弾劾
「ねえ待って、雨、結構やばくなってきてるわ」
「まじ?」
「四天王寺さんも早く帰んなよ」
「大丈夫だって、教室閉めたらすぐに帰るから」
「そうしなそうしな」
「じゃーね、四天王寺さん」
「うん。また明日」
手を振った最後の一団が教室から去っていった。辺りが静かになると、四天王寺の耳にも雨足の強まったざあざあという音が届く。
「やばーい!」
校舎の外からは、はしゃぐような生徒たちの悲鳴が響いてきた。四天王寺は物憂げに画面へ視線を落とす。
「ごめん、かぁ……」
彼女の指が、毛先を弄ぶ。
「……もう」
スマホを机に伏せて、ため息をつく。こうしていても仕方ない。彼女の手はそのまま隣に置かれていた実行委員の書類に延び、思案に耽るようにそれらをまとめ直し、専用のファイルに綴じていく。これを職員室へ預けたら四天王寺も帰るつもりだ。手際はとても良かったが、彼女の顔は晴れなかった。
ふと、階段を駆け上がる誰かの存在に気がついた。大股で、重さを感じる足音。急いでいるようだった。四天王寺の、規定よりわずかに短いスカートが、照明をもう半分ほど落とした教室で揺れた。教室の扉が開いて、そして入ってきたのは。
「よお。オメーがノウジ?」
「……丈夫さん」
ニツキはスマホの画面を四天王寺に向けつつゆらゆらさせる。期待に胸を高鳴らせた四天王寺があからさまにがっかりしたのに対し、ニツキが首を捻った。
「ンだよ、呼んだよな」
「呼んではないよ」
「けど話があンだろ。書いてある」
教室のもう半分、既に暗くなった側、ニツキのスマホが光を放つ。
「ラブコールか? サインか?」
彼女は照れたように両手を挙げる。
「サインとかねーぜ、ニツキちゃん」
四天王寺が思わず呆れて、鼻から大きく息を吸った。言おうか言うまいか、悩んでいたのが馬鹿らしくなってしまった。
「あのね丈夫さん」
「オウ」
「もう関わらないでほしいの」
「…………ア?」
予想外の言葉が飛んできたことで、ニツキの隻眼がきょとんと見開いた。
「ワリーが読めねーな。オメーとの関係は今この瞬間から始まったンだが」
「私じゃなくて。閣下……間下に」
「ダシタ?」
「そう。もう関わってほしくないの」
四天王寺はシャツの裾を指先でつまんだ。
「閣下は……あの人は優しいからさ、丈夫さんにも、ちゃんと向き合ってあげてるでしょ。一年の時からずっと」
彼女自身、去年から間下と同じクラスである。一年間で何があったかはよく知っていた。
「でもそれって、丈夫さんが先生とか大人の言う事は聞かないで、閣下の言う事だけ聞くからってだけで……そんなの閣下が可哀想。閣下からしたらただの迷惑なんだよ、丈夫さんのしてる事」
はじめは途切れ途切れだった四天王寺の訴えが、流暢になっていく。
「そもそも廃部になった軽音に構ってる暇なんて、閣下にはないの。これから早蕨祭があって、その前に期末があって、夏休みが終われば修学旅行の準備だって、閣下は予備校も行ってるし、どんどん忙しくなる。一年の時みたいに丈夫さんに大怪我させられたらって考えると居ても立っても居られないの。あなたに割ける時間なんて、閣下にはないの。閣下の親はすごく厳しいし……だから、もう学校で問題を起こすのはやめて。クラスにも文化祭にも……閣下にも、関わらないで」
四天王寺は言葉を切った。それから幾分か清々しいような面持ちをした。彼女の紅潮した頬が半分だけ残っている電灯に照らされた。既に闇となったもう半分の方にいるニツキは、ただ黙って、四天王寺の言ったことを吟味している様子であった。
「……」
