警鐘

 チャイムが遠くに聴こえる。生徒会室からは学校内の様子を直接見ることは叶わないが、賑やかな談笑やら足音やらは確かに平時よりも浮ついていた。放課後の雰囲気が、生徒会室の古臭い扉を貫通して、間下の耳に届く。

「若いな」

 同年代だというのに、思わずそう溢してしまうような、溌剌とした空気で校内が満たされている。彼はそれを思い知る瞬間が好きだった。大勢の生徒の、早蕨祭という一つの目標に向かって活き活きとしているのを、肌で感じる瞬間が。努力や義務感とはまた違う、純な楽しさとでも言おうか。皆が早蕨祭の成功を願っているからこそ滲み出る勤勉さに、歓びに、間下自身も勇気づけられている。だからこそこうして生徒会室で一人、積まれた書類と睨み合っているのだ。生徒会長である間下には、早蕨祭の実行委員を初めとした、委員会や部活に所属する生徒たちからの要望や申請に目を通し、是非を決定する仕事が残っていた。その上で教師に向けた報告書の作成と、生徒への通達を用意して……本来であれば彼の周囲に控えているはずの役員たちも今日はいない。テスト期間に入っているためである。間下の傍にいるのは、生垣の隙間を縫っていく青々とした雨音だけであった。

 袖を通したばかりの夏服は、まだ少しハリがあり、間下の手が襟元へと延びる。書面からは視線を逸らさずに、彼が鼻から大きく息を吸ったところで、慌ただしい足音が生徒会室に近づいてきているのに気がついた。間下は眉根を寄せて、扉の方に顔を向けた。程なくして、ドアノブを何度も揺らすガチャガチャという乱雑な音が響いた。

「誰か、生徒会の人いませんか、いたら助けてください!」

 それと同時に、切迫した声が廊下にこだまする。ただごとではなさそうな、ものものしい空気に乗せられた間下も、素早く鍵を開けた。扉の向こうにいた生徒は、その顔に、彼が出たことへの安堵を浮かべた。

「あ、生徒会長!」

「そんなに急いでどうしたんですか」

「良かった、誰かいて」

「何があったんですか」

「あの、助けてほしいんです!」

「えーっと」

 イマイチ話が読めないことに、間下はかすかなもどかしさを見せた。彼のつま先が木造の床を叩く。

「どなたか、例えば先生とかに頼めないこと、なんですよね」

 彼の眼は職員室の方向を指した。それは暗に、大人に助けてもらえ、という拒絶を表していた。今の間下は書類仕事で手一杯である。あまり面倒には付き合えない。

 女子生徒は縋るように彼を見上げた。

「あの、軽音楽部が」

 その枕詞だけで、間下の体はぐらりと傾いた。彼にとって、現状考えられる最も面倒な問題。湿気で蝶番が鳴った。

 おどおどしながらも生徒は彼に訴えかける。

「職員室にも行ったんですけど、ウチは今日、顧問が不在で」

「てことは、演劇部?」

「そうです!」

 間下は大きく息を吐いた。腕捲りをする。時計は午後四時半を示した。彼は前髪をかき上げて顔を顰め、背後を振り返った。積まれていた書類は半分くらいにはなっただろうか。

「……第二体育館だったっけ、演劇部?」

 それを聞いた女子生徒の顔がぱっと明るくなった。諦めに近い表情を浮かべた間下とは対照的だった。

「ありがとうございます、どうしたらいいのか本当に分からなくて」

 女子生徒は何度も頭を下げた。間下が生徒会室に施錠している合間も、そうして感謝を述べ続けた。

 間下が苦笑いしながら眉間を押さえる。

「いいんすよ。元凶は軽音ですから」

 元凶、の部分を間下はわざと遅く言った。雨は本降りになっていた。廊下を抜けて、校庭を瞥すると、ちらほらと開いた傘が目についた。

「部長も対応に追われてて、ただの部員が急に来ちゃって、ほんとすみません」

「はは、気にしないでください」

「情けない上級生ですみません」

「いやいや」

 女子生徒の先導に着いていく彼は、会話の中で違和感なく苛立ちを沈めていった。彼女の上履きは間下のものと色が違う、三年生であった。夏休みから受験期は本番を迎える。演劇部の三年は早蕨祭で引退だったはずだ。彼女たちも大変なのだということを間下は自分に言い聞かせた。先ほど自分で言った通り、元凶は別にある。

