第3話
川嶋はそれからも、神宮寺の元へ通い続けた。週に一度は必ず彼の家を訪問し、何を話すでもなくともに作業を続ける。
彼との距離は遅々として埋まらず、時には4時間の間、交わしたのは相槌だけ、という時もあった。
2人の距離とは対照的に、神宮寺は相変わらず、家の隙間を埋め続けて行った。
通い詰めているうち、川嶋はある一つの法則に気が付いた。一見、神宮寺は無意味に、無作法で無軌道に気が付いた隙間を手当たり次第埋めているように思える。
だが、埋められた隙間を見ると、ある一つの起点から放射状に彼は作業を行っているようだった。
起点。それをたどると、長い廊下を付き合った先に行きつく。
川嶋は最初、それが壁だと思った。廊下の突き当りは行き止まりの壁になって終わっていると思った。しかし、よく見てみると壁を縁取るように、パテで掩蔽した跡がある。
長方形に塞がれた隙間。それは誰が見ても、ドアがそこにあった形跡だった。
それに気が付いた川嶋は強烈な違和感を覚えた。他の部屋は作業が終わると同時にドアを取り払い、隙間を無くしている。一方で、この部屋だけはどういう訳か、完全に隠遁されている。その作業の丁寧さには何かの執着すら感じられる。異常な状態のこの家にあって、その完全に隠されたドアは際立っていた。
中に何があるのか。家中に漂う嫌な臭いが、余計な想像を掻き立てる。ここに彼の妄疾を解く鍵があるのではないか。好奇心半分、医者としての使命感半分で、彼はそのドアの前に立ち尽くしていた。
隙間はただの石膏パテで埋めているだけだ。硬いものをねじ込めば、簡単にこじ開けられるに違いない。
好奇心半分、医者としての使命感半分で川嶋は胸ポケットから、鉄製の万年筆を取り出した。
隙間にこれを突っ込めば。
鉄製の万年筆を持ち上げようとして、躊躇った。こじ開けるにしても、この万年筆を使うのはマズい……
それにもし、神宮寺に見つかれば。どう転んでも、全てが終わる。彼とのわずかばかりの信頼関係も、そして彼への治療も。
もしか、何かを隠そうとした神宮寺が自分を――
「何をしている」
唐突に聞こえた神宮寺の声に、川嶋の心臓はギュッと縮みあがった。彼は驚きのあまり、持っていた思わず万年筆を落とした。
肩をすくめ、その場に硬直する。激しく脈打つ心臓の痛みで、何も返答が出来なかった。
恐れていた事が起きた。これで、全てが終わってしまうのではないか。
「コーヒーが沸いた。早く来い」
不安は、神宮寺の一言で杞憂と消えた。
キッチンへ向かった川嶋は、神宮寺の淹れたコーヒーをすすって何とか胸の動悸を抑え込もうとした。
あの部屋を探ろうとしていることがバレたのではないか。そう思うと、神宮寺の姿を直視できず、川嶋は視線を逸らしキッチンとその向こうのリビングを眺めた。
冷蔵庫や戸棚の隙間は数週間前に埋められ、大きなシステムキッチンは蛇口の付いたただの台に退化している。リビングには隙間を作らないためか、ほとんど物が無く、石膏パテの袋や幾らかの資材が無造作に放って置かれているだけだった。
やがて沈黙に耐え切れず、川嶋は口を開いた。
「もうずいぶんと、埋めましたね。隙間」
神宮寺はパテで埋まった隙間の一つを指でなぞった。
「ああ。だが、もうすぐで終わる」
「終わる……?」
「そうだ。もう隙間を埋めなくてよくなる」
あの部屋の事が、川嶋の頭の中から搔き消えた。老爺の発言はそれぐらいの衝撃があった。
多くの場合、患者の異常行動それ自体に問題はほとんどない。異常行動の頻度が増えたり、パターンが複雑化していくことは、往々にしてあり、それは対処することが可能だ。最も危惧するべきなのは、その異常行動を患者が自らの意志で突然やめてしまう時だ。
患者と世界を唯一繋ぎ止めている異常行動を止めるという事はすなわち、世界との関わり合いを断つということ。つまり、それは患者が自らの意志を持って、死に向かっている証拠だった。
川嶋は動揺を隠すために、コーヒーを口に含んだ。
「それは……なぜです? なぜ、隙間を埋めなくても……?」
「見つかったんだよ」
神宮寺はため息を吐いて、静かに笑った。僅かばかりに上がった口角と口元にできた深い皺からは、寂し気な悲壮感が漂っている。
「隙間を完全に閉じる方法が」
「完全に閉じる……という事はつまり、もう奥さんは出てこないと?」
神宮寺はコーヒーに口を付け、頷いた。
「今まで付き合わせて悪かったな。だが、これでもう全て終わりだ。隙間が閉じられれば、君がもう来る必要はない」
いつになく言葉尻が優しい。彼はコーヒーを片手にジッと部屋のどこか一点を見つめていた。川嶋は反射的にその視線を追い、リビングを見回す。
「でも、どうやるんですか? 完全に隙間を閉じるって、またどこかをパテで埋めるんですか?」
「…………いいや、もう埋めたり塞いだりはしない。いわば、これまでのは応急処置だ。次は根源から断たなければならない」
「その、方法は……?」
それまで、虚空に投げていた神宮寺の目に色が戻り、スッと項垂れた。
「説明しても分かるまいさ」
神宮寺は流し台に、まだ半分ほど残っていたコーヒーを捨てた。
「さあ、帰った帰った。もう、お互いに用なしだ」
川嶋はリビングに積み上げられていた資材の山から目を上げた。
「神宮司さん……辛いのは分かります」
「なに?」
「奥様です。最愛の女性を亡くすことがどれだけ辛いのか、私にはよく分かります。だが、いつまでもその死にしがみついていてはいけない……」
神宮寺は眉をしかめた。
「人は他人の死を背負ってまで、生きてはいけないんです。神宮司さん、乗り越えてください! 奥さんの死を!」
神宮寺はフッと鼻で笑った。
「お前は何も分かっていない」
「分かります! 私も、妻を亡くしています」
神宮寺の表情にほんのわずか迷いが混じった。しかし、すぐに彼は迷いを消し去り、相変わらずの仏頂面に戻った。
「帰りたまえ、君には分からん」
「お願いです、私に出来ることなら――」
「一つだけ……一つだけ忠告しておこう」
神宮寺はキッチンから出て、川嶋へ帰るよう促した。
「同じ愛する妻を亡くしたもの同士、死者を追ってはならない」
それが、神宮寺との最後の会話だった。家の外へ叩きだされた川嶋はすぐさま、病院へ連絡した。
「すぐに職員を5人ほどよこしてくれ。大至急だ」
川島はスマホを耳に付けたまま、屋敷を見つめた。リビングに積み上げられていた資材。そこにあったものを、彼はぼんやりと思い出した。
山積みになった肥料と、短くカットされた鉄パイプの筒。そのすぐそばには、すり鉢で何かを調合しているような形跡があった。
肥料から硝酸やその他の科学物質を取り出し、爆弾を作ることなど、ある程度の知識があればだれでも出来る。科学に精通した神宮寺ならば、尚更。
彼は憑りつかれた妄想のまま、家ごと爆破するつもりなのかもしれない。
最悪の結末は何としてでも、避けなければならなかった。
つづく
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