目をぱちり開ききって暗闇にじっと佇むニツキは、まるで猫のようだった。特に重なる、あのグリムキャット。歯を見せたまま弧を描く口元と、爛々とこちらを捉える瞳なんかが瓜二つだ。異なる部分といえば片方が眼帯で隠されているところくらいのものか。彼女にヒゲがあったら、水滴の音に合わせてピリリと振動するのだろう。
「い、言いたかったのはそれだけ。急にごめんね。ずっと思ってたことなんだけど、言うタイミングとかさ、見つかんなくて、良い機会かなと思って。別に丈夫さんのこと嫌いとか、先生に言いつけるとか、そういうんじゃないから、でもほんと、去年みたいなことがあったら、閣下が大変だからさ」
まんじりとも動かないニツキに不気味さを覚えた四天王寺が、そそくさと視線を逸らす。
「じゃ、じゃあ私、帰るから。丈夫さんも雨、気をつけて……」
彼女は鞄を急いで肩に掛け、ニツキの方を見ずに口早に言った。この場を早く離れたくて、ニツキの視線から外れたくて堪らなかった。それはおそらく、四天王寺の防衛本能であった。在校生であれば誰でも痛いほど知っている。丈夫新月の凶暴さなど。
「あ、待って。電気」
立ち去ろうとした四天王寺だったが、照明のスイッチを消し忘れていたことに気がつく。そこで彼女はニツキとは距離を取るように教室の端を通って、電源まで近づいた。
照明を落とすと、思ったよりも室内は暗くなった。外の天気によるものだ。吹きつける雨粒はさらに激しさを増し、なんだか四天王寺を帰らせまいとしているかのようだった。
目が慣れないまま、手探りで扉を開けようとした時。
「……なぁ、劇をやンだってな?」
「えっ」
背後から囁かれ、四天王寺は跳び上がった。見ると、いつの間にかニツキが彼女のすぐそばにまでやって来ていた。四天王寺が小さく悲鳴をあげると、彼女は愉快そうに目を細めた。いよいよグリムキャットである。
「何をヤるんだ、演目は?」
「え、ま、まだ決まってない、けど」
「へええ」
何かを企むかのように、ニツキが視線を左右に飛ばしてみせる。四天王寺はムッとして一歩、後ろへ下がった。ドアが背中に吸いついた。鞄をかけ直した彼女が、再びドアに手を延ばす。
「や、やめてよ。なんもしないで。これ以上閣下に面倒は……」
「それさあ」
「きゃっ!」
ニツキの腕が、彼女の手首を掴む。四天王寺は恐怖に身を竦めた。この女の機嫌を損ねようものなら、何をされるか分かったものではない。同じ言語を介してなお言葉が通じないと感じさせる、本当に何をするか分からないのだ、この女は、だから宇宙人なんてあだ名を。
「逆じゃね?」
「え?」
「逆だよなあ」
最悪の結末を予想し肝を冷やしていた四天王寺とは裏腹に、ニツキはあっけらかんとしていた。彼女が何を言いたいのか分からず、四天王寺の顔が怪訝に歪められる。
「何をする気」
「いやァ大したことじゃねー」
四天王寺の手首を掴んでいたのとは反対のニツキの指が、音もなく内鍵をかけた。
「ニツキちゃんにも噛ませろよ、そうだろ、その方がずっといい」
「な、なんの話」
面食らった四天王寺が我に返った時にはもう、彼女の唇から疑問が飛び出していた。こんな不良、関わらないのが最善なのに。鞄の紐がセーラー服の上をずり落ちた。
四天王寺が力んだからか、上履きがキュと床を鳴らす。
「例えばニツキちゃんが大事な役を勝ち取ったとする」
「は?」
素っ頓狂な声が四天王寺からあがる。完全にニツキのペースであった。四天王寺にはついていくことすらままならない二転三転の仕方をする。だが彼女はお構いなしに話を続けた。
「するとどうだ、セリフを覚えて、立ち位置を覚えて。段取り、衣装合わせ、その他の諸々、クラスの奴らと打ち合わせなり調整なりで大忙し、引っ張りだこ、授業をフケて寝る暇もねーくらいにな。違うか?」
「もしかして。クラスの出し物の話してるの?」