 校舎を移動して、第二体育館に向かっていく。

 これから起こることを思い、間下の唇から疲労が漏れ出た。聴こえてきたからだ。駆動音にも似た、あの電子的な稲妻が。第二体育館に繋がる重厚な扉を突き抜けて、それが間下の頭を揺さぶった。

 彼の先を行っていた女子生徒が小走りになる。駆け寄った扉に手をかけた彼女は、間下へ視線を投げかけた。彼が頷く形で応えると、彼女は勢いよく扉を開け放った。少し冷えた空気が間下のうなじを過ぎていき、それと同時に籠っていた音も一気に飛び出した。

「ハッハア!」

 突入した途端、想像通りの声が響く。間下は自然と早足になり肩で扉を押し退けると、体育館に突入した。女子生徒は彼の背に隠れるようにして、共に中へと進む。早々に支えを失った鉄扉は重い音を立てて閉まった。扉は静かに閉めましょうというシールが貼られていたが、その音よりも遥かに大きなギターが第二体育館じゅうに轟いていて、間下にはほとんど気にならなかった。いや、気にする余裕もない、といった方が正しいだろうか。

 まず駆け込んだ間下の足にぶつかったのは、軽い感触。蹴飛ばしたそれを目で追うと、それは恐らく何かの衣装であった。くちゃくちゃに丸まってはいるが、服の形をしている。衣装が床を滑っていった先にはかつらもあった。

 次に彼の目に飛び込んできたのは、散乱する物品だ。箱をひっくり返されたかのような…いや、推察するに、本当にひっくり返されてしまったのだろう…それら雑多な小道具たちを収めていたはずの段ボール箱はステージの上、適当に積み上がって、軽音の演奏を賑やかしていた。舞台に必要な大道具だったであろう舞台美術たちもまたグシャリとひしゃげ、歪んで、もう間下の目にはただの大きめのゴミにしか映らない。積み上がったゴミの山と化していた。

 早蕨祭での公演のために用意されているのであろうそれら全ての物は、望まない形でステージに、体育館に、無惨に散らばっているのだった。

「酷いな」

 間下すらその惨状に思わず息を呑み、身を竦めるほどの光景だった。

「軽音」

 間下が奥歯を噛み締める。

「軽音!」

 エレキギターの音を破るように、大音声で喉を震わせる。ツカツカとすぐ側まで近づくと、ようやくそこで壇上の人物は間下を見た。

「ア?」

 瞬間、ハウリングに目を細めた間下を見下ろしたその顔が、無邪気に笑った。

「ファンボーイ!」

 手を高々挙げた彼女はしかし演奏を止める気はないらしく、スピーカーは変わらず爆音を流し続ける。直視できない眩さで彼女の姿を照らすスポットライト諸共、間下は睨めつけた。彼の後ろにいた女子生徒は、そそくさとステージとは反対側へ走っていった。見ると、演劇部員らしき生徒たちが、まるで照明に追いやられるようにして体育館の隅に固まっているようだった。うち何名かは間下と目が合うと、居た堪れなさそうに視線を逸らしたり、何度も頭を下げたりした。可哀想に、部長の顔は泣き腫らして赤くなっている。

 彼は忌々しそうに大きく息を吐いてから、手をつき壇上へとよじ登った。スタンドマイクの彼女に加え、ピアノの座面に着く背中と、ルーパーをいじるもう一人もやはりこちらを見ていた。間下にとっては嫌というほど見慣れた三人組だ。

「軽音楽部」

 スタンドマイクを無理やり切ると、ついに彼女はギターを止めた。

 本来であればセーラー服を身につけているはずの体は不敵にも学ランを羽織り、浅黄の透けた左眼には、肩を怒らせた間下が映っていた。

「ンだよ」

 彼女の月白髪が揺れる。

「ラブコールか、ファンボーイ?」

 やれやれと彼女が首を振る。迷惑そうというよりは照れくさそうであった。本気でそう思っていそうなのが彼女の恐ろしいところである。間下は何も言わず握ったままのスタンドマイクを舞台袖へと片づけた。

