資格なくともやってみる。
増田朋美
資格なくともやってみる。
その日は、普段と違って寒い日で、外で過ごすにはちょっと過ごしづらいところもあるかな、と思われる日であった。杉ちゃんたちは、今日は寒いねと言って、製鉄所と呼ばれている福祉施設の中で、利用者たちの世話をしていたりしたのだが。
いきなり乱暴に玄関の引き戸を叩く音がして、杉ちゃんは何事かと思い、急いで玄関先に行った。
「何だよ、こんな寒いときに。そんな叩き方したら、引き戸がぶっ壊れちまうだろうがよ。」
そういったのにも関わらず、玄関の引き戸を叩く音が止まらなかった。
「だから壊れちまうって言ってるじゃないか。随分、乱暴な叩き方をするもんだな。」
杉ちゃんはもう一度いうが、更に玄関の引き戸を叩く音が続く。
「壊れちまうって言っただろ!」
杉ちゃんがそう言って、引き戸の鍵をあけると、引き戸はガラッと開いて、そこにいるのは、
「何だ、米ちゃんじゃないか!」
と、杉ちゃんが言う通り、そこにいるのは、米山貴久くんである。彼は、一生懸命両手を動かして、なにか言っているのであるが、
「ああ待て待て。ちょっと落ち着こう。ちゃんと手の動きとかできるまで落ち着こう。それっから要件を言え。」
と、杉ちゃんが言っても、彼には聞こえてないということに、注意しなければならなかった。彼はなおも、両手指を動かし続ける。
「だから、落ち着いてから要件を言えよ!」
と、杉ちゃんが言うと、応接室からジョチさんこと、曾我正輝さんが出てきて、
「どうしたんですか?」
と、杉ちゃんたちに言った。そして、手話と、指文字を交えながら、
「ひどくパニックになっているほど、大きなことがあったことはわかりますが、とりあえず、まずは落ち着いて何があったかお話ください。」
と、言ってくれたので、やっと、貴久くんにも通じた。貴久くんは、指文字を使って、なにか言った。ジョチさんは、それに答えて、
「わかりました。じゃあ、誰が倒れたのか教えてください。」
と、手話を交えて言った。貴久くんはまた何か言うのであるが、指の形がパニック状態で、きちんと表現できていないため、何があったか説明できない。とりあえず、救急車を呼んでほしいのだと言うことを示していると理解したジョチさんは、
「じゃあ、小薗さんに頼んで車を出しますから、急いでお宅に戻って、そっちの状況を見せてもらいましょう。」
と、また手話を交えていった。貴久くんもこれは理解してくれたようで、しっかり頭を下げる。ジョチさんは、急いでスマートフォンを出し、小薗さんに頼んで、車を一台出してもらった。車がやってくると、貴久くんとジョチさんは急いで、それに乗り込んだ。杉ちゃんが一緒に行くといったため、小薗さんは、すぐに、彼を車椅子ごと車に乗せて車を走らせてくれた。こんなとき、小薗さんがなにか文句を言う人でなかったことが良かった。
3人は、貴久くんのマンションに到着した。貴久くんの部屋は一階にあった。大家さんにそうしてくれと言われたという。貴久くんはマンションの鍵を開けようとしたが、落としてしまいそうになってそれはできなかった。代わりにジョチさんが冷静にドアを開けてくれた。3人が、部屋の中に飛び込むと、ソファーの上に、貴久くんとみどりさんの息子、恵介くんが天井を見つめて寝ていた。ジョチさんが、彼の眼の前で手を叩いても何も驚かなかったので、意識が朦朧としているんだと言うことは直ぐにできた。ジョチさんは、恵介くんのカバンから、ひよこ保育園の年中組であることを理解して、すぐにスマートフォンを取って、
「あ、もしもし。救急車お願いします。4歳の男の子なんですが、急に高い熱が出て、意識が朦朧となってるみたいで。あ、はい。ちょっとお待ち下さい。」
と、スマートフォンを杉ちゃんに預けて、
「熱を測ってください。何度か聞きたいそうです。」
と、手話を交えていった。貴久くんが、すぐに熱を測って体温計を渡した。ジョチさんは、急いでスマートフォンをとり、
「えーと、9度8分です。ええ、ちょっと待って。すみません。僕は代理人で、彼の父親が全聾なものですから、要件を聞くのに時間がかかってしまうのです。しばらくお待ち下さい。」
と、話を続けて、また杉ちゃんにスマートフォンを預け、手話を交えながら、
「咳や、嘔吐などはありましたか?」
と聞いた。貴久くんが首をふると、
「ああ、それはないです。ええ、一台お願いします。住所は、富士市国久保、、、。」
