鴨すらも 〜悲しい真比登〜
加須 千花
酒肆にて。
奈良時代。
午はじめの刻(午後1時)。
高価な
例外は
さて、
彼らは、今日は非番で、
ここ
今日は、非番の者達だけ集まって、新入りを歓迎するべく、
* * *
(兵舎の外で飯を食べるのは、久しぶりだな。)
二十六歳の真比登は、ガヤガヤとした
新入りの鎮兵、丸い顔、ちっちゃい目、お腹のぷりっと突き出た
「
と、真比登を、ヨイショする。
真比登は、白い
「はは……。おべっかは必要ないさ。」
と、困ったように笑った。
白い
筋骨たくましい真比登は、今は健康そのものだ。真比登から、
それでも、人々は、
真比登が素顔をさらして、この
久自良は小さい目を丸くし、
「おべっかじゃないですよ。本心なんだけどなぁ。真比登は婚姻してますか?」
スパンと訊ねた。真比登の隣に座った、
「久自良。」
と怖い顔で
「へっ? ……あれっ?」
久自良は、訊ねたらまずかった? と、焦った顔をした。表情がわかりやすい。
真比登は、チョビ髭を生やした
(怖い顔すんな。いいから。)
と目配せし。
「してないよ。コレだからね。」
と、久自良を安心させるように笑顔を向け、自分の左頬を、
「あ、う……、コホン。」
久自良はわざとらしく咳払いし、
「聞いてくださいよ、オレの妻がね、ここの兵舎に来れて良かった、追い出されないように、エライ人の妻に贈り物をするべきだって言うんですよ。
そりゃ、妻同士のつきあいってものもあるか、とオレはひとまず納得したんです。
それにしても肝心の、贈り物は何にする気なんだ?
何か金目の物でも贈るつもりか、抜け目のないヤツ……、と、気になって訊ねたら、妻は、なんて言ったと思います?
ナズナの葉っぱの漬物を壺いっぱいに贈るって言うんです。
そんなので気に入られるんなら、世話ないですよねぇ?」
はははは……。
皆、明るく笑った。
「ということで、
「オレも婚姻はしてないが、ナズナの葉っぱの漬物なら、ありがたく
自分で食べる。」
はははは……。
また、笑う。
独身なのは、もったいないな、という目で。
「きゃっ!」
───ガチャン。
近くの席から、若い
「おっ、姉ちゃん、オレの衣が
「どうしてくれるんだ!」
「あたしの尻触ったからでしょ! 酔っ払いタコめ!」
酔っ払い男、四人が、給仕の女……、十六歳くらいの女に絡んでいる。
「でへへ……、生意気な女だな。脱げよ。」
「そいつはいいぜ。でへでへ。」
「きゃあっ!」
女が手をひかれ悲鳴をあげた。
(見てられん。)
真比登は立ち上がり、くるり、と振り返り、
「ここは
冷静に注意した。
酔った
「おい……。」
と仲間に声をかけるが、
「この
衣を濡らした男は、
「助けてっ!」
なかなか可愛らしい顔立ちの若い
真比登は素早く動いた。
すっ、と男の肩に密着するほど近くに行き、男が驚きとともに振り返る前に。
トン。
首に手刀。
「きゅう。」
衣を濡らした男は気絶した。
真比登は、この店の皿などが割れないよう、襟首をつかまえ、綺麗に床に寝かせる。
「てめえっ!」
「やりやがったな!」
「やってやる!」
真比登は、鎮兵八百人の勝ち抜き戦で、頂点に立つ強さである。
このような酔っ払いたちは、真比登の敵ではない。
真比登は、殴りかかってきた
「ぅぐ!」
真比登は生まれついて怪力であり、拳ひとつで、大の男をふっとばせる。
ここでふっとばすと、まわりに被害がでそうなので、ふっとばさない為、肩に手を置いている。
そのまま、床にすとん、と寝かせる。
「はぁっ?」
真比登は、その
気絶しないけど、頭が揺れて立っていられないほどの衝撃で。
「野郎!」
真比登は、懐から
軽く散歩でもするような足取りで、かかってきた三人をすべて、片付けた。
店の皿は割れていない。
真比登の鎮兵仲間は、皆、ニマニマしつつ、これを見物していた。
真比登の強さを見れるのが楽しく、彼の圧倒的な強さが誇らしいのである。
真比登は一人だけ残った、棒立ちの男を見た。
「な、何者だあんたら?」
「
真比登は
「あわわ……!」
「飯が不味くなる。自分たちの飲食代を置いて、とっとと帰れ。」
「はい、すぐに。やぁ、鎮兵の皆様には、いつも郷を守ってもらってありがたいことです。お疲れさんです。やぁ、立派だなぁ。」
べらべらべら……、男は早口でご機嫌とりをしながら、財貨を机の上におき、しゃがみこんだ仲間を立たせ、気絶した仲間をおこし、肩を貸しながら
見物していた真比登の仲間だけでなく、まわりの知らない客たちも、ぴゅうッ! と口笛を吹いたり、拍手をして、
「やるなあ!」
「さすが鎮兵!」
「
と喜んだ声をあげた。
「助けていただき、ありがとうございます、これはうちの娘でして……。」
「
助けていただき、ありがとうございました。
なんて立派な
ぽっ。
黒髪が艶つやとし、肌の色も白い
どきっ。
目の前では、なかなか可愛い顔立ちの若い
真比登、二十六歳。
彼は
(落ち着け、落ち着け……。)
「あ、う……。」
彼は
「う……。」
真比登は汗をかいた!