「オイ」

 生え揃っていない眉頭を彼女は持ち上げた。

「まだアンコールが残ってる」

丈夫ますらお

「ンだ、サイン?」

「そうだな、後で報告書に頼む」

「サインとかねーぜ、ニツキちゃん」

「丈夫」

 袖から舞台上へと帰ってきた間下が、言い聞かせるかのごとく語気を強める。

「お喋りはここまでだ。とにかく今すぐ片づけろ」

「ア?」

「ここは元々演劇部の活動場所だ。お前らのじゃない、分かるよな?」

「でも活動してねーもん」

 ニツキは嬉々として、丸くなって固まっている演劇部員を示す。彼女の視線を感じ取ったのか、部長がぎくりと肩をびくつかせていた。

「ほらな。いいじゃん」

「お前らのせいでできないんだろ、なんで分からねえかな」

「ずりーだろ、毎日ここ使いやがって。人少ねーくせに」

 どかりとあぐらをかいたニツキは、膝に頬杖をついた。

「おかしーよな、部室くれよ軽音楽部にもよ」

 ギターのベルトがずれて、彼女の太もも近くに横たわっていた。

「ああ、そーいや。オメーが根回ししたんだっけ、生徒会長」

「元を辿ればお前のせいだよ。活動場所も部室も、その他の何もかも全部」

 間下が頭を抱えた。

「この忙しい時になんで面倒を増やすかもう……ほら、さっさと撤収しろ」

「ヤダね」

 ニツキが舌をべと突き出した。

「許可は取ってんだぜ、なあ?」

 演劇部員に向かって言い放つ彼女には、悪びれる気など一切なかった。ニツキに倣ってそちらを振り返った間下がどういうことかと目線で問う。

「いきなり勝手に乗り込んで来て、それでステージ取られちゃったんです!」

「ヤなら抵抗すんだろ」

 びっと指を立て、ニツキが演劇部員らを見下ろす。

「オメーらはしなかった」

「だ、だって、私たちの物が…こんなにメチャクチャにされて……近づいたら何されるか分かんないし、怖くて!」

 彼女は弁明する間、怯えたように視線を泳がせていた。間下は手を挙げて、それ以上話さなくていいと合図を出した。これに関しては演劇部員が完全に正しい。

「はあ……まず丈夫。お前のそれは許可を取ったとは言わない」

「なんで? アイツらはここ使っていいかどうか訊いた時、なんも言わなかったぜ」

 ニツキは平然と頭の後ろに腕を組む。

「沈黙は了承。だろ?」

「違う。特に今回については、違う」

「へええ、そーなンか。じゃ何?」

「脅迫と侵略」

「いい響きだ」

 ニツキの指が、彼女の右眼の眼帯をいじった。

「ワクワクするな」

「どこがだ迷惑集団。どころかお前、こんなの社会に出てやろうもんなら犯罪だぞ。器物損壊、散々言ってるよな、一年の時から、ずっと!」

「音楽は自由さ。反発するのは抑圧するから。ほら、この星の物理はそーなんだろ。ニュートンだったか、りんごが言ったんだったか。作用反作用だっけ?」

「話を逸らすな」

「先に仕掛けてきたのはソッチだぜ。ニツキちゃんはあくまで反作用」

「とにかく。お前ら軽音はもう教室の借用はできねえの、教員相手だろうと生徒相手だろうと。してはいけないし、できねえの」

「ニツキちゃんたちは教室で収まるようなタマじゃねーってか?」

「あはは、言えてる」

「言えてない。茶々を入れるな世良!」

 ほとんど反射で間下はステージを振り向いた。歩いてきたのは、ジュラルミンケースを両手で抱えたセーラー服だった。機材を入れ終わったらしく、重たそうにしている。

「そうカッカしなさんなって、閣下」

 にこにことセラが言った。彼が男子高校生であることを知らなければ、本当に少女のようにしか見えない仕草だった。この悲劇の光景を生むのに加担している凶悪犯であることも忘れてはいけない。

