第5話

「三途の川の水だ」

 背後で突然声がして、川嶋はびくりと体を震わせた。喉まで出かかった悲鳴を飲み込み、振り返る。

 そこには神宮寺が立っていた。

「なぜ……あなたが、ここに……」

 そう問いかけたものの、答えは彼のその姿を見ればわかった。泥で黒く汚れたスリッパとよれてシワの山脈を作った淡いブルーの病院服。

「まさか、抜け出してきたんですか?」

 神宮寺は川嶋を無視し、黒い液体の溢れる隙間にガムテープを貼り付けた。

「そんなことはどうでもいい。はやく、こいつをどうにかしろ」

 ほんの数秒液体は止まったが、すぐにガムテープは黒ずみはじめる。隙間からポタポタと漏れ出す液の上へ、神宮寺は何枚も何枚もガムテープを貼り付けた。

「ああ、クソッ! 酷い臭いだッ」

 液体にまみれた手を振い、彼は悪態をつく。

「…………なんなんですか、それは」

「言ったろう。三途の川の水だ」

 川島は苦笑でそれに応える。

「まさか、三途の川ってそれは……」

「死後の世界だ。この腐った液体は死後の世界から溢れ出してくる汚水だ」

「ありえない……」

 あまりに平然と言う神宮寺に、川島はぽつりと静かに独り言つしか出来なかった。神宮寺は壁の写真に視線を送り、ため息を吐いた。

「この写真を見たんだろう。なら、皆まで言わずともわかるはずだ」

 彼はそう言うと、部屋を出て行った。呆然と立ち尽くした川島はハッとして、その後を追う。

「待ってください。何も分かりませんよッ! 死後の世界ってなんなんですか? それとあの液体。そして、なぜ死んだはずの奥さんが写真に写ってるんですか!」

 神宮寺は片付けられていたゴミの山を引っ掻き回し、カットされた鉄パイプの束を引きずり出してくる。

「妻が死んでから、私には妻への後悔が付きまとっていた。大切なものは失くして気づく。多くの人が言うようにそれは事実だ。しかしな、世間は後悔を教えてくれても、その克服方法までは教えてくれない。私は、どうにかして妻を生き返らせられないか、それだけに憑りつかれた。君の思う通り、当時の私は狂っていたんだ」

 神宮寺は手製の爆弾をじっくりと見聞し、一つずつ確認して腕に抱えた。

「質量保存の法則を知っているか?」

「はい?」

「この世界におけるあらゆる物質の量は常に一定だという法則だよ。中学校で習ったろう」

「そ、それがなにか?」

「こんな話を聞いたことはないか? 死んだ人間の体は数グラムだけ軽くなる。それは魂が抜け出たからだ、と。私はもしも魂が存在するなら、それはある種の未知の物質ではないかと考えた。

 そして、もしも物質であるならば、質量保存の法則も当てはまる。つまり、人間の肉体から消失してしまった魂は、氷が水に変わり、そして気体になるように、まったく別の物に姿を変えているのではないかと考えたのだ」

「全く、別の物? それは、一体……」

「そうだ、そこが私にも分からなかった。目で見ることも触れることも、何かで感知することも出来ない。そもそも、魂がどんな物質かも分からんのだ」

 神宮寺は言いながら、家のあちらこちらにパイプを丁寧に敷設していく。

「悩み果てた時、私はある一つの可能性に気が付いた。死んだ人間がどこへ行くのか?」

「天国や地獄……極楽浄土ですか?」

「そうだ。死んだ人間は今ある世界とは全く別の世界へ向かう。魂が人間に知覚出来ないという事は、つまり、魂は我々が考えるような3次元の物質ではない可能性もある。そうなれば、昇華した魂は、次元の壁を越えて別の世界へ行ってしまっても不思議ではないのではないか?

 だから、私はその壁を壊したんだ」

「壊した…………?」

「ああ。この家の実験室で、高圧電流と電磁コイルを使った装置でね」

「まさか……ありえない……」

「今更信じてもらおうなどとは思わない。だが、壁を越えた向こうで、妻に出会った。死んだはずの、この世界から昇華した妻に」

 にわかには信じられない話だったが、あの写真を見た川島には妄想や幻覚だと簡単に笑い飛ばすことは出来なかった。言い返す言葉もなく、川島は口を半開きにしたまま顔をしかめた。

「黄泉の国や、天国、地獄、なんとでも呼べばいい。とにかく私はその世界で、妻を見つけ、そして連れて帰った。だが……それが間違いの始まりだった。確かにそれは姿形を見れば妻に相違なかったが、その実、中身は空っぽだった。妻は存在していた。そう、間違いなく存在していた。だが、存在しているだけだった」

「ど、どういうことです?」

「生きていないんだよ。魂は人間そのものではないということだ。魂はいわば、肉体を動かすプログラムでしかない。人格や記憶、感情と言ったものは全て、後天的な肉体のソフトウェアなんだよ。

私は深く絶望した。しかし、同時にそれで区切りがついた。妻は死んだのだ。妻と言う人間、人格、記憶や感情は全て、もう消失してしまったのだと理解した。だから、彼女を向こうの世界に送り返したんだ。もう一度、壁に穴を穿ってね」

 家の至る所に爆弾を設置した神宮寺は、川島に指図し、起爆プラグの電熱線を丁寧に配線させた。

「しかし、私は見立てが甘かった。妻を送り返したのはいいが、二度も穿った穴には酷い亀裂が入っていたんだよ」

「亀裂?」

「そうだ。次元の亀裂。それは、私の実験室を起点にして少しずつ広がり始めた。部屋のあらゆる5.7ミリから1.2センチまでの隙間が別の世界へのクラックに繋がり、そこから腐敗したあの世界の水が溢れてくる。私にできたのは、その隙間を逐一埋めることだけだ」

「だから、隙間を……」

「そうだ。私は完全にクラックを封じる方法が分からなかった。いくら塞いでも塞いでも、イタチごっこのようにクラックは広がっていく。だが、ようやくそれを封じる方法を見つけだした」

「家を爆破する、ですか?」

 神宮寺は頷き、起爆用に改造された携帯電話とプラグを繋いだ。

「家を完全に吹き飛ばし、クラックの広がりを止める……これですべてが終わりだ」

 各部屋に配された爆弾から伸びた電熱線が起爆用の携帯電話と繋がっている。神宮寺はそれを確認した後、ゆっくり頷いた。彼は壁に貼られた妻の写真に指を這わせる。

「…………本当に、奥様は帰って来たんですか?」

 神宮寺は何も言わず、じっとその写真を見つめた。

「…………虚しいものだ。妻の形をした別の何かだと分かっていても、未だにこれが心には取り付いている。だが、君も言った通り、人間は死を背負っては生きていけない。死にしがみついてはいけないんだ。さあ、この家を――」

 神宮寺の口が、何かを言いかけたまま固まった。彼は違和感を覚えたかのように、胸に手を這わす。

 胸元。胸骨の隙間に、万年筆が深々と突き刺さっていた。

「がっ…………」

 川嶋は、神宮寺の胸に突き刺した万年筆から手を離す。

「智花……」

 川嶋の口から、妻の名前が零れ落ちた。呼吸は荒く、目の焦点は大きくなり、すぐに小さくなった。

 ドサリと神宮寺が床に仰向けに倒れた。

 川島はおもむろに万年筆を引き抜いた。

 刺傷からは、血とは異なったどす黒い液体がドロドロと溢れてきている。川島は傷口に手を伸ばし、グッと力いっぱい広げた。

そこには――

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隙間 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

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