ダラダラかいた!
見かねたチョビ髭の
「真比登ですよ、娘さん。」
と助け舟を出してくれた。
「真比登。お隣でお
微笑む
どきーん!
真比登は真っ赤になり、照れた。汗はやまない。
「お、お酌……?!
おしゃおしゃ、お酌っ?!」
「まあ。こんなに
女の十六歳といえば、ちょうど夫を得はじめる歳であり、未婚であっても、男を知っていてもおかしくない年齢である。普通だ。
「ンまあ。腕が、ふっとい。」
どきどきどきーん!
真比登の
真比登は気恥ずかしく、身体を縮こまらせながら、目をそらし、
「じゃ、あの……。お、お、お願いし……。」
そこで。
店の外から、ぴゅうっと風が吹いた。
風が吹いて、真比登の
そこには、隠された
「───きゃあああああ! いやーっ!
「あ。」
真比登は、直垂を手で押さえるが、もう遅い。
「なに、
「
「
まわりの客がヒソヒソ言い、何人か、机に財貨を置いて席をたち、
酒肆の主が困った顔で娘を抱きしめ、
「さ、触っちゃった! 触っちゃったわ! いや! いやぁ! 親父ぃ。いや───っ!」
と泣き叫んだ。
新入りの
「ひでぇ……。」
とつぶやき、
「おまえらッ!」
と顔に怒気をのぼらせて倚子を立ちあがった。
「
真比登はそれだけ言って、逃げるようにその場をあとにした。
このような扱いは、初めてではないのだ。
* * *
あさりして
鴨すらも、妻とよりそい、食べ物を探し、妻がちょっと後を遅れただけで、恋しがるというのに。
万葉集 作者不詳
* * *
真比登は一人、
「あーあ……。今日のはこたえたな。」
池が見えた。
のどかに陽射しが水面に反射してる。
真比登は、池のほとりに腰掛けた。
「あーあ……。オレだって妻が欲しいよ。
でも、ダメなのだ。真比登の
ずっと昔、
今日の女は、その、鼠みたいな
つまり、恐怖にゆがんだ、悲鳴をあげる顔が。
「ふふっ。オレは何もしてないのにな……。」
寂しく笑う真比登の目に、池を泳ぐ二羽の
きらきら輝く水面で、二羽は前と後ろに並び、ぴったり離れることなく、時々頭を水面に落としながら、ゆっくり泳いだ。
後ろの鴨が遅れた。
前をゆく鴨が首をめぐらせ、クア、と鳴いて、後ろの鴨を待った。
再び、二羽は寄り添い、
「…………。」
(鴨ですら、
* * *
二年後。
「あ、猫だ。」
大きな岩に、ちょこん、と据わって、日向ぼっこする、白と、黄色と、
あいかわらず、
「な? おまえ、
真比登は、幼い頃、猫の
「な、
猫の麦刀自は、くあ、と欠伸をした。
真比登は、持っていた鶏の干し肉を、
「食べるかな?」
と、地面に放ってみた。
麦刀自は興味を示して、近くに寄ってきた。でも警戒してる。
(
そういえば、あの時、着飾った豪族の
顔など覚えていない。
ただ、豪族の
ここは
(
兵士たちが、どこそこの女官が可愛い、医務室で美人の女官に会った、と会話をしても、真比登はただ微笑を浮かべて、右から左に受け流すだけ。
たまに、何かの使いで、女官が
戰の勝利の宴には、顔を半分隠して出て、給仕の女官に喋る言葉は、はい、ありがとう、どうも。───この三つだけ。
そうやって、真比登は、
「もういいんだ。オレはずっと、独り身さ。」
独り言をボソッと言った真比登は、ふわふわの毛並みの魅力に負けて、猫を撫でようと、そーっと手をのばす。
麦刀自は、さっ、とよけて、走り去ってしまった。
───完───
↓挿絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16818093088140333407
鴨すらも 〜悲しい真比登〜 加須 千花 @moonpost18
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