなることやら。関わりなどないはずなのに思わず遠い目をしてしまう。

 必死さからか、間下の母親は半分ヒステリックのような状態になっていた。

「仰って頂かなくても分かってるんですからね。一年の頃からうちの子と悶着ばっかり、面倒を起こしてばっかりなのは、どうせ……どうせまた、あの丈夫さんとやら。そうでしょう!」

「へええ、あンなとこにもファンガールか」

「ひい!?」

 突如、耳元に息がかかり肩が跳ねる。首を思いきり向けると、眼帯と目が合った。ニツキだ。彼女は声をあげないようにと、人差し指を立てる。

「よお、演劇部長の…イロリだっけ?」

「な、な、なんでここに」

「まあまあ、まあまあ」

 距離を置こうとする彼女に対し、ニツキはずいと詰め寄った。

「ここじゃあなンだし、オメーらのアジトで話をしよーぜ」

「なん、なんであなたなんかと」

「あいにく、軽音は部室を取りあげられてっからよお」

「は、嫌です。私たちに何をしたか忘れたの?」

「まさか。ニツキちゃんの脳ミソは、オメーらのとは性能がちげーからよ」

「はあ?」

 爐が眉を顰める。

 笑みを崩さず、ニツキがその鼻先を談判の続く教室にふいと逸らした。

「部費の補填の話つけに来たンだろ?」

「……!」

 急に核心を突かれ、息を呑む。

 ニツキはこきこきと首を鳴らした。

「見ての通り、ダシタはちょーっと取り込み中なんだわ。だからさ、ニツキちゃんとお話ししよーぜ」

「いや、理屈が分からないんだけど。どうしてあなたと話さなくちゃいけないの?」

「補填の件を生徒会長に通すなら、加害者であるニツキちゃんの証言も必要になる。虚偽の報告でないことを証明するためにな。ニツキちゃんは経験豊富だから知ってンだ」

 胸を張る彼女に、爐はげんなりした。それは得意げに言えることではないと思うのだが。

「だから、直接の加害者であるニツキちゃんと、被害者代表のオメーが話しておくのは重要なワケだ。分かったか、分かったな? なら行こう!」

「えちょっ、ちょっと!」

 ニツキは爐の背中を押して、教室の前からどんどん引き離す。

「な、なんで私。あなたとなんて話したくない」

「ワガママ言うなよ、部長だろ」

「どうして私が説教されてるのよ、おかしいでしょ。あなた、うちにどんだけ被害があったか本当に理解してるの?」

「してるしてる、アレで早蕨祭の公演がだいぶ絶望的になったらしいじゃねえ」

「なんでそんなに平然と言えるのよ、あなたがしたことなのに!」

「過去は過去だ」

「はあー!?」

「オイコラ、廊下では静かにしろ」

「だからどうしてあなたが私に説教してんの!」

「怒りでも憎悪でもなんでも、いくらでもぶつけりゃいい。やったのはニツキちゃんだ」

「は、はあ?」

 爐がぶるぶると拳を握る。

「意味分かんない、そんなのあなたが言うことじゃないじゃない」

「ア?」

「や、やめてよ睨むの」

「睨んでねーよ」

 隻眼はそう言えども、その黄色い瞳にはやはり迫力がある。ドラゴンのごとき縦細い瞳孔がこちらを捉えていると思うとどうしてもたじろいでしまうのだ。

 階段を上りながら、爐が小さく言った。

「……あそこまでする必要、あった?」

 わなわなと息が揺らぐ。

「練習場所が欲しかっただけなんでしょ。ならそうだって、ちゃんと言えばよかったじゃない。断られるかどうかなんて分からないじゃない。それを、無理矢理あんなふうにする必要が、本当にあった?」