「おー」
「それなら、そうなると……思う、けど」
「そうとも。だから、それ以外のヤツになんて構ってられねー、られなくなる。必然的にな」
四天王寺の指先がぴくりと反応したのを、ニツキは見逃さなかった。
「ノウジ。人の気を逸らすにはコツがある。自分が割って入って無理やり関わらせないようにするよりもずっと効く得策だ」
ニツキに覗かれた四天王寺の瞳孔がかすかに開く。暗がりに順応してきたのだ。あるいはまた、何か別の理由で。
「どっちかの注意を他へ向けさす。そうすりゃ自ずと距離が開く。そうやって自然にできた隙間、オメーはそこに入りゃあいいだけだ。ただそれだけのことだぜ、なあ。簡単だろ、そうだとは思わねえ?」
ニツキの瞳は真っ直ぐに、小柄な四天王寺を見下ろした。
「そういうワケで、ニツキちゃんに面倒起こしてほしくねーンなら、関わらないでっつーのは逆効果。ニツキちゃんにはクラス劇に積極的に参加してもらう方が良いってことだ。そういう立場を与えて、参加せざるを得なくさせる、そうすれば、ほとんどクラスのことはオメーに任せてるダシタとの接点なんてみるみるうちに、ニツキちゃんからは綺麗さっぱりなくなる。ヤツの厄介になることも、なくなる」
「でも……」
「クラスを仕切るのはオメーなんだろ」
真剣に耳を傾けている様子の四天王寺を、ニツキは笑って見つめ続けた。
「なら、これはオメーにしかできねえことだ。ニツキちゃんを他のことになんて一切気が回らないような役目につける」
ニツキは愉快犯のように、掠れたようなダミ声から面白さを滲ませた。
「そう、例えば主役とか」
「そ、そんなの駄目!」
四天王寺がニツキの手を振りほどいた。
「主役になって、クラスのみんなと協力して?」
彼女はニツキを嘲るように握られていた手首をさすった。
「無理無理、いきなり更生しますなんて絶対嘘。そんなの今まで散々、不良だった丈夫さんにできるわけない。そうやってメチャクチャにするつもりなんでしょ、どうせまた!」
ハッと息を呑んで、彼女はつい口走ってしまった自身の顔を手で覆う。今度こそ、喧嘩を売る形になってしまった。呼吸が浅くなる。だが、当のニツキは別段なんとも思っていなさそうであった。四天王寺に振り払われた手をぶらぶらしながら、先ほどと変わらぬニタニタ笑いで彼女の顔を覗いていた。
「ッハハア。ただの例題だ、気にすンな。だがいずれかの例題を解かなきゃ、命題は下せない」
一歩退がった彼女は真理ぶった顔をした。肩にかかった学ランを重たげに翻して。
「これはオメー自身の選択だ。もしオメーが、実行委員でも、クラスの仕切り担当でもなかったなら、こんな選択肢はぜってーに取れねえ。どうするかはオメー次第。でも考えてもみろよ」
ニツキが素早く、四天王寺の背後に回る。
「オメーがニツキちゃんをコントロールできることが分かったら、ダシタはどう思う。四天王寺、お前がいてくれて助かるって、お前のおかげで楽だって、きっとそう言うだろうなあ」
彼女の流れるような動作が四天王寺を、張りついていたドアから引き離す。
「アイツは甘いから、すぐにでもオメーに感謝する。恩を感じるんだ、お人好しだからな。そうなんだろ。オメーはといやァ、ただのクラスメイトから一気に関係が縮まるワケだ。なあ、アイツは誰にだって優しいが、オメーには特別に優しくなる」
女子高校生に似つかわしくない骨太指はニツキの特徴。ごつごつとした関節が四天王寺の肩口をなぞった。
「誰もが認める完璧な生徒会長に、頼られる存在だぞ。そうなれるチャンスは今、オメーの手の中にある」
肩から手へと滑っていくニツキの荒れた手は、ついに四天王寺の掌へと到達する。
「みすみす逃すのか?」
「わ、私は騙されないから!」