ジョチさんは、要件を伝えた。そしてスマートフォンを置き、貴久くんに向かって、
「しばらく待っていれば来てくれます。あなたが全聾であることはお伝えしましたから、なにか配慮してくださるのではないかと思います。」
と、手話を交えていった。それを言われてしまって、貴久くんはがっくりと落ち込んでしまったようである。
「あなたが落ち込んでどうするんです。これから、こういうことはいくらでもありますよ。救急車が来て、医者になにか聞かれたら、ちゃんと答えてあげないと、だめなんですよ。」
手話を交えてジョチさんは、そう言っているが、貴久くんは、もう、落ち込んでしまって、何も見えないようだった。
それと同時に、サイレンの音がなって、救急車が到着した。隊員が来てくれて、恵介くんをストレッチャーに乗せてくれて、病院へ行くことになった。とりあえず、緊急性が高いので、聞こえない人ではまずいと隊員に言われ、ジョチさんが一緒に乗っていくことになった。救急車は、ジョチさんと、恵介くんを乗せて走っていってしまった。
貴久くんは、床の上に倒れるように座り込んでわっと泣き出してしまった。隣にいた杉ちゃんでさえも、呆れてしまうほどの泣き方だった。
「お前さんも、いちいち泣いていてどうするの。さっきジョチさんも言ってたけど、これからこういうことはいくらでもあるんだ。それに、そういう反応してたら、身が持たんぞ。」
杉ちゃんがそう言っても、聞こえない彼には通じない。
「そうか。そうなっちまうのか。だけどねえ、まあ、僕も、歩けないから、気持ちがわからないわけでもないけどさ。歩けるやつにはどうしても敵わないってこともあるよねえ。だけど、それはじっと我慢してさあ。一人で耐えていくしか、ないんだよな。」
杉ちゃんは、泣いている貴久くんにそういった。もちろん、通じていないと思われるが、でもそう言わずにはいられなかった。
「杉ちゃん。」
と、一緒にやってきた小薗さんが、そっと彼に言った。
「今はできるだけ泣かせてあげましょう。おそらくこうなったのは初めてのことですから、誰でも初めての失敗は、泣きたくなるものですよ。」
普段無口な小薗さんがそういう事を言うのだから、そうなのだろう。杉ちゃんは、それ以上言わないことにした。
すると貴久くんが、頭を床に打ち付ける事を始めた。怪我でもされると行けないので、小薗さんは、急いで彼を抑えた。それと同時に、貴久くんは、声にならない声で叫んだ。だけどそれは、耳が聞こえる人とは違う意味の叫びなのではないかと思われた。
「絶対にそれだけはしてはいかん!お前さんは、少なくとも視力はあるよな。それなら、僕らがやっては行けないという顔をしていることを、理解してくれ!」
杉ちゃんがそう言うと、貴久くんは、両手で何かを言おうとするが、小薗さんが抑えているのでそれはできなかった。
「泣くことは良いのかもしれないが、自傷行為は、してはだめだぞ。それより、恵介くんがどうなるか、それを待とう!」
杉ちゃんがもう一度いうと、小薗さんが、
「杉ちゃん、ゆっくり話せば彼も口の動きでわかるかもしれませんよ。」
と言ってくれたので、杉ちゃんもゆっくりと話すことにした。こういうときは、早口で言っても、感情的になっても通じるものではない。それよりも、しっかりと、確実に要件を伝えられるかどうか、が勝ちなのだ。
「いいか、この、かお。この顔を、見てくれ。」
と、杉ちゃんは、彼にゆっくり話した。
「連絡が、来るのを、待つんだ。」
できるだけゆっくり喋ると、貴久くんには通じた。また何かいいたいらしくて、手を動かした。小薗さんが、彼をそっと離すと、貴久くんは泣きながらなにか言った。杉ちゃんが、
「何を言っているのかな?」
と聞くと、小薗さんが、
「どうせ、僕がいてもなにも役に立たないんですね。と言ってます。」
と通訳してくれた。
「バーカ!そんな訳ないだろうが。恵介くんのお父ちゃんは、お前さんだけだよ。それ以外誰がいる?役に立たないわけがない。」
杉ちゃんがそう言うと、小薗さんが、それを手話通訳してくれた。それを理解してくれた貴久くんはまたなにかいう。小薗さんがすぐに、
「でも、僕には救急車を呼ぶことはできなかった、と言ってます。」
と通訳した。
「でもさあ、お前さんだからしてあげられることだって、あるんじゃないのかな?」
杉ちゃんがそういうと小薗さんの通訳を介して、貴久くんは床をどんとたたき、また叫んだ。しかし、今度は泣きながらでも、成文化することはできたようで、また何か言った。
