第2話
神宮寺が妻を亡くしたのは2年前。
癌だった。
見つかった時には既にステージは4まで進行しており、治療や延命は選択肢にすらならない状態だった。
思えば、最初のきっかけはその時だったのかもしれないと、彼の息子は川嶋に語った。
それまで家庭を顧みず、仕事一筋、家事洗濯など一切してこなかった彼は、妻の病気を機に人が変わったように看病を始めたのだという。
しかし、癌は彼の妻の体をみるみるうちに蝕み、約1年半の闘病の後、死亡した。当初は3ヶ月と言われた余命を大きく上回る長い、闘病生活だった。
人は誰しも、他者の死に好意的な意味を与えたがる。彼の息子や周りの人間は、これまでの夫婦の疎遠ぶりを取り戻すような最期だったと語った。そう語ることで、病魔による悲劇を少しでも和らげ、咀嚼しようとしたのだ。
だが、神宮寺自身はそれを咀嚼しなかった。いや、出来なかったのかもしれない。
現実は料理と同じだ。処理しなければ、腐ったままそこに残り続ける。飲み込み切れなかった妻の死と言う現実は、神宮寺の中で発酵し、現実に干渉し始めている。
例えばそれは、“隙間から妻が出てくる”というような妄想として――
1時間ほどの作業を終えた後、神宮寺は台所でコーヒーを出してくれた。マグカップに入った熱いコーヒーをすすって、川嶋は神宮寺の言った言葉の意味について思案した。
「奥さんが、出てくるというのは……言葉通り、奥さんが部屋の隙間から……?」
「厳密にいえば、5.7ミリから1.2センチまでの隙間だ」
冷静に神宮寺は答える。
「その隙間から、奥さんが出てくると」
神宮寺は虚空をじっと見つめ何かを考えた後、口を開いた。
「…………お前に言っても分からん」
川島は冷ますようにコーヒーに息を吹きかける。すぐには返答しなかった。部屋を眺めるふりをして、少しの間、言葉を選んだ。
「しかし、それが事実ならとんでもないことですね」
受容することが何よりが大事だ、神宮寺をチラリと見て川嶋は思う。頭ごなしに否定するのではなく、一旦相手の主張を受け入れる。異様な幻覚や妄想の中に、当人の抱える心の闇の答えが潜んでいることは往々にしてある。隙間から死んだ妻が現れる、現実にはあり得ない妄想の中にこそ、神宮寺の抱える純粋な問題やトラウマが埋まっているはずだ。
「奥さんは何のために、隙間から現れるんです?」
神宮寺はコーヒーに口を付けて、笑った。
「お前は精神科医だったな。俺が狂ってると思ってるだろう?」
神宮寺の喰った様な表情にも、川嶋は動じることはなかった。彼は老爺の顔を見据えて、しっかりと頷く。
「正直な話、私はそう思っています。ただ、確証が持てない以上、それは私個人の感想であって事実ではない。種類は違えど、同じ研究者です。確証の持てないものを私情で否定したり、肯定したりは、少なくとも私はしません」
落ち着いた口調でそう言い切ると、神宮寺は返答に困ったように再び、虚空へ視線を逃がした。
「…………知った様な口をきくな」
「何があったのか、詳しく教えて頂けませんか?」
結局その日の会話はそれで終わりだった。病院へ帰った川嶋は診断記録を書き付けながら、深いため息を吐いた。たった一日ですべてが解決するとは思っていない。だが、それでもやはり、無視され追い出されるのは気持ちのいいものではない。
「お疲れですね、先生」
ため息を聞かれたのか、看護師の
「あ、ああいや、まあ……」
川嶋は曖昧な返事を返した。
「なんかありました? 患者さんに酷いこと言われたとか」
「いいや、そうじゃないんだが……まあ、ちょっとね……」
真紀は書きかけのカルテを覗き込んで、興味深そうに感嘆の声を漏らした。
「例の物理学者のおじいさんですか?」
川嶋は黙ってうなずく。
「まさか、また何時間も話し込んできたんですか?」
「まあね」
「先生も優しいですね。高田先生なんか、薬渡してハイさよならなのに」
川嶋は苦笑する。
「優しいも何も、それが僕の仕事だからね」
「いやぁ、仕事でも嫌なものは嫌ですよ。だって、川島さん毎週通ってますよね、この神宮寺って人の所。どうして、そこまでこの人にこだわるんですか?」
「どうして、か」
川嶋はデスクチェアに背を預け、頭の上で手を組んだ。
「同じなんだよ、僕と」
少し考えた後、彼はぽつりとつぶやいた。
「同じ?」
「ああ。この神宮寺さんも、私と同じで妻を亡くしている」
「あ……」
それまで陽気だった真紀の顔が硬くなる。
気にするなという風に真紀に微笑み返し、川島は天井をぼんやりと見上げた。
「僕も、妻が死んだあとは相当心が不安定だったから。他人事とは思えなくてね」
妻の死因は事故だった。買い物帰り、横断歩道を渡ろうとしていた時に信号を無視したダンプカーに轢き殺されたのだ。
物理的な準備はもちろん、心の準備など考えていなかった。朝、気を付けてと言って送り出してくれた人間が、夜には死んでいる。それはあまりにあっけなさ過ぎて、現実感がまるでなかった。
激しく動揺し、現実を受け入れきれなかった彼は酒に走った。四六時中アルコールで感覚を麻痺させ、現実を遮断した。だが、それでもほんのわずかな正気の隙間に妻の思い出が顔を出す。現実があふれ出し、視界と思考を染めてしまう。その度に川嶋は怒り狂い、そして悲しみに飲まれ、それを忘れようと更に酒を煽った。
川嶋はあっという間に壊れて行った。
「私が立ち直れたのは、職場の人間や友人のおかげだ。彼らに励まされ、元気づけられることで、僕は妻の死を受け入れ、乗り越えられた。しかし、この老人にいないんだ。一緒にその長く険しい山を越えてくれるシェルパが。愛する人の死を受け入れることは耐え難い苦痛を伴う。僕も、1人ではとても無理だったろう。だから、僕が一緒に乗り越えてやりたいんだよ」
真紀は口を結んで頷く。
「まあ……私情を挟むのは本来ご法度なんだけどね……」
川嶋は静かに笑った。
「越えられそうですか……? その山は」
「少し険しいかもしれないが、きっと乗り越えられるさ。…………いや、乗り越えなきゃいけないんだ。人は他人の死を背負って生きられる程、丈夫じゃない」
川島はペンを固く握りしめる。頭の中に浮かびかけていた妻の残像がフッと消えた。
つづく
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