取材対象 I ――秘められしおともだち 後編

 ※ 一部、軽めですが嘔吐する描写が含まれています。ご了承ください。


 

「先輩」が音信不通になった。

 失踪直前、「自分の恋人が行方不明になった」と、私に相談していた。

 先輩が姿をくらませたのは、彼の意志なのか?

 それとも何かの事件に巻き込まれたからなのか?

 と考えていたら、私宛へ一本の鍵が届いた。

(化野乱斗の個人メモより)


 昭和三十三年(一九五八年)二月二十一日。

 先輩が行方をくらませてから一週間後――。

 連載作品『迫りくる怪異』を寄稿している編集部に立ち寄った時、私は一通の手紙を受け取った。

「化野さんに手紙を預かっているよ」

「手紙?」

 それは「先輩」が編集部経由で私に送ってきたものだった。

「つい昨日、編集部うちに届いたんだよ」

 そう言われて受け取った封筒の中には、一本の鍵と、便箋が一枚入っていた。

 便箋に書かれていたのは、短い伝言。

 ――「俺に何かあったら、例のを調べてくれ。場所は机の――」。

 脇からその手紙を覗き込んだ編集者が、首を傾げた。

「どうかしたのかい?」

「……私、ちょっと行ってきます」

「え? どこへ?」

 それには答えずに、私は編集部を出た。

 これはきっと、――そう、私の中で直感が告げている。

(ならば、私がすべきことは)

 先輩のことづけを守ることだ。



 先輩の住所は知っていた。以前、酔いつぶれた先輩を送り届けたことがあったからだ。

 二階建てのアパートメントで、一階の角部屋が先輩の自宅だった。

(ここにきっと手がかりがある)

 挿しこんだ鍵を回すと、がちゃりと大きな音をたてて開いた。

「……先輩?」

 声をかけてみるが、予想通りに中は無人だった。昼間なのに部屋は妙に暗く感じる。

 私は中に足を踏み入れた。以前に一度来た時は玄関の外までだったから、入るのは初めてだ。

 私は手探りで電球を燈す。白熱電球に照らされた八畳一間は、男の一人暮らしにしては小綺麗に整頓されていた。

 台所を見てみる。ゴミはきちんとまとめられていた。

「あっ、電気冷蔵庫がある」

 最近話題になっている、一枚扉の電気冷蔵庫だ。それまでは大きな氷を上部に入れて、その冷気で冷やす「氷式」などが一般的だったが、ここ何年かで電気式が普及してきたのだ。

 ちなみに白黒テレビ、電気冷蔵庫、洗濯機は「三種の神器」と呼ばれ、世の奥様がたの憧れの逸品らしい。

 私はつい冷蔵庫を開けて、中を見てみた。

 中にはビールや牛乳の瓶、卵やソーセージ、ニンジンや茄子などが入っている。

(先輩って自炊する人なのか)

 冷蔵庫の扉を閉めた。

 私は畳の敷かれた八畳間に入る。

 部屋は物が多いが汚れてはいない。鴨居には衣紋掛けハンガーで上着が架けられ、板で組まれた本棚には芥川龍之介や夏目漱石の小説本が収められていた。

 文机の傍に、座布団が二枚重ねられていた。

がよく来ていたのかもな)

 私は鞄を畳の上に置いて、文机ふづくえににじり寄る。

 先輩からの手紙には「机の抽斗ひきだしに入っている」と書かれていたので抽斗を見ると、中には、紐でくくられた手紙の束が入っていた。

 先輩が見せてくれた「彼女さん」宛の手紙だ。フルーツパーラーで見せてもらったそれよりも数が多い。

 どうやら先輩は、「彼女さん」の家から、くだんの手紙を全部持ってきたようだ。

(で、肝心の先輩は行方不明)

 普通だったら何か事件に巻き込まれている、と考えて、警察に連絡するのが正解だ。

 でも――と私は直感的に思う――これは単なる失踪事件ではない。

(たぶん、警察ではどうにもできない)

 手紙の束に触れると、しっとりと湿った感触が肌に伝わった。抽斗にしまい込まれていたせいだろうか?