四天王寺はパッと自身の手を庇う。眉を吊りあげた彼女には、欺瞞と動揺が見え隠れしていた。
空を掴んだ手を、ニツキは湿度に任せてひらひらとさせた。
「騙しちゃねえ、可能性の話だ。そりゃもちろん他にも択はある。その劇とやらでオメーがヒロイン、ダシタがヒーローを演る、とかな」
「っ!」
一度はよぎった下心を言い当てられた四天王寺の手が、鞄の紐を握り締める。
「そ、んなこと」
彼女を責めるかのごとく、窓は水音を捲したてる。ニツキは抱いた彼女の肩からやんわりと手を離した。四天王寺の身体は固まってしまっていた。
くたったゴムの靴下をずり上げてから、ニツキの声が床を這う。
「けど、それをするには問題点が多い。仕事との兼ね合いという実質の問題と、堂々とそれをやってのけるには気が引けるっつう、オメーの奥ゆかしさの問題」
再び四天王寺の顔が強張る。
「それすら抜きにするってンならモチロン、もっとずっとあるさ、可能性ってのは無限大だ。いくらでも出してやれるぞ、そーゆーのはニツキちゃん、得意だからな……だが、実行できそうかつリターンの大きな可能性の話をするンなら。さっきのが一番だと思うぜ、違うか?」
尤もらしいことを言う間、ニツキは四天王寺の周りを歩いた。蛇が獲物を絞めあげるようにゆっくりと。そして顔面には変わらず、試すような笑みを湛えているのだ。自分は何か、とんでもない決断を迫っているのだとばかりに。
「だりー部分を不良の丈夫新月に押しつけて、ダシタは安寧を手にする。そンでもって早蕨祭の結果はオメーの手柄となり、無事にダシタからの信頼を得る。教職員含め大人からの評価もおまけでな。決して旨くはないが、悪くもない話だ。ニツキちゃんなら乗るね」
「……それでまた、何か裏でしようとしてるんでしょ」
しかし、四天王寺の意思は固そうであった。ニツキへの恐怖は露わであっても、頑とした態度を崩すことはなかった。彼女に屈するつもりはなさそうである。四天王寺の眼光が怯むことなくニツキの隻眼を睨みつけているのがその証拠だ。
「今更、あなたの口車になんて乗らない。知ってるんだから、あなたの手口は」
「ところがどっこい、今回ばかりはそーでもねえ。ニツキちゃんもな、流石にこれ以上ダシタに負担をかけるのはどうかと思うンだわ」
彼女はやれやれと腰に手を当てがい、首を左右に振った。己を取り繕うことをしない彼女にとって、今の発言が本心であることに疑いの余地はない。それが四天王寺を当惑させる。一体どの口でそんなことを言えるのだろうか。ニツキの呑気さに呆れて、四天王寺は瞠目してしまった。
そんな四天王寺の胸中など露知らず、彼女は暗闇の中で足先を遊ばせている。
「けど、だからってニツキちゃんがニツキちゃんじゃなくなるのは無理ってモンだからよ。せめてオメーがいてくれっと、アイツもまあ少しはマシかなってさ。丈夫新月として、ノウジ、オメーにそれを頼みてえ。劇の成功に向けてやれることなら全力でやったらア。オメーが何もすんなっつうならそーする。なンもかんも、オメーに従う」
わずかに、ニツキの声が真摯さを帯びた。
「だからニツキちゃんに寄越しな、その役」
見えなくても、彼女がニヤリとしたのが四天王寺にも分かった。何を企んでいるのか分からない猫目が一つ、闇に浮かぶ。風で窓枠がガタガタ言った。
四天王寺の眉間が厳めしく皺を寄せる。
「一肌脱ぐって言いたいの?」
「ッハハア、何言ってンだ」
おかしそうにニツキの体が揺れた。
「
「……あなたはつまり、クラスの劇に参加したいのね?」
「オメーがそう思うなら、それでいいと言っている」
「それは、早蕨祭に軽音が参加できないからなの?」
「ア?」
彼女の首がこきりと曲がる。
