まがい物は死体

 電車に揺られて二時間弱。車窓から見える景色は田畑や林、木造建築の家屋ばかり。私はこの辺鄙な村が嫌いだった。でも逃げ出す勇気はちっともなくて、大学進学をきっかけに一人暮らしをする、という口実でしか抜け出せなかった。


 がたん、と車体が揺れる。この辺は野山が多いからか良く揺れる場所だ。もうしばらくしたらあの村に着く。


「久しぶりだったなー、電車」


 ぽつり、と死体は隣で呟いた。背もたれに思い切り体重を預けて。ここまでだらしない格好をしているが、どうやら彼女は他の人には見えていないらしい、と電車に乗る際分かった。そのせいで明らかに駅員が視認していなかったため彼女は無賃乗車になっているのだが……死体だからいい、ということにしておくか。


 それにしても流石に気が抜けすぎている。 そんな姿勢じゃスカートにしわが……いや、じゃなくて。


「久しぶり、って、私の家に来る時どうしたの」

「歩いたよ」


 電車で二時間弱の道を、歩いて? いや、まさか。さすがにそんなわけがないだろう。どうしてそこまでして……とか言いたいことはたくさんあったが、一応訊いてみる。


「どれくらいかかったの」

「うーん、二日くらいかなあ。覚えてないや」


 平然と言うので言葉を失った。おそらく本当なんだろう。 人間じゃないから、とかそういう話ではなくなっている。どう言葉を続けていいかわからなくなって、うん、もう何も言わないことにしよう。ため息をついて、この話はやめにした。


 また車窓からの景色を見る。ガラスに反射した自分の顔はあの頃よりもっと薄くなっているような気がした。 さっとシャワーを浴びてきただけだから化粧はしていない。そのままの私がここにいる。少し、不快だ。


 綺麗でもないし、だからといって醜いと口に出して言えるほどでもない、普通の顔面。高校一年生の頃纏っていたであろう禁忌の甘さはもう残っていない。


 隣を見ればあの日のままの彼女がいる。ああ、本当に似ている――――なんてぼんやりと眺めていると急に立ち上がった。どうやら電車が停止するらしい。もう着いたみたいだ。余韻のような揺れが残った後、緩やかに止まる。


 しゅう、と扉が開いた。他の誰もここでは降りないらしい。私達だけが立ち上がり、車両から出る。


「行こっか」


 巻き直された死体のマフラーが揺れた。




 足を踏み出すたび、さく、さく、と砂の音がする。

 この道を通るのはだいたい二年ぶりだ。大学生になってからは一度も帰省していない。というか、しようとも思えなかった。それは今思えば田舎のこの村が嫌いだからというだけでなく、未來のことを思い出したくなかったからなのかもしれない。


 久しぶりに踏むあぜ道はあの日と違ってからっとしている。電車が来る時間の都合上、もう昼だ。太陽の光は夏ほど刺してこなくて、穏やかに降り注いでいる。


「静かだねえ」


 歩きながら死体は言った。小中学生たちは今頃学校で楽しく過ごしているような時間だろう。村には高校がないから、たぶんこの時間は高校生だって一人もいない。農家の人たちもお昼を食べているような時間だからか、どこにもいない。と、思っていたのだが。


「あれ」


 道の向かいで白髪の混じったおじさんが手を振っている。どこかで見覚えがあるな、と思いつつも誰だったかは思い出せない。


「あ」


 死体が声を漏らす。知り合いだろうか。彼はこちらに歩み寄ってきて、微笑んだ。


「よう帰ってきたね」


 緩い方言で声をかけられる。誰だろう、と思っていると彼は続けた。


「釣鐘さんちの娘さんやろ? 華子ちゃん、やったけ」


 そこでようやく思い出した、未來の祖父だ。確か橘竹次たけじさん、だっけ。七十代にしては若々しく凛々しさも残っていて、若い頃はきっと未來によく似て美青年だったのだろうと思う。


「久しぶりやねぇ、身長もよう伸びよって」

「本当にお久しぶりです」


 ついさっきまで忘れてしまっていました、すみません、と心の中で謝る。未來がいなくなってからはほとんど会う機会がなかったし、仕方ないといえば仕方ないのだけれど。


「おじいちゃん」


 隣から死体が声を発した。その瞬間、竹次さんがそれを睨んだ。

 ――――気付いている。

 電車に乗っているとき、誰も死体に気付いている様子はなかった。おそらく私は独り言がひどいおかしな人だと思われたことだろう。

 でもこの人は気付いた。どうして、とか思うよりも早く。


「説明は後でするけん、一旦うち上がりな」


 真剣な声色で言われたので、断りようがなかった。




「急にごめんな、お菓子とかないわ……これで勘弁して」


 綺麗に保たれた日本家屋。こぢんまりとしていて、いかにも祖父母の家、といった感じだ。


 座って炬燵に入ると、差し出されたのはバニラバーだった。冬なのに、アイス。確かこれ、未來が小さい頃から好きだったやつだ。バニラアイスが本当に好きで、彼女の家の冷凍庫はそればっかりだったっけ。この人も彼女のことをまだ忘れられずにいるんだろう、となんとなく思った。


