隙間

諸星モヨヨ

第1話

 その部屋は完全に密閉されていた。部屋の隙間と言う隙間はパテで埋められ、家具が作り出すような、ほんのわずかな間隙すらない。そのせいか、部屋の空気は滞留し、埃っぽくくぐもっている。

 ずっとここに居たら、窒息してしまうのではないか、

 部屋の入口に立った川嶋かわしま 智之ともゆきはふとそんなことを思った。


 密閉されたこの部屋を作り出したのは、この家の家主、神宮寺じんぐうじ 蘭丸らんまると言う老人だった。彼が、元々は普通だった一つの部屋の隙間を石膏パテで埋めてしまったのだ。

 齢70になるこの男は大工でも、職人でもない。その仕事は煩雑で、処理が甘く、周囲の壁との色味もぐちゃぐちゃで歪。おおよそ部屋を機能的にリフォームするために行っているのではないことは明らかだった。それでも、その老人は何かに憑りつかれたように部屋の隙間を埋めることに終始していた。

 執着的行動。特定の行動に何らかの意味を見出し、異常なまでに執着する。精神科医の川嶋はこれまでも、こういう症状を持った患者を何人も見てきた。特別珍しいものでもない。

 問題はその症状よりも、患者とどうコンタクトをとるのかという事だった。

 しばらくの間、川嶋はドアの前に立ち、目の前で黙々と作業を続ける神宮寺の姿を見つめていた。


「黙ってみてないで、手伝ってくれないか」

 最初の第一声を考えあぐねていると、唐突に神宮寺の方から声を掛けてきた。

 軽く返事をして、川嶋はスッと老人に近づいた。

 瞬間、ムワッとした濃ゆい空気の層が彼の体を包み込んだ。彼は咄嗟に鼻に手を当てる。

 空気の流れが消えている所為で分からなかったが、部屋の奥には凄まじい腐敗臭が充満していた。

 肉と脂が腐ったような臭いの中に、汚物とアンモニアの臭いが混ざり合っている。淀んだ腐敗臭は堆積するゴミのように濃縮され、最早何から発している臭いなのかが分からなかった。

 鼻に手を当て咳き込みながら、川嶋は部屋の奥に積まれた黒く濁ったバスタオルを見つけた。彼はすぐに事情を理解する。

 精神疾患に罹患した人間の一部には、汚物や穢れに対して、極端に無頓着になってしまう人がいる。他の事は普通にこなすことが出来ても、ある一つの事だけが常識から逸脱してしまう。それを頭ごなしに否定し指摘するのは、初手としてはあまりに悪手だ。

 川嶋は一度咳払いをすると、喉の奥から込み上げて来ていたものを無理矢理飲み込み、老人の作業を手伝いはじめた。

 今、彼が埋めに掛かっているのは壁に沿って配された本棚だった。棚と壁との間にできた隙間に、白いパテを塗り込んでいく。既に乾いたものは、なるべく壁との接地面が滑らかになるようにヤスリ掛けをしていく。

 本棚には、物理学や量子力学の本が並んでいた。

「神宮司さんは、物理学者だったんですよね?」

 神宮寺は何も答えず、黙って作業を続けている。川嶋はそれでもかまわずに続けた。

「量子力学とかってよくわかんないですけど、ロマンがありますよね。別の世界があるとか、波動関数とか」

 学者肌の人間が、精神に異常をきたすというのは、珍しい話ではない。頭の良さと脳への過度な負荷やストレス、認知力の増大が、時に日常生活を崩壊させるのかもしれない。

 その聡明さは時に身を滅ぼす。

 天才と狂気は紙一重だ。ある日の、ほんの何気ないボタンの掛け違いが、天才を狂気に転がり落とす。

 神宮寺の治療を頼まれたのは、1ヶ月ほど前。実家の父がおかしくなってしまった、そう彼の親族に相談されたのが始まりだった。

 ある日突然家の隙間を埋め始め、何を言っても取り合わなくなった彼をどうにかして欲しい、疲れ果てた顔をした彼の息子はそう川嶋に言った。

 彼の家族は即時入院させ、治療することを希望していたが、自傷や加害などの症状がない限り、本の了承なしに強制入院させることは出来ない。

 川嶋にできるのは、定期的に神宮寺の元を訪れカウンセリングすることぐらいだった。

 患者とのカウンセリングは根気との勝負だ。ある日突然、患者が心を開き、苦しい胸の内を打ち明けてくれるという事は決してない。特に神宮寺のような患者の場合、無理に会話を試みたり、説得しようとすれば、かえって拒絶を招く可能性がある。少しずつ、自分の存在を相手に受け入れさせ、まさに牛の歩みで懐に潜り込んでいくことが重要だった。

「そこもヤスリ掛けをしてくれ。ぴったり、壁との境を作らないようにな」

 神宮寺は自分の作業を続けたまま、川嶋に指示を飛ばした。彼の口ぶりとその表情を見た川嶋は、今日はもう少し踏み込めるかもしれないと思った。

「一つ、聞いてもいいですか?」

 当然のように応答はない。彼は黙って手を動かし、パテを隙間に練り込んでいる。

「どうして、隙間を埋めてるんですか」

 心臓が自分の思っている以上に激しく脈打った。踏み込み過ぎたか。核心を突き過ぎたか。様々な感情が頭の中を駆け巡った。

 沈黙の中に神宮寺のため息が響く。彼はにちゃりと音を立てながら口を開いた。

「妻が、出てくるからだ」

 神宮寺は平然とそう言い切った。



つづく

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