「何言ってンだ。フツーに軽音もやるぜ」
「うそ。できないでしょ、廃部だもん」
「今年度いっぱいだろ。なら早蕨祭にだって出る」
今度は四天王寺の首が傾いた。ニツキがやって来るまで彼女が整理していた書類は、教室の使用申請や前夜祭・後夜祭における参加連盟の一覧などのものであったのだ。しかし軽音楽部の名をそこに見た覚えがない。四天王寺はてっきり、軽音楽部は早蕨祭に出ないのだと思っていた。とすれば、書類が無いのは妙である。
「何日の何時で申請した? 締切に間に合うように書類は出した? 委員会からの許可証は受け取った? 部長には控えだけを送るから、原本があれば実行委員が保管してるはずなんだけど」
「そういう面倒な諸々のために、アリアが実行委員やってンだぜ」
「……ううん。見てないな、やっぱり。軽音の書類」
四天王寺は鞄を床におろして、ファイルを取り出してみせる。暗いと思うより先に、光が飛んできた。眩しさに目を細めて見上げると、ニツキの手にあるスマホらしかった。ぼんやりと反射する彼女の髪が、月のように青白く映る。感謝の言葉が四天王寺の口から発されることはなかった。
彼女は綴じてあるファイルの用紙を一枚ずつ丁寧にめくっていく。
「……やっぱりないよ、軽音楽部の申請書」
「どーゆーこった」
「だから、つまり、軽音は早蕨祭に出られないってこと」
「アリアがミスるワケねー」
「そんな怖い顔されても何があったのかは私には……」
四天王寺は再びニツキの顔を見上げ、裏表紙を閉じる。
「もし本当に提出してるなら、ここにないってことは……持ってるはずなのは、実行委員長か生徒会長」
そこまで言ったところで四天王寺はしまったと口を噤んだが、もう遅かった。目の前の気配が消えたかと思うと、扉が解錠され、あっという間に廊下を、階段を駆ける音が響く。ダダダダと早鐘を打つように、彼女の怒りが増長されていくのが、耳にするだけで分かった。慌てて四天王寺も追いかける。扉を施錠してから、鍵をポケットに突っ込んで。手に鞄の肩紐を両手で握り、なるべく反動が来ないようにしながら、階段を急いで下りていく。湿っているからか、床を蹴るたびに進む力が奪われている感覚になった。
足音が反響していても、ニツキの背中を捉えられることはなかった。息があがり、四天王寺は手すりに頼る。
「閣下」
彼女が案じていたのは、間下が酷い目に遭わされるのではないかということだった。あの丈夫のことだ、きっと力に訴える。彼は去年そうしてニツキの怒りを買った結果、大怪我を負っているのだ。立ち止まっている場合ではない。四天王寺は手すりをレールのようにして、素早く階下へ下り立った。
人目を盗んで廊下を駆け抜けて、ようやく生徒会室の看板が見えてきたところで、四天王寺はすぐに異変に気がついた。扉の向こうで、争っているような物音がする。豪雨に紛れて、近づかなくてはきちんとは聞き取れないが、確かに。生徒会室から漂っているのは物騒な雰囲気であった。
四天王寺は意を決して、生徒会室に足を踏み入れた。
「どーゆー了見だテメー!!」
途端、ニツキの怒号が四天王寺の体を震わせる。
「許さねえ、許せねえ!」
彼女が揺さぶっているのは間下だ。四天王寺は息を呑む。
ニツキは怒り狂うと表現するに相応しい恐ろしい形相を浮かべており、青筋の浮いた手は間下の胸ぐらを掴んでいた。周りの机や椅子は、床に引き倒されて、そこに乗せられていたであろう書類の束があちらこちらに散乱している。
「危ないよ、やめようよー」
「……机が横向き」
セラとアリアは困り果てて、部屋の隅へ避難しているらしかった。
間下がニツキの腕を掴む。