 気丈に振る舞っているつもりだったが、訊いているうちに目頭が熱くなった。

「私、これで最後なんだよ。早蕨祭で、最後だったの。それでもう、引退。そこから切り替えて受験勉強、頑張ろうって、そう、思ってたのに」

「……」

「全然、部員もいない弱小部活だったけど、先輩たちが頑張って、それで今年は新入部員が多く来てくれてさ。受け継いだものを部長として、繋いでいこうって、なのに、なのに!」

 頬を濡らしたのは悲しみではなく、悔しさからくる涙だった。

「ほっといてよ、関係ないでしょ。ウチらが、劇部が軽音に何かしたことなんてないでしょ……これが私の青春なの、青春だったの、あんたにメチャクチャにされるまで!」

「アッハハハ!」

「笑わないでよ!」

「いやあ、反吐が出る。オメーらの言う、ソレ。人生の在りし日、よく分からねーけどなんかキラキラした期間ってヤツ。ニツキちゃん、大っ嫌いなんだわ」

「そんなの知らない!」

「そりゃそーだ、今言ったンだからな」

 笑っていたと思ったニツキはけろりと真顔に戻る。

「っま、オメーの怒りは尤もだ、震えながら甘んじて聞くさ。初めに手ェ出したのは紛れもねえ、ニツキちゃんだ。そこを違えるつもりはねーんだろ、オメーも?」

「な、何言ってんの、当たり前じゃない」

「なら、今はそれでじゅーぶん」

 ニツキがにたりと笑んで、彼女の片方の手は爐の背中をぐいと押す。ちょうど、演劇部の部室の前だった。それから、いつの間に持っていたのか、部室の鍵をその扉に差し込んだ。彼女が開けたそこは、爐にとっては馴染み深い景色をしていた。ついこの間まで、希望に満ちた面持ちで見つめられた室内は、今となっては悲しみに暮れて眺めることしかできない。処分に困った残骸たちの墓標のようになっている。

「絶望的ってのは」

 ニツキがばたりと扉を閉め、その手を壁に這わせて電気を点ける。

「どのくらいだ」

「え?」

「教えろよ。どのくらいだ、どのくらい絶望的なんだ、何がそうさせる?」

「自分でやっといて、被害の程度も知らないの」

「知らねーな。絶望的ってことだけだ、知ってんのは」

 積み上がったこれらを前にしてもそう言えるのが、爐には信じられなかった。そもそも、そんなことを知ってどうするのだろう。笑うくらいしかできないだろうに、先ほどのように。だが、ニツキの視線は真剣だった。

