永久の彼女


「華子」


 このあぜ道はあの日のままだ。ただ子猫の死体が無いだけ。覆い被せる新聞紙も無いだけ。


「ねえ華子ってば」


 話しかけられても無視だ。だってこれは未來じゃない。未來のフリをした粗悪なまがい物だ。そうだ、だから、殺さなきゃならないらしい。

 私が未來の死体を殺さなきゃならない、らしい。


「……ねえ、もしかして好きだったの、あたしだけ?」


 彼女には似合わない、不安そうな声色。答えない。じゃ、じゃ、と土を踏み締める音だけが響く。草の香りがする。冬の痛々しい風が指先をじりじりと冷やす。後ろを歩く死体の足音が空気中に薄く広がっては飽和して、肺の中まで侵食してくるような物悲しさが鬱陶しい。


「それでもいいよ、愛してるから」


 もちろん、今だって。付け加えるようにそう呟かれて、余計黙った。 これに絆されてはいけないと、あの家を出る前にも竹次さんに散々言われた。それを死体は聞いていたはずだ。だから、信じちゃいけない。俯いたまま歩みを進めた。


「ねえ、あたし、華子がうらやましかったんだ。華子は素直で優しくて、大人の言う事ちゃんと聞けてさ」


 そんなことを言いながら、死体は木々の隙間を掻い潜る私の後を着いてくる。 ぼんやりと陽の光が薄れていって夜は来る。つやつやとした彼女の髪が見なくとも脳裏に浮かんで、思わず目を伏せた。


「それでちゃんと、あたしのこと見ててくれたから」


 私は、表面的には優等生な彼女の漏らす愚痴と、まっすぐでありながらどこか皮肉った言い方が好きだった。そんな彼女が私を見て笑うときの柔らかな瞳が好きだった。


 だからきっと、止まれなかったんだろう。


「私は大人に媚びない未來が好きだった」


 そう、思わず本音を漏らしてしまって。


「あはは、そーなの? じゃあお互い様だね」


 そう言って未來は笑った。紛れもなく未來の笑顔だった。からっとしていて、その美人さがよく映える笑み。ここにきて死体が彼女に見えるなんて、最悪だ。もう二度とあの頃には戻れないというのに。彼女のあたたかさはもうどこにもないのに。


 ぐちゃぐちゃになった心を抑え込みながら歩みを進めていたら、気がつけば未來が前を歩いていた。




 進めば進むほどだんだんと道は開けてくる。木はまばらになってきて、少しずつ道幅が広くなって。


「華子」


 そこで未來は立ち止まる。墓前だった。一つだけ、灰色の墓石がぽつんと建っている。この中にはきっと何も入っていないのだろう。きっと目の前にいる彼女はここから抜け出してきたのだ。私なんかを探すために。私と死ぬために。



 でも、私はそんな彼女を殺さなくてはならない。


 ただ彼女が私を見ている。 まるで世界で二人きりみたいな感覚に陥りそうになるけれど、私はもう大人になってしまった。純粋には想えない。それでも彼女はまっすぐに私を見つめて。


「愛してる」


 澄んだ声。途端、ごーん、ごーん、と鳴り響く、十八時の鐘の音。ああ、終わっちゃうみたいだ。私達の時間はいつもそこまでだった。健全な学生二人はいつだって門限を守るから。


 でも今は、そうじゃない。健全なんかじゃないし、もう、まともじゃない。もう少しだけ許してほしいと願うだけ。きっと叶わないと分かっていながらも、名残惜しく。


「……そっか」


 その首に手を添える。このままじゃ力が入らない、と分かってそのまま死体を押し倒す。ふわ、っと広がる彼女の髪、もう香りのないその身体。未來は何もかも受け入れるように、薄く微笑んでいるから。


 どうして。そんな言葉、抑えようとした。それなのに私の口から溢れだしたのは紛うことなき汚い本音で。


「なんで、私以外にこんな傷作られてるわけ」


 突き動かされる。


「なんで私以外に殺されたわけ」


 自分勝手だと分かっている。


「なんで私以外に優しくしたわけ」


 彼女はそういう人だと、分かっている。


「なんで、……なんで」


 溢れ出る自己嫌悪に殺されそうになりながら、最後の言葉を吐いて。


「……なんで、私を好きになったわけ……」


 絞り出したら、精一杯力を込めていたはずの腕が、緩んだ。



「華子だからだよ」


 掠れた声が私の名前を口に出す。けほ、と咳き込んだ後、続く言葉。


「あたしのこと一番知ってて、完璧じゃないあたしのことだって好きでいてくれるでしょ?」


 満点の笑みを浮かべて、言う。ああもう、本当にずるいよ。込み上げてくるものを抑える。そうして精一杯のしかめっ面を作って、意地を張って。もう後戻りできないなら、せめて。