 この手紙がきっと手がかりになる。

 私は手紙をくくる紐を解き、一番上の一通を手に取った。

 切手は見たことのないデザインばかり。つまり日本で発売されていないものなのだ。消印を見れば投函場所がわかる――はずなのだが。

(これも滲んで読めない)

 消印は水で濡れてしまったかのように滲み、どこの郵便局から発信されたか不明だ。

 でも――。

(日付はかろうじて読める)

 消印に記された日付はなんとか判別できる――これで順番を推測できる――のに、その数ミリ下の郵便局名が読めないのだ。

 消印だけではない。

 送り主の住所と名前も、のだ。

 というよりは、これは――。

(意図的に、?)

 何のために?

 のだろうか?

 とにかく封筒を開く。……一瞬だけ、潮の臭いが鼻腔をくすぐった気がした。

 中を読んでみる。


  おとうさまは わたしをそとにださないの

  わたしは ずうっと いまのばしょに すんでいるの

  ほかのところに いってみたいな


(……やっぱり、子供の書いた文章みたいに見える)

 封筒に書かれている送り主の部分は、滲んだように潰れて読めない。

 二通目も開けて、読んでみる。


  きのう こっそり そとにでようとしたら

  みはりに ばれちゃった

  そとにでてはいけないのだって つまらないわ


がいる……?)

 ただのお嬢様が、外に出ないように見張られている――のは違和感があるような。

(まさか……とか?)

 受刑者が外の人間と手紙をやり取りする、という話は聞いたことがあるが……。

(でも、そういう雰囲気は感じられないような)

 まず、文章にあまり危機感が感じられない。「昨日はお兄様が贈り物をくれた」みたいに、日々の出来事を呑気につづるような内容が多いのだ。

 次に、文体があまりにも幼いことだ。全部平仮名ばかりなこともその印象を強くする。こういう文章は、漢字をまだ習っていない子供か、あるいは外国人が書くものに似ている。

(本当に外国人と文通していたとか?)

 考えてもまだ何もわからない。

 適当にまた何通かを手に取り、中を読む。


  あなたははじめての おともだちだから

  ■■■■■■ 

  いっしょに あそびたいな

  でも それは ■■■■■

 

  おとうさまに しかられちゃった

  わたしのそんざい■ ■■■ ■■

  ぜったい■ ■■■■ ■だめ


 所々、まるで検閲を受けたかのように文字が滲んで読めないのはなぜなのか?

 とにかく、手紙にはこんなような内容がとりとめもない感じで、何通も綴られている。

 手紙の主は、文通相手――先輩の彼女さん――にとても会いたがっているが、何か理由があってそれができず、本人も家から出ることが許されていない、と伝えたいらしい。

 でも、手紙の主がどこに住んでいるか、の手がかりが、ほどんどわからない。

(遠い外国であるらしいこと、周りが海であること。これくらいか)

 そもそも送り主の素性もわからない。

(たぶん女性、あるいは少女で……父親がいる、あと兄が三人いる?)

 疑問を抱きながら開いた次の一通は、はっきりいって異様だった。


  ごめんなさい

  おとうさまに ぶんつうが ばれてしまった

  てがみは ■■■■■

  ■■■ ■■■■ ■■■■■ ■■

  ■■■■ こっちに きては■■


(そして、これが最後の手紙)

 それは今までの手紙の文字とは異なっていた。

 慌てて殴り書いたような粗い文字で、たったこれだけ。


  かーどを よんでは だめ


 ぞくり――と、妙な寒気が私の背筋を駆け抜けた。

 文字自体に、形容しがたい妙な気配が漂っているような気がする。

「……?」

 そんなものは無かった――いや、待てよ。

 私は「カード」をどこかで見たことがある。どこだっけ?