 爐が残骸を指す。

「何もかもだよ、全部。全部が台無し」

「全部ってのは?」

「見えてるくせに。こういう舞台美術、大道具、小道具。衣装とかも。修理がいるけど、もう無理。人手が足りない。買い直すにもお金もない」

「ははあ、絶対数。他には何が足りない?」

「後はもちろん、時間。工面のしようがない」

「ああ、なるほど。絶対数だな、とにかく?」

「何?」

「そうとも」

 ニツキは爐ではない何かと対話しているかのように、虚空へ視線を向けていた。

「それから?」

「え?」

「もうねーのか?」

 適当にゴミの山から取り上げたかつらを顔に被って、煩わしげに天井を向く。

「じゃあまだチェックメイトじゃねーな」

 ニツキはかつらをぽいと放って、爐の鼻先に詰め寄った。

「何をヤるつもりだった? 役数は? それにあたって用意してた人数は? 裏に何人要る…ああ、言っとくけどニツキちゃん、そーゆーのの相場、知らねえからな」

「ちょ」

「金は? 時間ってのはどンだけを想定してた? その他の諸々、何がどれだけあれば、オメーの青春に事足りる?」

「待って、一気に訊かないで!」

 爐がニツキの体を押しやる。学ランはわずかに左右に振れた。

「意味分かんない。何、なんの話をしてるのさっきから?」

「オメーの何を、どれくらい無駄にしたのかって話だよ、ニツキちゃんが」

 他人事かのごとく、あっさりと彼女は言う。

「さあ手始めに、演劇部は何をヤる気だったンだ?」

 自分の罪を再確認する道程を、こんなに嬉々として行うのはどうしてなのだろう。嫌悪に似た感情が湧いた爐の顔を見たニツキは、愉快そうに目を伏せた。

 躊躇いつつ爐が舌を動かす。

「…………何をやるって、演目のこと?」

 ニツキの目が、それ以外にあるかと語っていた。

「それなら…なんで言わなきゃならないのかわかんないけど…人魚姫」

「そいつァいい!」

 聞いた途端、ニツキは弾けるように明るく言い放った。訳が分からず、爐は顔を顰めるしかできない。彼女の思惑に見当がつかないのと、単に彼女に置いてけぼりにされているのが不快なのとで。

 ニツキがぱちりと瞬きをして、虚空から爐へと目線を戻す。

「なああ、イロリ、栄えある早蕨学園の演劇部部長、オメーの守りたかったモンを傷つけたことは本当に申しワケねーと思ってる。取り返しのつかねーことになったのもひとえにニツキちゃんのせいだ」

「わざとらしい。何を改まって」

「だからさあ、一つ提案してーんだが」

 爐は身を固くした。

「ッハハア。そう警戒すンなよ、ただのJK同士の会話だろうが。危ねーことも怖いこともねーって。どうせ決定権はオメーにある、まあ聞いてみろよってだけ」

「……」

「沈黙だな。始めるぜ」

 ニツキは小馬鹿にしたような声音で、歪んだ段ボールをつまみ上げる。

「さる梅雨明け、暴風雨に見舞われた日。ニツキちゃんはオメーに対して取り返しのつかねえことをした。と言ったが、ニツキちゃんならオメーの言う、オメーの青春を取り返せる……つったらどーする?」

 彼女を見る爐の目が驚愕に染まる。

「今ンとこ、策、勝算、共にある。だがこれは、ニツキちゃんの独断でヤるモンでもねえ。何人か、外せねえ協力者がいる」

「何、する気」

「オイオイ、乗るか反るかも知れねえヤツに明かすバカがいるかよ」

 彼女は細切れの段ボールを掬いあげ、雑な動作でそれを宙に放った。

「詳しくは話せねー、オメーがそこに突っ立ってる以上はな。けどよ、悪い話じゃあない」

 突き刺さる懐疑の視線に、ニツキは珍しく眉尻を下げた。

「だって考えてもみろよ。テメーのケツをテメーで拭こうとしてんだぜ、オメーの青春とやらを台無しにしたヤツ自身が。汗水垂らして奮闘するンだぜ、オメーの欲しいモンを、オメーに捧げるために。オメーはそれを黙って上から見てりゃいい。愉快だろ? 滑稽だろ?」

「そりゃね、自分でそれ言えんのもどうかと思うけど」

「でもってオメーには、失った青春とやらが帰ってくる。最高じゃね?」

「そんな上手くいく訳ない」

 口元は弧を描いていたが、爐の眼には猜疑よりも強い怒りが滲んだ。

「どれだけ費やしたかなんて知らないくせに」

「知らねーよ、だから教えろっつってンの」

「そんなの考えなくても」

「分からねえ」

 促そうとするニツキに対し、再び苛立ちが湧き上がる。

 爐は彼女に一歩、詰め寄った。

「演劇部にとって早蕨祭の公演は、外部で行うコンクールを抜けば、部で一番大きな舞台。演劇部はできるだけ全てのものをそこに注ぎ込む、分かる?」

 口火を切れば止まらない。

「ただの部活動だもん、だからこそ活動日にはとことんやる。休んでる暇なんてない。去年の早蕨祭公演の幕が下りた瞬間からもう、次の年に向けた準備が始まるの」

「アーハ。時にしておよそ365日だな。ようやく一つ目だ」

「年度毎に支給される部費のほとんどは、早蕨祭のために使われる。材料を用意したり、機材を借りたり。そういう準備費用として」

「いいぞいいぞ、二つ目だ」

「現役の生徒だけじゃなく、毎年卒業した先輩たちも手伝いに来てくれる。大学に行っても、社会人になっても、来てくれる人だっている。そういう、一大イベントなの、早蕨祭は、演劇部にとって。学園生活が終わった人にとっても、そうじゃない私達にとっても、一生の思い出なの!!」