 アイスを一口齧れば、口内に響く冷たさ。死体はどうしていいか分からないのだろうか、ただその場に立っている。


「お前はそこに座っとき」


 お前、と。部屋の隅を指差して、竹次さんは言った。未來を一番可愛がっていたのはこの人だったのに、やっぱりこの人もこれが未來の死体だなんて信じたくないのだろうか。


 そうだとしたら同じだな。血縁があるわけでもないのに信じられないと思ってしまうのは、やはり過ごした時間の長さゆえだろうか。

 死体は大人しく隅に座り、複雑そうな顔で膝を抱えた。


「気にせんでいいとよ、くつろいでな」


 竹次さんは私に優しく微笑んで言った。少し気まずくはあるけれどお言葉に甘えて足を崩す。しっくりくる姿勢を模索して、結局は横座りに落ち着いた。出された熱い緑茶を啜れば、濃い深みのある香り。思わず息をつく。


「そいつ、やっぱ華子ちゃんとこに行ったんやな。……もうあれから、五年やし」


 五年、か。口に出されると改めて長さを実感した。初々しい高校一年生だった私ももう大学二年生だし。あの日のことはなるべく思い出さないようにしてきたけれど、ここまで来てしまったのだからどうしようもない。


「華子ちゃんも、見たやろ」


 竹次さんはまっすぐ私の方を見て言う。見た――――多分それは、未來が死ぬところのことだろう。一番思い出したくなかった記憶。それでも一度引っ張り出したそれは既に私の直ぐ側に転がっている。目をやるとやっぱり、気持ち悪いくらいに鮮明だった。



 あの日はぼうっとしていたのだ、たぶん。一人で帰る時、私は道なんて何も考えないで歩く癖がある。最終的にたどり着けばいいや、みたいな諦念。だからあの日も適当に歩いていた。そうしたら、気がつけば周りは家とは全く反対方向の住宅街にいたのだ。


 まあ、いっか。方向くらいは分かるし、ここからだって帰ろうと思えば帰れる。


 そう思って方向転換しようとしたその時。普段は開いていない、立派な日本家屋の門が開いていることに気付いた。確か、この辺りで最も地位が高いと言ってもいい神主の家だ。家であり、社だ。


 ここが開いているのは祭りの時くらいなものなのに。なんでだろう。簾がかかっていて中は見えない。気になるな、と。つい入ってみたくなって。幼い好奇心が自らの首を絞めた。今となってはそう言わざるを得ない。



 恐る恐る簾をくぐると、中にはびっくりするくらい多くの人がいた。村の老人たちだけでなく、老若男女揃っている。村人たちが大勢集まる中庭の中央に、それは居た。


 意地の悪い顔をした神官と、手足を縛られ、口を封じられた未來だった。


 ひゅ、と息が漏れた。心臓がばくばく言い始めた。もしかして、バレたのか。私はそこでようやくそんな思考に至ったのだ。遅かった。全てが遅かった。


 村人は息を呑んで様子を見守っている。それを一瞥して神官は未來の首に縄をかける。未來は逃げようとするものの、縛られているせいでどうしようもない。


「さあさあ、大罪人の処罰でございます!」


 その細い目に映るは恍惚。そのままその腕にぐい、っと力が込められ、神官は彼女の首を絞める。その顔の色が変わっていく。彼女は藻掻く。待って、と言うこともできない。声が出ない。瞬間、彼女の眼が私を見た。


 たすけて。


 彼女がそう言ったような気がした。それなのに私は腰を抜かして動けなくなって、全部が終わったであろう時にはもう遅くて。臆病な私は何もできないまま逃げ帰った。だから、私は、本当に見ていただけ。



 そこで記憶の再生が終わる。現実に引き戻される。私は、息ができなくなっていた。


 吸えない。呼吸ができない。は、とか、す、とか、そういう浅い音だけしか出ない。竹次さんは私の背をさすって、落ち着かせようとしてくれた。


 ダメだ。これ以上は思い出したら、ダメだ。深呼吸をしようとして、吸えないのに吐きすぎて、ひゅっ、と喉が鳴る。


「大丈夫。落ち着き」


 ああ、この人の言葉は未來に似ている。喋り方とかそういうのじゃなくて、もっと根本的なものが。そう思えば余計に苦しくなって、涙がぼろぼろ溢れ出てきた。違う。泣きたいわけじゃない。泣くべきじゃない。分かっているのに止まらない。


 私が、悪いから。私が拒んでいればこんなことにはならなかった。隠し切るなんて無理だ。もっとちゃんと彼女を止めていればよかった。彼女を、未來を。


 未來を。


 無意識に目線をやった先、部屋の隅で。死体が心配そうな目で私を見ていた。――――違う、私は彼女にそんな顔をさせたかったんじゃない。私は。


「華子ちゃん、大丈夫」


 深呼吸しな。そう言われて、深く息を吸って、吐いた。そうすればさっきよりは落ち着いたような気がして、安堵する。


「そういやお昼はもう食べたん? ごめんな、アイスより先に聞かんとやったね。あったかいもん食べて落ち着いたがいいわ。鍋持ってくるから待っとき」


 返事をする余裕もなく、竹次さんは立ち上がって台所の方へ向かっていった。アイスの後に、鍋。せっかく出してくれるというのだから文句を言いたいわけではないのだが、それはそれとして複雑な感覚になるのは否めない。