(そうだ、先輩が持っていた)

 あの時、先輩は封筒から「カード」を一枚出して、それを見たのだ。

(あれだ)

 あれのことに違いない。……でも、「読んではダメ」とはどういうことだ?

(待てよ。思い出せ)

 あのカード――先輩が読んでいたではないか。

(あの時、先輩は何と言っていた?)


 ――「えーと、どこの文字なんだ? ふ、……――」。


 あれを読んだ瞬間、先輩の様子が変わった。

 ――あれ? ちょっと待てよ? あのカードが入っていた封筒はどれだ?

「……一通足りない?」

 間違いない。

 あのカードと一緒に入っていた手紙――私が読んだあの手紙が、今どこにも見当たらない。

 あの手紙には、何が書かれていた?

(思い出せ)

 記憶を呼び覚ませ。に。


  あなたに あいたいな

  きっと あなたは■■■■■■

  わたしと ■■■■■■

  ■■■■■ ■

  ■■■ ■■■ ■■■■■■


 ――ことん、と玄関から音がして、私はそちらを振り向いた。

 扉のポストに封筒が一通入っている。

 どくん、と心臓の鼓動が大きくなった。恐怖か緊張か、高揚感なのかはわからない。

(たった今、入れられた?)

 私は扉に近寄って、手紙を手に取った。

 じっとり湿った封筒には、宛名が書かれていない。

 どくん。鼓動が跳ね上がる。

 ――これを開いてはいけない。

 私の深いところから、「あれ」が警笛を鳴らしている。

 だが思考に反して指が勝手に動き、封筒の中から手紙を出した。

 そこに書かれていたのは、今までの手紙とは明らかに異なる筆跡で、たったこれだけ。


  知るな

  すべて忘れろ


 その文面を読んだ次の瞬間、手紙にじゅわりと何かが滲んで、濃い染みを広げた。

「!?」

 私は反射的に手紙を投げ捨てた。

 手紙は畳の上で、みるみるうちに青黒い染みを広げ、海水が腐ったような臭いを強く立ち昇らせた。

 じゅううう、と砂に水が浸みこむような音が聞こえた。

 机を振り返ると、今まで読んでいた手紙が、すべて同様の青黒い染みが滲み、みるみるうちに朽ち果てていく。

 まるでこれ以上手紙を読まれてしまうことを、拒んでいるかのように。

 「何だこれは」

 刹那、――ぐにゃりと部屋全体が歪み、粘土を引きのばすように形を失った。

 私は平衡感覚を失って崩れ落ちる。膝をついた畳がぐっしょりと濡れていた。

 畳だけではない。天井も、壁も、空間すべてが一瞬でしとどに濡れて、濃い潮の臭いを放った。

 ――「知ルナ 忘レロ」

 妙にざらついた声とともに、視界が一変した。

 それを認識するよりも前に、私の

 反射的に喉を抑える。耐えきれずに吐き出した呼気が大量の泡を作って、上部へと昇っていく。

 

 「……!?」

 全身を包む海水の冷たさと圧迫感、呼吸ができない苦しさにもがく。

 床はいつの間にか消え失せていて、私は海中を無様に踊るしかできない。

 一体何が起こっているのかわからない。

 せめて状況を把握しようとして、必死に周囲を見回し――。

 私はを見た。

 は私の胴体よりも太く、果てしなく長い、何かの触手だった。

 触手はぬるぬると蠢いて私の身体に巻き付くと、緩やかに、そして速やかに私を上方へと持ち上げていく。

 (……これは)

 ――?

 柔らかい触手に巻き付かれた感触を感じながら、息が尽きた私は意識を失った。


 私は乾いた畳の上で目を開けた。

 先輩の部屋だ。衣紋掛けハンガーに下がった上着も、重ねられた座布団も、文机もそのまま。

 手紙の束は跡形もなく消えていた。

 ざわざわとした不快感が胸の奥から湧き上がってくる。

 (

 私は鞄を引っ掴むと、先輩の部屋から外に出た。



 ふらつく足取りで歩き、先輩のアパートメントからだいぶ離れ、完全に人気が無くなってから止まった。

 (……さっきのは一体?)