「よおーし上出来だ、三つ揃った!」

「な、何よさっきから、あんた本当に、自分のしたことが分かってんの!?」

「ッハ。理解する前にヤっちまうような衝動は全部、音楽にブチ込んでらあ。それより、だ」

 ニツキの体が緩衝材にダイブした。

「これで明らかになった、ニツキちゃんが壊したモンの内訳が。オメーが無に帰したと嘆く、時間、金、人手、その詳細が」

「あんた最初からそうやって、単に嘲笑うためにこんなこと」

「まさか! ンな底意地のワリーこと、セラしかやらねーよ」

 彼女が反動をつけて起き上がったのに合わせ、学ランの裾がばさりとはためいた。ネックスプリングというやつだ、爐は体育の授業で男子が四苦八苦していたのを思い出す。

 ニツキの筋肉質な健脚を見つめ、彼女は問う。

「じゃあなんで」

「言ったろ、センパイ。詫びだよ、詫び」

「聞いてないし。ていうか謝るくらいなら」

 勢いに任せてそこまで吐露したところで、爐が顔を上げた。

「謝る、くらいなら……」

 彼女はハッとして俯いた。続きを言おうとしても、喉の奥で突っかかる。ようやく爐は、ニツキが何をしでかそうとしているのか、その核心に触れた気がした。彼女は黒目を右往左往させた。売り言葉に買い言葉だというのに、言いたくても言えない。言ってはいけないと思った。

 何故ならそれを言ってしまったら、目の前のこの女はきっと。

「そうだよな」

 ついに、と言わんばかりに眉を上げていたニツキは続けた。

「謝るくらいなら、返してほしいよな?」

「そんなのただの言葉のあや……」

 信じられない。ニツキは相変わらず歯を見せている。そこに先ほどまでの冗談めいた雰囲気が消え去っていることに、爐は恐れを以て彼女を見つめ返した。夢のまた夢と理性が早々に首を振る中、しかし、爐の見つめる彼女なら、やりかねないことでもあると悟るのも容易であった。やりかねないし、成し遂げかねない。丈夫新月とは、そういうヤツである。

「あんた、本気で?」

「それがイチバンの償いだ、取り返しがつかねーのなら、耳揃えるよりもっとデカい取り分を」

 さっとニツキが動いた。爐が瞬きをした次に気がついた時には彼女の傍まで来ていた。

「特別に教えてやる、ちょっとだけな」

 彼女の笑みには挑戦的な意味合いが含まれていた。

「生徒会との、残念ながら軽音楽部は早蕨祭には出られねえことになった。元々、今年度でお取り潰しだ、活動費はほとんど手がついてねー…もう分かったな…これが第一の金のアテ」

「そんなの許されないでしょ。そもそもそれなら解決するのはお金の問題だけじゃない。軽音の部員はもうあんたたち三人だけ」

「そう、なんにせよ最も高い壁は絶対数。だがそれさえ補えれば、時間も金もどーにだってなる」

「不良のお友達でも連れてくるの?」

「ッハハア、残念、不正解。オメーらと手を組むのはニツキちゃん含め、ダシタの率いる我がクラスだ」

「……は?」

「うちのクラスの連中を使え」

「い、いやいや、何言ってんの、どういうこと、無理に決まってんじゃん」

「そうでもねーぜ。ヤツらは早蕨祭で演劇をヤろうとしてる、クラスの出し物としてな。だが考えてもみろ。オメーらのように慣れたヤツなんか一人もいねえ、絶対に頓挫する。上手くいくワケねえ、どっかで空中分解だ、必ず。そこでオメーらだ。クラスの人手と各クラスに支給されてる早蕨祭の費用の全て、微力ながら軽音のモンも含め、ニツキちゃんに関わりのある全て。オメーらに全betする」

「そうやって聞こえの良いように言ってるけど。つまりはクラスのために私たち演劇部をいいように使おうって魂胆でしょ」

「表向きにはな」

「は。冗談じゃない。絶対いや、なんであんたに協力しなきゃいけないの。そもそも部活とクラスが合同でなんかやるなんて。そんなの誰もやったことないんだから、許されるのかも分かんないし」

「けど、ずっと良いぜ。ここで引き返して、生徒会長に活動費の補填を頼んで、ただそれを元通りにされるよりは、ずっと」

 爐がわずかに拳を握った。

「額面上の帳尻を合わせてなんになる? それでオメーは満足か?」

 ニツキの顎が、捲られていないカレンダーを示した。

「一年だぞ、一年。オメーの生きてきた、十八分の一! それだけの情熱を、命を削ったそれをナシにされ」

 ゴミの山をニツキが指し示す。

「金だけ戻されたところで、オメーに空いた穴は埋まらねえ、そうだよな」

「何、言ってんの……」

「だったら、もっとデケーことしようぜ、もっと大勢を巻き込んで、もっとデカい賭けに。今までに前例がねーのなら、オメーが作りゃあいい。サイコーの青春だろ?」

「ふざけないでよ、ほんとに!」

 至近距離のニツキを、爐が突き飛ばす。強く押したつもりはなかったが、存外ニツキは遠くへ離れた。後ずさった彼女の上履きが、段ボールをがさりと踏みつけた。

 その音が爐の抑えてきた感情を触発させる。

「さっきから何言ってんの、ずっと何言ってんのよ! あんたが、あんたがメチャクチャにしたんじゃない! あんたがあんなことしなければ、こんなことにはなってない。分からないの?」

「だから解決しよーと」

「それが許せないって言ってるの! 私達の気持ちを踏み躙っておいて、なんでそんな平気でいられるのよ! あんたが今やってることは、私達への侮辱、それ以外のなんでもない!!」

 爐は叫んで、背後の扉を開け放つ。

「分かったら出てって、それからもう二度と、私達に関わらないで!」

 胸が張り裂けるくらいに体の奥深くから告げた。上がった息を整えている間、廊下を貫く彼女の想いが、いつまでも反響しているみたいに聞こえた。

 ところがその余韻に耳を傾けられるような静寂は訪れなかった。ニツキが言い返したからだ。

「じゃーやめるのかよ」

 爐を見据えていたのは、あまりに冷静で純粋な瞳だった。今までの邪な光の宿っていない、満月のごとき隻眼。その不思議な引力に、爐は何も言えなくなってしまった。

 その隙に、ニツキは続けた。

「やめるのかよ、諦めきることすら。そンだけ怒れて、泣けて、全てを賭せる程の熱があって。なあ。ンな簡単に、無くせるモンなのかよ…ああ、これだから…これだから青春は」