「呑気なことを言うな、お前も反省文コースだからな」

「えーっ」

「今日は何時に帰れるのかな」

 ピアノの影から声がした。間下がマイクスタンドを片付けたのとは逆側の舞台袖に佇んでいた、最後の一人が近づいてくる。アリアだ。

「私は別に、帰れなくてもいいけど」

 つんとした鼻先は間下に向いていた。

「苦労するね、生徒会長も」

「おかげさまでな」

「そいえば、そっちのクラスでもテストあったんじゃない、政経。何点だった、間下くん?」

「満点」

「うん。さすが」

「アリアは?」

「知ってるでしょ、私が理系なの……まあでも、生まれた誤差は期末までには修正する」

「うん、そりゃ楽しみ…じゃなくて。今はそんなこと話してる場合じゃない。予習復習の前に反省文」

「任せて」

「そんなもん任せたいわけないでしょうが、きちんと反省しろ」

 そこで言葉を切った間下の目線はニツキへと向く。我関せずの顔でくつろいでいたらしい彼女が目を丸くして起き上がった。心底驚いているようだった。

「オイオイ、まさかニツキちゃんもかよ?」

「当然。なんで自分だけ逃げられると思ってんだ。首謀で主犯だろお前」

 体育館に備え付けのスピーカーがチャイムを鳴らした。おずおずと歩み寄ってきた演劇部員たちが、ステージの下から彼らを見つめる。

「あのう……そろそろ」

「ああ、そうだった。すぐに退くんで。ほら行くぞ軽音」

 間下は辺りを見渡して、ここの後片付けまでは手伝えそうにないなと考えた。先ほど鳴ったチャイムから察するに、次のチャイムが下校の時間を知らせるものとなる。演劇部員に手を貸していては、彼の仕事も滞ってしまうのは明白だった。疲労と悲壮を漂わせる彼らを気の毒に思いつつも、彼女ら三人をさっさと連れてこの場を離れることが最良だと判断した間下は、軽音楽部に目配せをして、第二体育館を後にすることにした。

「では、また何かあれば。機材や備品の破損等であれば、予算が下りると思います」

 間下の言葉に、演劇部の部長はただ頭を下げるばかりだった。

 大きな音を立てないよう、用心して扉を閉める。ニツキたちと歩く彼の耳に、くぐもったすすり泣きが聴こえてきた。

「ハッハア……かわいそうに」

「お前がやったんだろ!」

 ニツキが肩を揺らしたのを見た間下は怒りを露わにした。

「なんてことしてんだ、最低だぞ。人が手間と時間をかけて作ってきたものを台無しにするなんて!」

 演劇部員のいる手前、堪えていた彼の感情が爆発する。

「学校の物を壊すとか、教職員に手出すとか、それで自分たちだけが罰を受ける、それならまだいい。けどな。他の生徒を傷つけるのは本当に違うぞ、一線を越えてる!」

「テッペンの心を折るのが一番はえーんだもん。もっとやっても良かったんだが。何事もほどほどがいいっていうじゃん?」

 悪びれる様子など、ニツキにはこれっぽっちもない。

「最も効率が良く、穏便で、理性的な制圧だ」

「暴力のどこが理性的だってんだ、ふざけんな!」

「ちょちょ、閣下ストップストップ!」

 掴みかからん勢いの間下の剣幕に慌てたセラが二人の間を割る。

「にっちゃんも。煽らない。酷いことしたって自覚はあるんだから、ちゃんと誠意を見せないと。また停学だなんだって騒がれるよ」

「できねーことは言うもんじゃねーぜ、セラ」

「ほんとの停学にはならなくたって、そこまでの騒ぎが面倒じゃん。違う?」

「それはそう」

「なら一旦落ち着こう。今ボクらがすべきことは、黙って閣下に着いていくこと」

 セラの可憐な瞳が間下を捉えた。

「閣下も。校内でこれ以上の騒ぎを起こしたら、それこそ先生たちから大目玉だって。お説教なら生徒会室で聞くからさ。今は堪えて」

「異論なし。二人共、ここは廊下だよ。静かに歩く場所。喧嘩する場所じゃない」

 彼女の加勢に、ニツキは唇を尖らせた。セラとアリアがこの場を治めようとしていることに間下もまた何か言いたげであったが、奥歯を噛み締めて怒りを収めた。

「この件で大人が関与してきても、俺はお前らを庇いきれない。それだけは承知しといてくれ」

「オッケー」

「分かってる」

「軽く言うなよ……丈夫も。それでいいな?」

 ニツキは歯を見せたまま間下と目を合わせ、ふいと逸らす。

「沈黙は了承。はいはい、それで結構」

 間下が肩を落としたところで、四人は生徒会室を目指して再び進み始める。

「……演劇部の三年にしてみれば、早蕨祭が最後の舞台なんだ。一体どれだけ早くから準備して、どれだけのものを費やしたか」

 ふつふつと湧きあがる負の感情が再び暴走しないように冷静を努めつつ、間下は口にした。

「誰も踏み躙っていいものじゃない、決してな」

「へええ。軽音はよくて、演劇はダメと?」

 ニツキの声に棘はない。ただ素直に思ったことを言っているだけだ。だがそれが、間下の神経を逆撫でする。

「俺のせいにするなよ、自業自得以外の何ものでもないんだからな」

「自惚れんなよファンボーイ。誰もオメーのせいだなんて言ってねー、ニツキちゃんがやりたくてやったことだ、後悔もねー……が、オメーの言い分には綻びがあった。それを指摘しただけだ。正義の味方でいたいなら、そこら辺はハッキリしとけ」