 悪い夢? いや違う。私は確かに

 そして、ざらついたあの声。


 ――「知ルナ 忘レロ」。


 突然ひどい吐き気に襲われ、耐えきれずに私は道端に嘔吐した。

 「げほっ」

 強い潮の臭いが鼻を突いた。

 大量に飲み込んでいた海水をすべて吐き出す。手足がしびれて立てなくなり、街路樹の一本に寄りかかったまま動けなくなった。

 眩暈が治まらない。視界にちかちかと斑紋が浮かんでは消え、くらくらする。水中にいるように耳が詰まって音が聞こえなくなる。

 「……あんた、どうしたの、顔が真っ青よ」

 買い物かごを提げたエプロン姿の女性が通りかかり、動けなくなった私に何か言った。

 「ちょっと、やだ、今お医者さん呼ぶから――」

 私はまた意識を手放した。


 町医者に担ぎ込まれた私は一晩そこで世話になり、翌朝になってやっと回復した。

 私は数日後にまた編集部に顔を出した。すると、行方不明になった先輩の捜索願が警察に出された、と知った。

 「何か事件に巻き込まれたのでなければいいけど。化野さん、何か彼について知らない?」

 「……いえ、何も」

 当たり障りのない返事しかできず、私は編集部を出る。

 ……を言う勇気はなかった。いいや、言ったところで誰が信じるというのか?

 (でも、あれは、夢や幻ではない)

 私はあの瞬間、確かに暗い海の奥深くにいた。

 でも――疑問が残っている。

 (なぜ、私が今ここにいる?)

 私自身が行方不明になってことだ。

 先輩が音信不通になってしまい、私が無事である理由は何なのだろうか?

 (私も先輩も、を読んだ。だけど先輩だけが消えた)

 その違いは何なのか? 先輩と私の明暗を分けた要素は何だ?

 (……しか心当たりがない)

 自分で自分に言っておいて愚問だった。

 (だ)

 先輩だけがあれを読んだ。あの「カード」を読んだから、先輩はどこかへ――荒唐無稽だがそうとしか思えない。

 (ならば、あのカードは一体)

 理由もなく一つの考えが脳裏に降って湧いた。

 (あのカードは――きっと、だった)

 「知ってはいけない秘密」を知った者があれを読むと、姿を消してしまう。

 ……先輩はきっと、何かを。だから姿を消した。そうなのだと思う。

(もし、私があれを読んでいたら)

 もっと深いところへ踏み込んでしまっていたら、今頃消えていたのは、私だったのだろうか?

 それは命を落とすということか? ……いいや、それとも。

 (……あの深く暗い海の中に捕らわれたのか)

 きっとそうに違いない。確信できる。

 だって私は実際に、から。

 「……!!」

 ぞくりと背筋が震えた。いつもの高揚感とは異なる、完全に恐怖による寒気だ。

 (しばらく、蛸は食べたくないかも)

 当分は思い出したくない。

 非常に無念だが、取材レポートに記すことは断念する。

 「何か」の存在を広めてしまったら、きっと今度こそ私はあの海に永久に囚われてしまうだろうから。

 もうあんな恐ろしい場所に行くのは嫌だ。


 結局、潮の臭いを纏った手紙は、完全に消えてしまった。

 まるで二度と誰にも読まれないように、文通相手の痕跡を完全に消し去りたいかのように。

 文通相手は、決して誰にも存在を知られてはならない「何か」だったのだろうか。

 存在を秘められし文通相手――誰にも知られてはいけない「おともだち」は、深く暗く冷たい場所で、次の文通相手を探しているのだろうか。

 (化野乱斗の個人メモより)


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それは誰かに迫りくる 涼月琳牙 @Linga_Ryogetsu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