 苛立ちと失望の入り混じる、ニツキらしくない顔だった。

「……畜生」

 彼女が咄嗟に、眼帯で覆われた右眼を押さえる。白んでいた爐の拳が緩んだ。それまでどちらかの話し声に賑やかされていた部室を、ついに静寂が支配した。

 爐がぎょっとしてニツキに近づく。

「な、なんで……あんたが泣いてんの」

 眼帯では吸収しきれなかったのであろう涙が、彼女の右頬を濡らしていた。予想外の反応に、爐も狼狽える。

 ニツキはそっぽを向いた。

「古傷が痛むンだよ、靴下を捨てるヤツを見ると」

「はあ?」

「たまーにだ。ま、気にすンな」

 日常茶飯事なのか、本人はどうでも良さげだった。粗っぽく顔を拭われた学ランの袖が、地の色よりも濃くなった。

「靴下とギフトは別モン。オメーは靴下の方だ、もったいねーぞ」

「意味分かんない」

「ッハハア。なンてったってニツキちゃん、異星人だから。大目に見てくれ」

「……あんた、本当に、私のために費やせるの、二年生の、三ヶ月」

 すっかり毒気を抜かれてしまった爐は、少々見当違いな方向に質問を投げた。

「それで本当に、演劇部の公演を行えるんでしょうね、予定通り」

「オメーが乗るなら」

「単独公演が絶望的になった演劇部はあんたのクラスに協力する。そういうことにするのね? あんたのクラスとの合同の演目として、公演に向けて一からやり直せばいいのね? 上手くいくかどうかは別として」

「上手くいくに決まってる、ニツキちゃんがついてるからな」

「つまりそれは。失くしたと思ってた目標を目指していいのね、また?」

「ごちゃごちゃしたことは今は言えねえ。とにかく。それがオメーの青春ならば、それをオメーの前に差し出すまでだ、ニツキちゃんは。そしてもちろん、こんなことを持ちかけんのも持ちかけられンのも、ここにいる2人だけ。この2人の間だけでしか交わせない約束だ」

 ニツキは爐に手を延ばす。恭しく、握手を求めるように。

「Do we have a deal?」

 スラリと細い彼女の瞳孔が爐の視線を絡めとる。寒気がする程のドラゴンアイ。

 取引成立か。

 山羊角を模したようなツインテールの彼女が流暢な発音で尋ねる様は、まるで本物の悪魔のように見えた。そう思うと、彼女の羽織る学ランはさながらコウモリの翼のようだった。爐は生贄を捧げる祭主の気分になった。背徳的で、足が浮いているような気分だった。身体全体に血が行き渡らず、頭にだけ集中しているような。

 ニツキの言うことが、どこまで本当で、本気で、そしてどこまで成されるのかは未知数である。爐とて、去年の事件を知らない訳ではない。全てが彼女の言う通りうまくいったとて、その後の対価として爐が何を求められるのかも分からない。

 だが。

 爐の脳内には、やめるのかと問うた先ほどのニツキの声色と、ニツキが第二体育館を荒らしている最中の、後輩の表情が反芻していた。このままでは後味が悪い。爐はこの悲しくて空恐ろしい失望に絶望を抱えて高校生活を終えることを嫌った。

 思案を巡らせていた彼女が姿勢を正す。

「勘違いしないで。私はあなたを一生許さない、丈夫新月」

 なるべく毅然とした態度に映るよう、爐は胸を張って、ニツキを見下ろすように顔を上げた。身長差など無いかのごとく。

「私の青春は」

 息を継ぐのと同時に、爐はニツキの手を握った。爐と握手と交わすや否や、ニツキの口角が裂けんばかりに吊り上がる。人間とは思えない笑顔に怯みかけた爐だったが、彼女はもうニツキから目を逸らすことはしなかった。

 鼓動はいつの間にやら早くなり、額からは冷や汗が伝う。魂の取引を止めさせようと、本能はずっとこの場から去ることを促していた。それでも爐はニツキの手を放さなかった。引き攣った目尻が痛かった。だけどこんなもの、後輩達が受けた苦痛に比べれば、きっと。

「私の青春は、あの子達の笑顔よ」

 あんな顔、もうしてほしくない。

 その一心で、私はこの悪魔の甘言に乗るのだ。

「done!」

 ニツキがパッと手を離す。

 託してしまった。解放された手のひらを見つめ、爐は暗に悟った。もう引き返せないことを。今更、後悔しても遅いのだと。

 ニツキを見る。嬉しそうに頭を揺らしていた。鼻歌でも歌い出しそうな感じだった。隻眼は既に爐から虚空に目線を戻していた。

 何が待ち受けているのかを想像しても無駄だと頭では分かっている、だが思考をやめたら彼女の思惑に完全に飲み込まれてしまいそうで。それだけは癪だった。ごくりと唾を飲む。早蕨祭まで93日。私の命運は、この悪魔の手中にある。

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