「なんの話だ」

「何を守って、何を見捨てるのかって話だ」

「お前はまたそうやって煙に巻こうとして」

「取捨選択を見誤らないことだ、生徒会長」

「はは。過たず、か?」

 間下は両手を肩の高さまで挙げた。

「丈夫にだけは言われたくないな」

 嘲りの混じった間下の言葉に、ニツキの目がきょとんと見開かれた。職員室からは、相変わらず忙しそうな足音が響いてくる。

 ニツキは口をへの字にした。

「ンだそりゃ」

「古文は苦手だったか」

「知らね」

「世良に教えてもらったら」

「えっなんでボク?」

「古典の教師が褒めてた」

「あー、なべちんかあ」

「中間の成績も良かったらしいじゃん、負けてられないな」

「あはは、期末あんま自信ないけどねー」

 セラのひょこひょことした動きに合わせて、彼に似合わない銀色のケースが重い音を立てた。間下がポケットから鍵を取り出して、生徒会室の扉を開く。湿った空気がひんやりと足首をすり抜けていった。

「ジメジメしてンな」

 ニツキが口の端を引く。窓を細く開けたままにしていたことを、間下は密かに悔やんだ。彼が三人を先に入れようと押さえたドアを、ニツキは肩で乱暴にこじ開けた。大股の上履きでさっさと荷物を隅に投げ捨てると、ヒビの目立つ革張りソファへ勢いよく身を投げる。続いた二人も、ニツキの鞄に近い位置に自らのそれを置き、その場に立って間下の方を見た。お決まりの光景だ。間下は後ろ手に内鍵をかけて、窓を閉じがてら、コピー機に乗せたファイルを取り上げる。原稿用紙に、A4サイズの報告書。これもまたお決まりの面子だった。それを無造作に机に広げた間下は彼女らそれぞれに目線を飛ばした。

 アリアが挑発するように小首を傾げる。

「今日は何枚?」

「お前ね……」

 彼は腰に手を当てた。

「俺の身にもなってくれよ。なんで教員たちの言うこと聞かない…いや最悪それはいい…なんで、俺にはそれをしない?」

 口では愚痴を溢しつつも、用紙を配る彼の手際は非常に良かった。

「そのせいで教員たちもお前ら絡みのことは全部俺任せだ」

「ハッハア、良かったじゃねーか」

 間下が恨みのこもった目で睨んでも、ニツキはどこ吹く風だ。

「秩序とは。無秩序があって初めて成り立つ。生徒会長たるお前の自治能力が認められてんだ、胸張れよ」

「何言ってんだ。己の行いを正当化するな、反省しろ」

「へーへー」

 ニツキはつまらなさそうに両手を挙げた。セラとアリアも席に着く。

「セラぁ、鉛筆」

「はいはい、ご勝手に。かじんないでね」

「間下くん。追加で二枚くらい取って」

「アリアはなんでそんなやる気なの。はい」

「ありがとう」

「あ、ねえねえボクにも一枚」

「そっから好きに取って、何枚でも刷るから」

「そうやって女の子にだけ優しくして」

「関係ないって。はい、どうぞ。これでいいか?」

「ふふ、まあ及第点」

「やったね間下くん。平均点以下回避」

「取ったことねえけど」

「うわー嫌味」

「万年平均点のニツキも見習ってね」

「ア? いンだよあんなのそれなりで」

「いやいや、あればあるほどいいでしょ、あんなもん」

「ニツキちゃんの未来には必要ねー」

「ま、赤点とかじゃないだけマシか」

「だろ。自分に何が要るかなンて分かりきってら」

「あはは、かっこいー」

 惰性に弾む会話の中に、黒鉛が紙の上を滑る音が混じる。雨足の強まる夕暮れに、各々が机に向かって、各々の作業をしていた。うち三人は、本来であれば居なくてもいいはずの生徒会室にて、書かなくても済むはずの反省文を書いているだけなのだが。

「そーいえばさ、理系も進路の紙のやつ、やった?」

「あったよ」

「アリアちゃんはなんて書いた?」

「進学」

「いいねいいね、学力で?」

「もちろん学力で。できれば、だけどね」

「うーん、お母さんに言うにはちょっと早いか」

「そう。向こうはどうせ海外行けって言うだろうし、もう言い合いになるの目に見えてるっていうか」

「声楽は確かにそうだよね、ヨーロッパの方の学校ってイメージ」

「学校もあるけど、母親が勧めてくるのは弟子入りみたいな感じが近いかな。つきっきりで先生に見てもらうの。マンツーマン」

「うわ本格的。厳しそー」

「厳しいよ。実力も将来も約束されてるからね。その分、厳しい」

「そっかそっかー。アリアちゃんが息をしたい場所で息が吸えるように、応援してるね!」

「うん、ありがと。セラはなんて書いたの?」

「とりあえず絶縁って書いといた」

「進路、それ?」

「目指す先ではあるからいいかなって」

「なんというか、次の面談で詰められそうだね」

「ねー。でも家業はぜっっったい継げないし継ぎたくないしあっちも継がせたくないから、そこはまだいけると思うんだよね、意見が一緒だから。折り合いつけられる」

「……そっか。まあ、どうあれセラの好きにした方がいいよ、本当に」

「うん、ありがとー」

「ニツキは書いたの?」

「いや、絶対ないっしょ。クラス行かないんだし」

 アリアとセラの視線を受けても、ニツキはそれには応えなかった。二人もそれは織り込み済みらしく、アリアは反省文の続きに、セラはさっさと興味を他へ移した。

「閣下は国公立だよね」

「え、俺?」

 興味を移された先、アリアの向かい、セラの対角に座っていた間下が眉を上げる。

「漠然とだけどそう書いといたよ」

「あー予備校行ってんだっけ、偉いねー」

「偉いというか、親が行かせてくれてるからね。せめてその分は将来返せるようにしたい」

「孝行息子だ。あはは、親御さんも嬉しいんじゃない?」

「どうかな、当然のことみたいにしか言わないし」

「当たり前のことを当たり前にできるようにするのが教育だよ。熱心な親御さんなんだね」

「……そう。かも?」

 何故か褒められたことを素直に受け取れず、間下自身もその違和感に表情を硬くした。突然のだったからだろうと納得しようとしたが、それでもしっくりこなかった。

「ダシタは」

 言葉尻を上げて、問うかのごとく、ニツキの声がぼそりと聞こえた。他の三人とは離れてソファに身を預けているギターのような声は椿の葉を打つ雨と相性が良かった。

「ダシタは何がしてーの」

 彼女は紙面から目を逸らさず、鉛筆を握ったまま間下に訊いた。セラとは違い、妙に真剣な雰囲気を纏っていた。間下のキーボードを叩く指が止まる。

「だから進学。聞こえてたろ」

「……」

「おい?」

 ニツキは黙り込んで、目を伏せていた。白い睫毛が彼女の肌に影を落とした。静かにしていれば少しは魅力もあるのにと思った間下だったが、この横暴極まりない彼女が静かだとそれはそれで薄寒くもあった。

「……ふーん」

 至極どうでも良さげにニツキが息を抜いた。覇気のない反応が、これまた彼女にしては奇妙だった。嵐の前の静けさでなければいいが。間下は眉間に力を込めつつも、パソコンの画面に向き直る。