「そういう自信過剰なとこ嫌い」


 吐き捨ててみた。彼女はちっとも揺らがず、むしろ嬉しそうに言う。


「嘘だ、好きなくせに」


 そうだよ、好きだよ。どうしようもなく好きだったよ。禁忌を犯してもいいと思ってしまうくらいには。未來とだったらどんな罰だって受け入れられると、そう信じていたのに。覚悟していたのに。


 私は、臆病だった。



「――――できない」


 手が震えて、力が抜けていく。 そして、自然と解けた。


「できないよ、未來」


 目の前の彼女は目を細める。そうして、はは、と笑って、私の頬に手を伸ばした。触れたその指はやっぱり冷たくて、体が強張る。


「華子ってほんと馬鹿だよね、あたしがいないとなんにもできなくてさ」


 馬鹿にしたような口ぶり。私はいつも未來には敵わなかったな、と思い出す。きっとそれは本当のことだ。私は彼女がいないと何もできない。


「でもさ、あたしはただの死体だよ」


 ざっくりと、自らの傷口をさらに深く切り裂くように。もう取り返しがつかないからと諦めるように。私のものだった諦念を彼女も噛んで、どうしようもないねって笑い合うような日々はもうどこにもない。


「だから、もう一回くらい殺したって、変わんないよ」


 気付けばその完璧な微笑みは、引きつった笑みに変わっていた。彼女の欠点はただ一つ、嘘が下手なところだったな、とまた思い出す。


 彼女だって怖いんだ。


 陽はとっくの昔に落ちている。はっきりと輝く月明かりだけが私達を照らし、彼女の輪郭を明瞭に映し出す。その滑らかな肌も、雨上がりの土の上に広がった色素の薄い髪も、こんなにはっきりしているのに生きていない。溢れ出そうになったものを喉の奥に呑み込んで、彼女を見つめる。また、からっとした笑み。


「橘未來の死体を殺すのは、釣鐘華子じゃなきゃだめだから、ね?」


 彼女の手が私の頬を撫でた。確かに恋人へと向けた愛おしそうな目線。その瞳は潤んでいて、 死体とは思えないほど美しい。

 ああ、彼女は最後の最後まで、私の世話を焼いてばっかりだ。


「ねえ、だからあたしを殺して、華子」


 かこ、と。もう一度私を呼ぶ。そのころころした響きが好きだった。彼女が呼べば私は随分と大層な存在だと思えた気がした。その声が、性格が、顔が、そして橘未來という存在が、どうしようもないくらい好きだった。


 その存在には逆らえないほど、愛しているから。


 彼女が――――彼女の死体が、言うのなら。


 ぐ、と力を込める。彼女の表情が歪む。目を瞑って、見ないようにして、思い切りその細い首を絞めて。ごめんね、ごめんねと頭の中で反芻しながら。愛しているなんてそんな薄っぺらな言葉じゃどうしようもなくて、ただ、間違えてしまった私にできることなんてこれくらいしかない。


 眠る時にはいつだって彼女の微笑があった。あったはずなのに、いつしか思い出せなくなって、おぼろげになって。


 いつしか自分が傷つかないように忘れてしまったのも、きっと私の間違いだ。

 ごめんね、未來。


 ごめんなさい。


 ふと、かくん、と。力を入れていたものがなくなる感覚。目を開ける。彼女は、彼女の死体はもうどこにもなかった。土に塗れた膝が私を嗤っている。ぼんやりと赤くなった掌だけが彼女の遺物だ。


「……もう、本当に、いなくなっちゃったんだね」


 声に出せば湿っぽい口調が余計虚しくて、それ以上はやめた。ここには何もない。墓の中に彼女はいるのだろうか? そうは思えなくて空を見上げる。顔を出したばかりの月が、痛いほどに綺麗だった。あれが彼女なのではないか。そう思えば私達、少しは救われるかもな。


 そんな淡い感傷。自らの冷めていく体を抱きながらゆっくりと立ち上がる。そうしてズボンの砂や土を払って、ぱらぱらと散っていく粒を見た。これが死体の欠片だったらよかったのに。考えるのをやめて歩き出す。鬱蒼とした木々の隙間を縫うように歩けば、またあのあぜ道に帰ってきた。


 本当に死体は彼女じゃなかったのか? なんて。そんな思考は消してしまおう。疑うべきではない。死体は彼女ではないから。彼女は永久の死体ではあっても、死体は永久の彼女ではないから。


 だから、さよなら。踏み締めたあぜ道からは、この寒さに似合わぬ夏草の香りがした。

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死体ノットイコール彼女 冷田かるぼ @meimumei

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