璃国妖貴妃伝

青造花

序章

(一)


 璃国りこくの後宮には、誰もが怖れる貴妃がいる。

 ついと人差し指を躍らせるだけで、気に食わぬ者の首を刎ね飛ばす。奸臣かんしんと見做されたら命はなく――たとえ百本の矢で射抜こうとも殺せない。

 人ならざる美貌と邪悪な力を持つ貴妃に、皇帝は異様なまでに魅入られ溺れていた。

 怖るべき貴妃の噂はみるみる傾く国内に広がり、やがて人々は彼女をこう呼ぶようになる。

 〝妖貴妃ようきひ〟と。

 稀代の悪しき傾国、妖貴妃の真名は――。



           ❖



「――よう紫歌しか、そなたに肉刑を言い渡す。我が璃国に妖魔を呼び寄せた罪、その足をもって償うがいい」


 ひと思いに殺してくれたらどれほど楽だったか。身に覚えのない罪で両足を切断された紫歌しかは、暗く冷たい牢房の床で泣き濡れた。


(陛、下……)


 まなじりを伝ったしずくが血溜まりに落ち、交ざる。

 とめどない涙は痛みによるものでなく、悲しみと絶望から生まれていた。


『おいで。私の可愛い蝶』


 夜ごと紫歌を寝所に召し、そのからだに睦言の雨を降らせてくれた皇帝の寵愛が失われた。近年、異様に数を増し、人を襲い続けている妖魔――それを招いている元凶が紫歌であるとして。

 けれどそんな事実はない。魔物と通じ、国を脅かそうなどという魂胆も。ただがいるだけで、誰かを害する気なんてなかったのに。


「無様ね。調子に乗った罰よ、よう昭儀しょうぎ


 しゃらしゃらと豪奢な歩揺の音を従えて、金糸の刺繍きらびやかな襦裙をまとった女が現れた。

 てい貴妃だ。皇帝に見初められ、後宮入りしたその日から昭儀九嬪の地位を与えられた紫歌を妬み、危険視していた妃。彼女が踊るようにかろやかな足取りで牢房に踏みこんできたとき、紫歌は自分を陥れた者の正体を知った。


「あなた、が、わた、しを」

「ふふ。そうよ。あっけなく捨てられたものね」


 鄭貴妃はたおやかに笑った。


「姚昭儀……あなた、男と密会していたでしょう」


 思わず息を呑む。気をつけていたつもりだったが、まさか見られていたとは。

 彼女の言う通り、紫歌は時折、深夜の中庭である青年と会うことがあった。ひそかな想いびと……というわけではなく友人に近い関係の相手だ。しかしそれを目撃した鄭貴妃は、紫歌を嵌める口実にしたという。


 ――陛下、あの者は男と内通しています。

 ――信じられないのであれば御身自らで、お確かめください。


「知っている? 強すぎる愛は転じると憎悪になるそうよ。あなたに裏切られたと誤解した陛下は……姚紫歌こそ妖魔を呼び寄せる魔性の悪女だ、という私の嘘も信じたわ」


 涙と血にまみれた紫歌の顔を、鄭貴妃は満足そうに見下ろした。


「あなたの綺麗な顔が憎かった。憎くて憎くて……けれど、それも今日で終わり」


 彼女が懐から小瓶を取り出す。横たわる紫歌の顔、左半分に勢いよく何かの液体がかけられた。浴びたそばから皮膚が焼けただれ、激痛が走る――酸だ。

 両足を失った娘のからだは血を流しすぎていて、このまま放っておけば確実に息絶えると誰の目にもわかる。そんな紫歌に、鄭貴妃は追い打ちをかけたのだ。醜い姿で死ぬようにと。


「ふふふ……! ああ、なんて素敵な夜!」


 空になった小瓶を放って鄭貴妃は去った。

 牢房のなか、紫歌はひとり苦しみにあえぐ。

 生きたまま火に巻かれているかのような痛み――だからだろうか、眼裏まなうらによぎった走馬灯は炎の記憶からはじまっていた。


(わたしもあのとき、死んでいれば……)


 没落した生家。思いつめた顔の両親。彼らは家に火を放って一家心中を図ったが、幸か不幸か紫歌だけが死に損ね、生き残ってしまった。

 そのあと養父母となった老夫婦は紫歌の長い黒髪を丹念にくしけずり、華やかな衣服を与えて育ててくれたが、けっして愛されていたわけではない。美しく成長した娘が皇帝の目にとまれば金になる、箔がつくと……ふたりの胸中はそれだけだった。

 やがて紫歌は王宮へ送られ、女官となり、すぐに妃嬪として後宮に召しあげられることになる。養父母の目論見通り、母譲りの美貌をあっさりと皇帝に見初められたのだ。


(……何も、考えられなくなってきた……)


 足の感覚はとうにない。寒くて寒くて震えがとまらず、呼吸をするのもやっと。まばたきの力さえ次第になくなって、視界が暗くなりだした、そのとき。


「だから言っただろう。紫歌」


 ふと耳朶を打った、怖ろしく玲瓏な声。


「毒の花園から救ってやる。人などに懸想するのはもうやめて、僕を選べと」


 音もなく、格子の内側にひとりの青年が現れた。

 明かり取りから差しこむ月光が、壁に背を預けた青年の輪郭を照らす。

 無造作に切られた黒髪、黒曜石を思わせる黒い瞳――闇を塗り固めたような彼こそ、中庭で密会していた相手であり、紫歌が関係を持つ妖魔であった。


こう……」

「ずいぶん手酷くやられたね。君を痛めつけた奴ら全員、殺してきてあげようか?」


 後宮入りした夜に出会ったこの妖魔はなぜか紫歌を気に入っていて、たびたび物騒なことを言う。人のかたちを取り、人語を操る彼は間違いなく上級の魔物。頷けば本当に仇を討ってくれるかもしれないが……紫歌は力なくかぶりを振った。

 怒りに燃えているわけでも、憎しみを抱いているわけでもない。ここは後宮。女の園。自身に降りかかる不幸のすべては争いに敗れた結果だ。

 ただひとつ、願いを口にするのなら――。


「もう、一度」

「…………」

「もう一度、陛下に、愛、されたい……」


 足を切断された痛みより、顔を焼かれた痛みより――最愛のひとに抱きしめてもらえなくなった心の痛みが上回っていた。

 狂っているのだろうか。それでもかまわない。


『おまえさえいてくれるなら他には何もいらない。こんなにも誰かを愛おしく想うのは、初めてだ』


 熱のこもったまなざし。

 からだじゅうに落とされたくちづけ。

 愛していると幾度もささやいてくれた、あの声。

 皇帝の寵を競って悲惨な目に遭ってもなお、紫歌は彼に与えられた無上の喜びを忘れられなかった。


「あのひとに会える、なら……なんだって、する」


 思えばずっと、飢えていたのだろう。充分な愛を得られぬまま生きてきた身に突如としてそそがれた愛は、毒のごとく回るもの。ひどくかつえた獣が生まれて初めてありついた、肉と同じ。


「……叶えよう。それが君の願いなら」


 微笑んだ夜香が血溜まりに膝をつく。

 赤く濡れた紫歌のくちびるに、死体を思わせる彼の冷たいくちびるが重ねられた。途端、強大な妖力が容赦なく流れこみ、いかずちに打たれたかのような衝撃が紫歌を襲う。


「あ、ぐっ……!」

「僕の妖力の一部をあげる。大丈夫、死なせはしない。顔の傷を癒そう。欠けてしまった美しい足も、新しくつくろうか」


 耐えがたい苦痛に紫歌は絶叫した。暴れるからだを夜香に優しく抱きかかえられながら。

 蛇が体内に侵入し、皮膚の下を這いずり回るような悪寒。激痛。細胞があまさず喰い潰されて、得体の知れないものに作り替えられていく……。





 月下美人が蕾をひらく、年に一度の特別な夜。

 皇帝と妃嬪が中庭につどい、花を愛でながら宴をするのが恒例のこの日、四阿あずまやでは食事の支度が整っていた。馬車で届けられたばかりの瑞々しい茘枝ライチ、燕の巣やふかひれといった山海の珍味、そして酒。

 皇帝の座る椅子を取り囲み、思い思いに着飾った麗しい妃たちが談笑している。その穏やかな空気がふいに、裂かれた。


「え……」


 それまで楽しげに囀っていた妃嬪たちが、戸惑いの声をあげる。四阿あずまやの入り口に立ったひとつの人影――漆黒の襦裙をまとった、紫歌を見とめて。


「う、嘘」

「死んだのではなかったの……?」


 紫歌が黙したまま一歩踏み出すと、妃嬪らは悲鳴とともに一歩あとずさる。人だかりが割れる。

 あけられた道は、皇帝と鄭貴妃が並んで座る場所に続いていた。紫歌に気づいた鄭貴妃はあきらかに動揺し、逃げようとしたのか椅子から落ちる。

 怖れるのも無理はない。何せ紫歌の黒髪は艶やかになびき、紫の瞳には光が宿り、くちびるは珊瑚のように生き生きと色づいているのだから。


「姚……昭儀……!?」


 漆黒の裙の裾からはふたつのくつが覗き。

 焼かれたはずの顔にも傷ひとつない。

 元通りの姿で現れた紫歌を前にして、彼女の死を知らされていた妃嬪はもちろん、鄭貴妃がおののいた。


「な……なぜ、生きて……っ」


 どよめきには耳を貸さず、紫歌は皇帝を見つめる。亡霊に会ったように驚愕している男を。

 夜香の力と交わったせいか、肉体の主導権を夜香に握られたように紫歌の意識は霞みがかっていた。強い妖力を分けられたのだ、まだからだに馴染んでいないのかもしれない――朧げな紫歌のくちびるはけれど、たしかな意思のもと弓なりに持ちあがる。

 たおやかな笑み。だがその姿は、闇をまつろわせているような不穏な気配を孕んでいて。


「……素敵な夜ですね、皆さま」


 それは、まさしく魔性の。

 人ならざる者にふさわしい、凄絶な微笑だった。


「遅くなりまして申しわけございません。姚紫歌、ここに参りました」


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