「だから。こんな危ないことする奴のいる部活を文化祭に出したらどうなるか分かんねえだろ、一般のお客さんが何人来ると思ってる!」
「オメーの独断でなされていい決定なワケがねえ!」
「いいや、教職員からの許可も下りてる、俺の独断に任せると。そうすればお前は、俺以外に手出しはできない、する動機がないからな」
「ふざけンな。アリアは軽音のために実行委員やってンだぞ、何に必要なのか分かんねー同じ内容ばっかの紙切れどもも、後で報告書だけで済ませられるような放課後の会議も。アリアはただでさえ足りてねえテメエの時間割いて、それをやったンだ、全部言われた通り!」
襟首を掴まれた間下が苦しげに息を吐くのも眼中にないようだった。
「だってのにオメーは! 指咥えて見てろってのか!!」
「ああそうだよ!」
間下が手加減なしにニツキを突き飛ばす。彼女は体勢を崩し、後ろに倒れた。
「早蕨祭に来る一般客の中には、卒業生や近所の人だけじゃない、ここが志望校の子たちだっている、その親も。お前みたいなのを放っとくと、早蕨学園の評判を落としかねない事態を引き起こす可能性がある、教職員はそれを心配してた。俺に頼んできた時もな!」
彼は折り畳まれた紙を胸ポケットから取り出した。四天王寺にはすぐにその正体が、早蕨祭への参加申請書だと理解できた。アリアも何かを呟いていた。自分が提出したものであると即座にピンときたらしい。
「もう少し経ってから言おうと思ってたが仕方ない。この際だ、生徒会長から軽音楽部長へ正式に通達することにする」
間下はそれを掲げてから、
「いいか、よく聞け。軽音楽部は、早蕨祭には参加できない」
真っ二つに破り去った。
「これは当然の判断だ、覆ることはない」
キッパリと間下が告げる。
するとニツキが雄叫びをあげて、彼に襲いかかった。床を蹴って飛び跳ねるように間下の背後に回り、その辺に転がっていた何か棒状の物を振りかぶった。鈍い音がしたのは、四天王寺がぎゅっと目を瞑った直後だった。
「にっちゃんやりすぎ!」
「うるせー!」
「ニツキそれ以上は!」
棚が大音を立てて倒れる。
セラとアリアが割って入ろうとしたところで、四天王寺はおそるおそる目を開けた。間下がぐらりと傾いて、壁に手をついた。頭から出血していた。どこか切ったようだ。彼がニツキをぎろりと見据える。見たことがない、怒気に満ちた顔をしていた。その表情に、四天王寺は悪寒を走らせた。セラとアリアが二人を止めるよりも素早く、今度は間下が勢いに任せて、ニツキの両肩を壁に押さえつけた。荒い呼吸を繰り返しながら、ぶつぶつ言っている。明らかに常軌を逸した彼の様相は、普段の間下とは全く違っていた。
青ざめた四天王寺は、じりと後退りした。背中に硬い感触があり、そのままさらに体が後ろへ行く。彼女が寄りかかった扉は、四天王寺がやって来た際、完全には閉められていなかったようで、彼女の体重によって静かに開いていく。セラとアリアの静止の声も混ざって四天王寺には聞き取れなかったが、彼らは互いに何か、わあわあと言い合っていた。
ニツキを壁に押しつけた間下の手が振りかぶられる。
「だめ、間下くん!」
「……っ!」
四天王寺の竦んでいた足が、アリアの叫びを合図にして、弾かれるように生徒会室を後にした。足取りをもつれさせながらも、どうにか職員室に向かって駆けていった。
「先生、教頭先生!」
「なんだなんだ」
飛び込んできた四天王寺に対して、職員室がどよめく。
「四天王寺、どうした」
「か、角脇先生。教頭先生は?」
「教頭? 今日はもう」
真っ先に立ち上がり彼女に歩み寄った角脇は、彼女らのクラスの担任であった。衣服が乱れていることも気に留めない、四天王寺の切迫した様子にいささか面食らっているようだった。
「あ、鍵?」
