第4話

 駆けつけた病院職員と通報を受けた2名の警官によって、神宮寺は連行された。

 それまで落ち着きを保っていた姿からは想像もできない程、彼はひどく取り乱し、押さえつけようとした職員を殴り飛ばした。

 連行される間中、彼は閉じなければ、閉じなければと叫び続けていた。

 川嶋はその光景をただ茫然と見つめた。心を無力感と激しい自己嫌悪が支配した。他にやりようはなかったのか。果たしてこれが正しい選択だったのか。何度も自問する。

 だが、他にどうすることも出来なかった。目の前で死のうとしている人間をも見過ごすことなど、川嶋には出来なかった。人の死がどれだけ辛く、心を蝕むのかを彼は一番よく知っていた。


「そのおじいさん、家を本当に爆破するつもりだったんですか?」

 神宮寺が強制入院させられてから、2週間。彼のカルテを保管庫へ仕舞いこんでいると、真紀が話しかけてきた。

「ああ。家の中から、いくつか爆弾を作ろうとしてた跡が見つかったらしい」

「爆弾ってそんな簡単に作れるもんなんですか?」

「まあ、ある程度の知識があれば……出来るよ。素材だって、特別なものはほとんどいらない」

 真紀は顔をしかめて腕を組んだ。

「でも、なんで家を爆破しようとしたんですかね……?」

「……そうだな……それが分かっていれば……」

 川嶋は保存とラベリングされたキャビネットに神宮寺のカルテを差し込んだ。

「私でも助けられたかもしれない……」

 川島の深いため息に真紀も口ごもる。気まずさが漂っていることを察し、川島は首を振って大きく咳払いした。

「暗い話はこれで終わり。で、君の用件は? もしか、あの老人の顛末を聞くために?」

 川島が少し意地悪そうに尋ねると、真紀は大きく首を振った。

「まさか。ここにサイン頂きたくて」

 とある研修会の参加申込書だった。

「上司の署名がいるんです」

 川嶋は頷いて、胸ポケットに手を伸ばす。そして気が付いた。いつも持っている万年筆がない。川嶋は慌てて他のポケットや机の上を物色した。

「どうしました? ペンですか? よかったら私のを」

 真紀に差し出されたキャラクターがプリントされたボールペンでサインをしながら、川嶋は万年筆について逡巡した。

「どこへやったかな……」

「いつも持ってる万年筆ですか?」

「ああ。いつも、胸ポケットに刺してあるんだが……」

「大事なものなんです?」

「ああ、あれは――」


「妻に貰ったものだからな……」

 川嶋は床に転がっていた万年筆を手に取った。神宮寺の家。その長い廊下に川嶋は立っていた。あの日、神宮寺の言葉に驚き、取り落としたきり忘れていたのだ。

 彼は拾い上げた万年筆を手の中で、存在を確認するように転がす。赤い鉄製の万年筆。持ち手の所には、英字の筆記体で、川嶋の名前が彫り込まれている。それは妻からの最後の誕生日プレゼントだった。

 その万年筆を貰った数週間後に、彼女は死んだのだ。いわばこれは形見のようなものだった。

 そんな大切なものを、一週間以上忘れているとは。

 でも、それでいいのかもしれない。夕日の差し込む廊下を見て、ふと川嶋はそんなことを思った。

 妻の事を忘れようとしている。乗り越えようとしている。人はどうやっても、他人の死を背負って生きていくことなど出来ないのだ。

 彼の頭に、神宮寺の姿が去来する。

 妻の死が、彼に何をもたらしたのか。一体何が、彼の心に忍び込んだのか。愛する妻との思い出が残った場所を、異様な空間に変えてしまったその原因は一体何だったのか。廊下にはやはり、あの腐臭が漂っていた。

 せめて、何かその手がかりは掴めないか。

 川嶋はじっと廊下の先を見つめた。

 塞がれた部屋。

 川嶋の胸が激しく脈打つ。確かめるなら、今しかない。彼はゆっくりと壁へと近づいていった。

 一歩、また一歩と近づいていくと、心なしかあの腐敗臭が強くなったような気がする。

 万年筆を強く握り、生唾を飲んだ。視認できる微かな間隙の跡に万年筆をそっと這わせて、やめた。

 彼は他の部屋を漁り、パイプ椅子を見つけてくると、それで壁を思いきり殴打した。

 木製と思しきそのドアが激しくたわみ、隙間を埋めていた石膏やパテがパラパラとこぼれる。

 30分ほど殴打を続けると、やっとドアにバスケットボール大の大きな穴が開いた。川島はそこに手を入れ、ドアノブを探した。果たしてそこに見つかったドアノブの鍵を開け、川島は扉を開いた。

 薄暗い部屋がそこに現れた。6畳ほどの部屋の窓は裏から打ち付けた戸板で完全にふさがれていた。

部屋に一歩踏み出した川島は思わず大きくえづいた。

 気のせいではなかった。あの腐臭がここは一段と濃い。魚と豚肉が腐敗したような臭いが混ざり合い、細かい粒子となって部屋に充満している。心なしか、部屋はじめっとしていて奇妙なほどに湿度が高く感じられた。

 本棚や机に埃が薄っすらかかっているのを見るに、もうここにしばらく立ち入ることはなかったのだろう。閉め切ってありとあらゆる隙間を埋められ、密閉された空間で、その臭気は逃げ場なく滞留していたのだと、川島は思った。

 あまりの悪臭に気持ちをそがれ、退散しようした川島は、壁に貼られたそれに目を止め、返しかけた踵を止めた。

 壁には写真が画鋲で打ち付けられていた。

 この家のリビングを映した写真が一枚。写真にはソファーに座った一人の女性が写っている。銀の長い髪をした老年の女性だった。年老いてはいるものの気品があるその女性は、顔立ちが整っているものの、どこか違和感がある。

 彼女の顔には表情がなかった。半開きの口でぽかんとどこかを見つめている。しかし、その視線の先には何もそしてそこに意思がないのは川島にも分かった。

 心のない入れ物になった女性。それが神宮寺の妻であると分かるのに、左程時間はかからなかった。

 写真は壁の至る所に貼られてあった。

 いずれの写真にもその女性が写っている。そのうちの数枚には、神宮寺が並んでいる物もあった。

しばし呆然と見つめていた川島は、あることに気づいた。

 日付だ。神宮寺の妻が死んだのは2年前。しかし、写真の日付は、ほんの1年ほど前の物だ。つまり、この写真はいづれも彼の妻が死んだ後に撮られた物なのだ。

「そ、そんな馬鹿な……」

 むんっと臭いが強くなった。突然の動悸で一気に空気を吸った川島は肺に充満した悪臭に思わず嘔吐する。昼に食べたサンドイッチがドロドロの液体になって床にぼたぼたと垂れた。

「くそ……」

 開いたままの口元から涎がだらりと床へ落ちるのを、無感情に川島は見つめた。フローリングの上でゆっくりと広がっていく川島の吐瀉物に、別の何かがぶつかった。

 それは、どこかから流れてきた吐瀉物とは別の液体だった。視線は反射的にその液体の源流をたどる。

 視線が行きついた先は、先ほど破壊したドアに走った亀裂だった。木製のドアの割れ目から、奇妙な液体がどくどくと流れ出している。液体はタールのように黒く、床を這うような粘度があった。

「なんだ、これ……」

 川島は少し顔を近づける。

 途端に川島は二度目のゲロをその場に吐き出した。部屋に充満していたその臭いの正体。それは、この真っ黒い液体だった。



つづく


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