 チチチチチ、とコンロの火がつく音。たぶん温めているんだろう。立ち上がって手伝いに行こうかとも思ったけれどそうすることもできず、ただぼうっと待っている。


 しばらくそうしていると、ぐつぐつ音を立てる鍋が目の前に運ばれてきた。


「ごめんなあ、気が利かんで」


 そんなことを言いながら竹次さんはお椀に具をついで手渡してくれた。バニラアイスの後にはミスマッチな塩鍋。この辺でとれた野菜がたっぷり使われているのだろう、私の実家でもよく鍋は出た。なんなら冬の夕飯は二日に一回鍋、というくらい鍋だった。懐かしいな、と思いながら具の取り分けられたお椀を眺める。


 橘家のご飯。薄味で健康的、野菜たっぷり。そういや未來はこういうのが好きだったな、とまた思う。だからファストフード店なんかにもほとんど行かなかった。 行くとしたら定食系だし、一汁三菜じゃないと納得がいかない、みたいなタイプだった。やっぱり、すごく懐かしい。実家じゃないのに実家みたいな気持ちだ。


 あたたかい汁を口に運べば、疲れ切った身体によく染みる。少し痛いほどに。 箸を手にとっていただきます、と呟いた。




 しばらく、ぽつりぽつりと私の大学生活のことや村の近況なんかの世間話が続く。あえて逸らされた未來の話題がどうしても避けられなくなってきた頃、ようやく竹次さんは申し訳無さそうに口を開いた。


「未來は、神隠しに遭ったってことになっとるよな」


 彼は隅にいる死体に少し目をやり、戻した。 こくりと頷くと、竹次さんはうすくため息をついて続ける。


「俺達もそう思っとった方が気が楽やけんね」


 また頷いて、鍋の汁を口に含んだ。相も変わらず薄い塩の味が喉の奥を通過していく。部屋の隅で私を見つめているであろう死体の視線らしきものが背中に突き刺さって、少し、しんどかった。ここで振り向いたらまた取り乱してしまう気がして、そのままの姿勢を保つ。


「周りはあれが罰やと思っとるけど、あれは罰やなくてな……儀式、ってのが正しいな。あれは永遠に関わる儀式やと。あいつも"それ"目当てやと思う。罪とか罰とか祟りとか、あいつは何も考えとらん」


 儀式。あまりにも胡散臭い、私の嫌いな宗教の。しかしあの死体を見てしまっては切り捨てることもできない。――――永遠、というものに人は惹かれてしまうものだ。恐らくあの細目の神官もそうだったのだろう。 そうだとして許せるとかそういうことでもないが。眉間に皺が寄っているのを自分でも感じながら話を呑み込もうとしていると、彼もまた苦しそうに言う。


「昔俺も、見たことあるんよ。禁忌を犯してあのでっかい門の奥に吊るされとった。その後もう一人、……恋人やったんやろね、五年後に失踪したわ。死体が墓から消えたのも丁度その時期やった。きっと心中したんやと思う。……いい子たちやった。近所の気の良い姉ちゃんたちやったのに」


 竹次さんは、今度はより深くため息をついた。きっと苦しい思いをしたのだろうな、となんとなく思う。二度もあんなものを目にして、 しかも両方よく知る人で。永遠になった死体が、愛した人を死へ誘う。彼はそれをどう見ていたのだろうか。


「やりきれんわ、本当に」


 そう言って彼は顎の薄髭を撫でた。深くため息をついて、口元へお椀を運ぶ。


「華子ちゃんは、それに絆されんようにしなね」


 死体の方を一瞬睨んで、そして私を見て、言った。


「それは未來であって未來やない」


 はっきりと。断言する。そうして彼は緑茶を一口啜る。明らかに上質な湯呑みが机に戻され、ごとり、と音を立てた。


「騙されんようにしな。あくまでまがい物やから。中身は神様とやらが精巧に作り上げた偽物みたいなもんやろな。体は未來でも中身は未來やない」


 すなわち彼女の"死体"だけれど、"死体"が彼女というわけではない。そういうことだろう。彼女の時間は止まったまま動かない。それはまるで人工知能によって形成された人格のように型にはまった"予想"でしかないのだ。


「やから、殺しなさい」

「え?」


 思わず訊き返す。殺せ、と言ったのか? 私に未來の死体を殺せと、言ったのか。どういうことだか分からない。竹次さんの表情は変わらないまま、私だけが焦っている。 目の前の土鍋からはもう湯気は出ていない。


「もう死んどる。しかし、もう一度殺さんといかん」


 わけの分からない言葉だった。だけれど彼ははっきりと続ける。


「未來の墓の前で、殺しなさい」


 橘竹次は、どこか遠くを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る