彼の目は四天王寺の鞄の側面を見た。
「そんな急がなくても大丈夫だって。最終下校のチャイム鳴ったから焦ったのか?」
「あ、これ、これもですけど、これだけじゃないんです、違うんです!」
「違う?」
角脇が首を傾げる。
辺りを見回してから、四天王寺は声を潜めた。
「あ、あの、生徒会室で、その…閣下と、丈夫さんが!」
因縁の両者の名前を四天王寺が出したことで、角脇も表情を硬くした。生徒会の顧問は教頭である。四天王寺がなぜ職員室に彼女を訪ねてきたのかを理解したようだった。
「……分かった、先生が行こう。知らせてくれてありがとな」
「あ、わ、私も」
四天王寺は角脇に着いていこうとして鞄を背負い直したが、彼は首を振って指を眼前に突き出した。
「お前は鍵を返却するのが先。んで、それ返したらもう帰れ。お前は関係ないんだし、明日もあるんだから。分かったな?」
「はい……」
四天王寺の返事に頷いた角脇は、早足で職員室を出ていった。彼に言われた通り、鍵を所定の場所へ返そうとフラフラ歩く。ポケットからはみ出していた鍵を取り出す。手が震えていた。喧嘩なんて初めて見た。
「こわ、かった」
信じがたい光景を目の当たりにした感想が、自然と溢れた。職員室のざわめきなど比にもならない物騒な音を思い出すと、体の芯が冷えるような心地だった。
「あら四天王寺さん」
「あ、真鍋先生……」
「珍しいのね、こんな時間まで。でも四天王寺さん実行委員なんだっけ、いよいよ早蕨祭の支度を始めなくちゃいけないものね、大変ね」
「はい」
「その前に期末があることも忘れないでよ」
「あはは、もちろん」
「あなたの学年は、古典に強い子が多いから、問題作るのも一苦労なのよ」
「そうなん、ですね…はは」
「でも今日は災難だったわね」
どきりと四天王寺が視線を泳がせる。
「ほら。まだ全然止みそうにないもの、雨」
「え、あ、雨……あはは、そうです、ね」
「ねえー」
のんびりと教師がお喋りする間に、四天王寺はふと職員室内を見渡した。誰ももう、四天王寺を見ていない。それがなぜかひどく、ひどく彼女を傷つけた。彼女も気がつかないうちに。四天王寺の手が、鞄の肩紐を握りしめた。
なんだ、この違和感は。
生徒会室では、暴力沙汰が起こっていて。ニツキと間下が…生徒同士が争っていて…いくら間下が信頼されているとはいえ、それは大人が介入するくらいの、非日常の出来事のはずで。本来であれば教職員が対応に当たるべきで。なのに生徒会室に向かったのは角脇ただ一人。職員室に流れるのは普段となんら変わらない、退勤時刻を前にした喧騒だけ。
薄寒い。この激しい雨のせいだろうか。日が落ちて黒い四角となった窓を見つめる。この風雨がなければ、あの物音たちも職員室に届いただろうか。目の前の教師はまだ、取るに足らない世間話に花を咲かせている、にこやかに。笑顔を貼りつけたが、内容はさっぱり入ってこなかった。声が震えていないように気をつけるので精一杯だった。
信頼とは、任せきりにするのとは違うはずだ。だって、そうでなければ。四天王寺は再び、職員室を盗み見るかのように見回す。間下がどうなってもいいのだろうか。そんな考えが浮かんでしまい、血の気が引く。
これでは見て見ぬふりと変わらないではないかと思った。だって、だってこれでは、まるで。
「早く帰りなさいね」
間下が、捨て駒のようではないかと。
肝の辺りを、風が通り抜けたような感覚になった。返した鍵は壁に掛かってぶらぶら揺れた。
指先の冷えは治まらない。血色が戻らず白いまま。彼女が、力んだせいだと、心の中で言い聞かせてもなお。
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