「そんなことはありません。親である自分が、子どもを病院に連れて行ったり、救急車を呼んだりできないでどうするんです。やっぱり、そういうこともできないなんて、父親失格ではないでしょうか?と、言ってます。」
小薗さんは淡々と通訳した。
「うーんそうだねえ。だけどねえ、完璧に子どもを守りきれる親はいないと思うよ。誰かの手を借りることだって、必要なときはあるんじゃないのか。それが、生きてるってことだと思うけど、違うのかい?」
杉ちゃんはそういった。小薗さんがそれを手話通訳すると、またなにかいう。
「でも僕はやはり、父親の資格がない。」
小薗さんの通訳を通して、杉ちゃんは思わず、
「馬鹿野郎!」
と怒鳴った。
「資格なんてどうでもいいじゃないか。もうなっちまったんだから、そんな馬鹿なこと有耶無耶言うのはやめろ!」
杉ちゃんの真剣な表情を読んでくれたのか、貴久くんの手は止まった。それと同時に、杉ちゃんのスマートフォンがなった。
「はいはいもしもし。ああ、どうも。はあ、えーと、木村内科病院の小児病棟にいるわけね。はあ、そうなのね。やっぱり、親には敵わないか。よし、じゃあ今から連れてくから、ちょっとまってくれよ。」
杉ちゃんは、そう言って、電話を切った。
「えーと、恵介くんは、木村内科病院の小児病棟にいるんだって。熱を出したのは、軽い肺炎だったらしい。だから、様子を見るために、一週間ほど、入院したほうがいいみたい。それで、手続きのことがあるから、一緒に来てくれないかってさ。大丈夫だよ。僕もいるし、ジョチさんも、できるところは、手伝ってくれるそうだから、一緒に行こう。」
杉ちゃんがそう言うと、小薗さんは、静かに手話通訳してくれた。それが目に入って、しっかり状況を理解することができたのだろうか。貴久くんは、またなにか言った。小薗さんがわかりましたというと、
「よし、それなら行ってしまおう。」
杉ちゃんは、もう、車椅子を外へ向かって動かし始めていた。貴久くんは、手ぬぐいで涙を拭いて、小薗さんの車に乗り込む。小薗さんは運転席に座り、車を動かし始めた。その間誰も何も言わなかったが、10分ほど走って、車は木村内科病院に到着した。
病院につくと、杉ちゃんが、米山恵介くんという少年がここに運ばれてきたかと聞いた。受付は、こちらですと言って、三人を病室まで案内してくれた。
恵介くんは、集中治療室にいた。貴久くんはガラス越しに、心配しているような様子だったが、医者がジョチさんと一緒にやってきて、貴久くんに病状を説明した。このときはジョチさんが、手話通訳して、恵介くんは、軽い肺炎であったこと、今のところ安定しているが、様子を見るために、一週間ほど入院させたほうが良いと言うことを伝えた。貴久くんは、それを、一生懸命聞いていた。そして、質問できるところは手を動かして質問した。その通訳はジョチさんがした。これでやっと、貴久くんは、恵介くんが熱を出した原因と、対処法を理解することができた。
医師が病状を伝えてくれたあと、受付の事務員が、入院の手続きをしたいといって貴久くんに近づいてきた。そのあたりは貴久くんには理解できないので、ジョチさんが代理ですると言ったが、
「いや、こういうときこそ、こいつにやらせろやらせろ。」
と、杉ちゃんが言った。
「でも、耳に障害のある方では、何も通じないので困りますよ。入院の手続きとか、そっちの方は、聞こえる方にやってもらったほうが。」
と、事務員がそう言うと、
「いや、どんなに避けようとしても、とおんなくちゃならない道ってのは誰でもあるから。それに、こいつには目もあるよ。鼻もあるよ。だから、文字を書いて、通じることだってできるんじゃないのかよ。」
と、杉ちゃんが言った。
「じゃあ。ちょっと、事務所にいらしてください。」
と、事務員が言うと、ジョチさんが、それを手話に通訳してくれた。貴久くんはしっかり頷いて、事務員について行ってくれた。
「すみません。遅くなりました。理事長さんから連絡もらったとき、ちょうど介護施設の予定で出かけていたんです。」
汗を流しながら太った女性が、駆けつけてきた。この女性こそ、貴久くんの奥さんである、米山みどりさんだ。
「今、入院の手続きのため、会計にいってもらいました。恵介くんの方は、軽い肺炎で特に心配はないそうです。」
とジョチさんがいうと、
「そうですか。ありがとうございます。うちの人では、多分、話が聞き取れないでしょうから、私、一緒に聞きに行ってきます。」