「あ、そういえば。うちのクラス模擬店になったの」

「早蕨祭?」

 話題を大きく変えたアリアに、隣のセラが明るく返す。

「でも二年って校庭使えないよね?」

「うん。だから教室半分に分けて、片方は実験コーナーみたいなの作って、片方で科学に関係するグッズみたいなの売ろうかってなってさ。ほら、うちって科学部多いからさ」

「えーいいじゃん!」

 彼は目を輝かせた。

「スライムやりたいスライム。ボクあれ好き」

「そういう意見嬉しいかも。他にもあれば聞いときたい」

「なんだろー、あんま分かんないな。液体窒素とか?」

「こらこらこら、だめだめだめ。何言ってんの」

 文系の危険な発想に、間下も口を挟まずにはいられない。

「顧問のいる部活動がそれで理科室使うとかならまだしも、一クラスにそんなことさせられない」

「えー好きなのにな、ゴム凍らしてパキパキするやつ」

「マジ諦めて」

「うーん、セラ、それは流石にクラスの人が同じこと言ったとしても、科学部が止めると思うから。ごめんね」

「あそんな危ない感じなんだあれ?」

「なんというか。取り扱いに注意しないといけない物質だから。セラの方は決まった?」

「んー、最初はお化け屋敷やろうって盛り上がってたけど。どうせ二年て大きいハコもらえないじゃん?」

「そうだね」

「んで、人力コーヒーカップが良いんじゃないってなってー」

「人力コーヒーカップ!?」

「あーはは、安心して閣下、本気じゃないから。そもそも文系ばっかで設計とかできないし、その案はすぐに無くなった」

「セラのクラスは結構難航してるんだね」

「そうかも。国際系目指し組もいっぱいいるから面白い案自体はいっぱい出せるんだけど、実際にできるかっていうとうーんみたいなのが多くてさ」

「ああ、ありがちだな」

「間下くんのクラスもあんまり決まってない?」

「いや、うちは劇やるってことで決定したよ」

「へーお芝居? 教室で? 狭くない?」

「あ、でもそのくらいの方がいいかもね。規模とか準備とか考えるとそのくらいで」

「んーまあ確かに。お話は何やんの?」

「そこまではまだ」

「オリジナル?」

「いやあ、既存のおとぎ話とかだろうな。あくまで文化祭の出し物であって、高校演劇とかじゃないし」

「あーそうなんだ、よく分かんないや」

「間下くんの中には何かもうプランがあるんだね」

「そうだな、どうせなら、観た人を考えさせられるような劇をやりたいな」

「童話で?」

「子供向けに編集されてないやつって意外と残酷っていうか、割と無慈悲だったりするから」

「あー。グリムとか?」

「そうそう、アンデルセンとか」

「ふーん、なんかああいうのって説法くさくってなー」

「子供に対する意識の戒めみたいなもんだしな、しょうがない」

「頑張ってね」

「なんで俺を見るの」

「どうせ間下くんでしょ、監督」

「監督って……そんな大したもんじゃないよ、今年は他の子が結構手伝ってくれてるし」

「あれ、つかアリアちゃんって実行委員じゃなかった?」

「そう」

「ああ、そういえばそうだ」

 間下は名簿を取り出して、アリアの名前を確認した。

「じゃアリアも頑張んなきゃじゃん」

「どうかな。私は間下くんほど大変じゃないから」

「そういう問題じゃないだろ」

「つか閣下と比べちゃったらさー、全校生徒が閣下より大変じゃないってことになるでしょ」

「……まあ、そうだね。じゃあ間下くん、お互い頑張ろう」

「あーうんうんそのくらいが良いよ絶対」

「そもそもアリアは学校外の活動が大変だもんな」

「思い出させないで。憂鬱」

「うわごめん」

「あはは、閣下が地雷踏んだ」

 クラスの出し物についてニツキが何か言い出すんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていた間下だったが、彼女が特別何をするでもなくソファに腰掛けているままなのを見て、そっと胸を撫で下ろす。まるきり興味が無いのだろうか、ちっともこちらに気配を飛ばしてこない。面倒ごとに喜び勇んで足を踏み入れていきそうな印象を持っていた間下にとって、これはかすかに意外であった。

 その時、机に伏せていたスマホに通知が届いた。

「あれ、ボクんじゃないや。アリアちゃん?」

「違うかな、通知切ってるから」

 二人の視線が自然と間下に向く。彼は小首を傾げて画面を確認した。四天王寺からだった。

「大事な用?」

「いや……クラスメイト。実行委員の」

「間下くんのとこっていうと、四天王寺さんか」

「うへへ、けったいな名前!」

「駄目だよセラ、人の苗字は簡単に変えられないんだから」

「ごめんごめん笑い事じゃないね。ちょっと私怨こもってたかも。女の子?」

「うん、二年のまとめ役だよ、四天王寺さん。委員会でいつも一生懸命」

「へー忙しそ。閣下の類友ってやつ?」

「急ぎなら行ってきなよ。私たちここにいるから」

「いやだめだろ。軽音がいよいよ生徒会まで乗っ取ったって言われんぞ」

「あはは、いいじゃんそれ」

「よくない」

 間下の眉が吊り上がる。

「これ以上お前らの悪名が轟いてたまるか、俺はここにいる」

「えーっ。閣下が行ってる隙にお菓子買ってこようと思ってたのに!」

「悪事の程度かわいっ……グミあげるからそれで我慢して」

「いーよ」

「変わり身はや」

「ふふふ。セラと間下くんって、思ってたよりも仲良しさんなんだね」

「体育で一緒だからねー」

「うちは男子が奇数人だから、世良が余ってる俺と組んでくれてるんだよ」

「いえーい」

 セラがVサインをしてみせる。間下は自身の発言の中に、毎度のようにちょっかいをかけてくるセラへの皮肉も混じえたのだが、それが正しく効果を発揮したのかは定かではなかった。この調子だと空振ったのだろう。

「ぶどう味だ」

 平気な顔してグミを頬張っているところを見ると。

 間下が見切りをつけてため息をつく。

「返信」

 アリアが黒目がちな瞳で彼を見る。

「しなくていいの?」

「忘れてた。行けないって言っとかないと」

「いーのに、ボクらのことなんてほっといてくれて」

「そうそう。逃げも隠れもしないよ。せっかくの帰れないチャンス、無駄にはしない」

「一つ言わせて。ここ、生徒会室。俺、生徒会長。鍵を預かってる以上、俺がいない状況でここが解錠された状態なのはだめなことなの。あと、帰れないことはラッキーなことじゃねーのよアリア」

「ううん。私にとっては最高のラッキー」

「閣下、一つって言ったくせに言いたいこと多くない」

 セラがグミの袋のジッパーをなぞった。

「つかやばいこれ美味しい。食べちゃうから返す」

「いいよ食いきっちゃっても」

「まじー? 怒んない?」

「怒らない怒らない」

「わーい閣下大好き」

 彼が笑うと幼い顔立ちがより強調され、セラに対して可愛らしいという感想が湧きかける。しかし、そんな間下の脳裏に体育の授業での彼の姿が思い起こされて、抱きかけた愛おしさは消え失せた。間下よりも長身のセラは、その体格に加え高い身体能力と器用さを以て毎回かなりの大暴れをするのだ。ゲームブレイカーとでも呼ぶべきか、セラのいる方が勝つ、という評価が本当に正しいくらいに。

「……」

 年相応の会話に花を咲かせる三人を尻目に、ニツキがいきなり立ち上がる。それから、彼らの座る机を通り過ぎ、無言で生徒会室を出ていこうとした。

「丈夫!」

 間下の呼びかけを無視した彼女は、丸まった学ランをばさりと広げ、肩へと掛けた。

 首だけを振り向かせ、アリアも尋ねる。

「ニツキ。トイレ?」

 しかし問われた彼女はやはり、答えなかった。一度は止まりかけた足を再び進め、ニツキは生徒会室のノブを乱暴に引く。

 蝶番が軋み、ばたりと扉が閉まった。

「行っちゃった」

 アリアは事実確認をするように、抑揚なく言った。

 と同時に間下が背もたれに寄りかかり、ゆっくりと天井を仰ぐ。普段気にする機会の少ない頭上には埃が溜まっているようだった。年末には掃除しなくてはと思った。

「嫌な予感がする……」

「むべ山風を」

「え?」

 頬杖をついていたセラが呟いた。間下が身を乗り出すも、彼は意味ありげに目配せをするのみだった。それは間下の鞄から頭を覗かせている、折りたたみ傘に向けられていた。

「ま、あれは秋の話なんだけどね……どんなに優れた傘でも、風が吹けばお釈迦…ってうわ」

 話が読めないという表情のアリアと間下をよそに、グミの最後の一粒を口に放り込む。

「あはは、説話くさくてやだわ今の。忘れて」

 セラの指が窓を示した。間下がそれに倣って振り返ると、外は暗くなっていた。日没ではなく、雨雲が発達したせいだった。帰路に着く生徒たちの色とりどりの傘に、吹きつける水飛沫。窓ガラスにも土砂降りは襲来し、視界が悪くなっている。彼は今朝、本革のローファーを留守番にさせた自身の判断に心の中で賛辞を贈った。

「壊れないといいね」

 アリアがじっと、間下の鞄を見つめる。折りたたみ傘の持ち手は変わらず、自分を使えと言わんばかりに頭を出していた。

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