みどりさんはそう言って会計に走っていってしまった。
「なんか余計に太ったな。」
と、杉ちゃんが思わず呟く。
「まあねえ。ああいう、障害のある人の奥さんというかご家族というのは、食べることしか、楽しみがなくなってしまうのだと思いますよ。」
ジョチさんがすぐ言った。確かに、そのとおりかもしれなかった。ましてや、米山家では、みどりさんが働いて、家計を支えている。そんなわけだから仕事のストレスもあり、余計に太ってしまうのだろうなと思われる。それを誰かに相談したり、愚痴を言い合うことができる場所があったら、最高なのだが。杉ちゃんもジョチさんもそんな事を思った。
みどりさんが到着してから、手続きや、病状の説明は先程とは嘘のように速く終わった。聞こえる人が登場すれば、こういうふうに数分で終わることなのだ。
「じゃあ、先生。恵介をよろしくお願いします。」
と、みどりさんはさっぱりと、病院の先生に言った。そして、呆然としている貴久くんに、もう帰ろうと促した。みどりさんは普段は電車で通勤している。病院に来るときも、タクシーで来たという。そこで杉ちゃんの提案で、二人は、小薗さんの車で、送ってもらうことになった。
全員駐車場に行った。まず初めに杉ちゃんが乗り、そしてセカンドシートに、みどりさんと貴久くんが乗る。ジョチさんは、小薗さんの隣の助手席に乗った。小薗さんの運転する車で、全員、木村内科病院をあとにした。
車の中で貴久くんは、何を思ったのか、ものすごい早い勢いで、指を動かして、なにか語り始めた。みどりさんが、まあまあと言って止めるのであるが、貴久くんはそれを止めなかった。非常に早い手話であったため、内容はよくわからない感じの話であったが、皆それを言うのはやめろということはしなかった。
「はい。つきましたよ。お二人さん。」
と、小薗さんが車を止めた。そこは、貴久くんと、みどりさんの住んでいるマンションだった。
「どうもありがとうございました。今日は主人がご迷惑をおかけしてしまってすみません。」
と、みどりさんは、ジョチさんにお金を渡そうとしたが、
「いえ、こういうことは、どんな人でも起こることだと思うので、お金は要りません。」
とジョチさんは、受け取るのを断った。
「でも、ご迷惑かけてしまったでしょうから。」
とみどりさんがもう一度いうと、
「いやあ、迷惑なんてかけない人間はいない。そんなのにいちいち金を払ってたら、もう、いくら払っても払いきれない。」
と、杉ちゃんがでかい声で言う。
「そうですか?」
とみどりさんはいうが、
「だって、耳が遠いなんて特別なことじゃないじゃないか。年を取って、遠くなるやつとかもいるしさ。それと一緒、位に考えたほうが良いんじゃないの?」
杉ちゃんはにこやかに言った。それと同時に、米山貴久くんが、車の外に出てきて、静かに、でもしっかりと頭を下げた。そして、両手を大きく動かした。
「どうもありがとう、ですか。でも、一つだけ訂正させていただきますね。」
ジョチさんは、管理人らしく、手話を交えながら言った。
「バックミラーで、あなたが何を言っていたのか、わかりました。あなた、働けない人間は、生きている価値がないとか、そういうことを思い込んでいるようですけれども、それは違いますよ。働けようと無かろうと、恵介くんのお父さんは、あなただけですからね。それは忘れないでくださいませ。」
「はあ、本当に馬鹿だなあ。そういう事を思い込んでは行けないよ。」
杉ちゃんがカラカラと笑った。貴久くんは、杉ちゃんにも、ジョチさんにも、小薗さんにも丁寧に頭を下げるのであった。それと同時に、五時を知らせる鐘がなった。
「さて、帰るか。」
と、杉ちゃんが言うと、
「そうですね。」
とジョチさんも言った。小薗さんがまた車に乗り込む。ジョチさんに手伝ってもらいながら杉ちゃんも車に乗り込んだ。深々と頭を下げている貴久くんに大きく手を振りながら、二人は、車に乗って製鉄所へ戻っていった。車が見えなくなるまで、貴久くんは深々と頭を下げているのであった。みどりさんが、ありがとうございましたと言っている声も聞こえてきた。
その日は夕焼けであった。多分明日も晴れるだろう。だけど、風は冷たくて、もうすぐ冬がやってくるのだろうなということを感じさせた。寒くて、大変な季節が、本格的に始まるのだった。
資格なくともやってみる。 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます