琥珀国墨夜伝 外伝

紙屋ねこ(かみやねこ)

紅騎と巡る冥界と泰山府君のささやかな策略[短編]

 ――極光の美しい光が闇の虚空に揺らめいていた。


 大屋根を持つ殿宇でんうの入り口には見事な細工が施された階段があり、門柱には闊達な崩し字で対聯ついれん――対になる詩句が書かれている。あいにくと文字は読めないので、なんと書いてあるかはわからない。

 しかし、この屋敷の主はずいぶんと書が好きなのだろう。あちこちに題辞や詩句が書いてあった。


 ついぞ見たことがないほど豪奢な御殿には吊り灯籠の明かりが灯っているものの、どこまでもひと気がない。

 高位の貴族か地方刺史のお屋敷だろうか。追い払われたらどうしよう。

 そもそも、自分はなにをしにこんなところに迷いこんでしまったのだったか。首をひねって立ち尽くしていると、


「おい、裁判を行う白砂は向こうだぞ。死者は御殿の奥に入るな!」


 驚かせようというのだろう。槍の石突きの音を派手に立てて、厳しい叱責が飛んできた。

 紅色の長衣に鎧をまとった衛士だ。結ってある以外は長い黒髪を背中に流している。

 口調は厳しかったが、凜々しい顔立ちには思わず見蕩れてしまっていた。


「死者……でございますか? 私がですか?」


 とまどいながらもほかにどうしたらいいかもわからない。追い立てられるようにして、門の向こうへ向かうと、


「嫌だ。まだ死にたくない……こんなのは嘘だ」


「私は悪くないの……だって先に手を出したのはあっちなのよ。ただ黙って没落してくれればそれでよかったのに!」


 悲鳴や叫び声が怒号のように混じり合う場所だった。白砂のうえにいる者たちはいったいなんなのだろう。口々に恨み言を連ねており、あまり近づきたくなかった。


 一歩下がり、ここは自分の目的地ではないと思っていると、


「それは幽鬼ではないぞ、紅騎こうき


 恨み言とは違う響きのいい声が聞こえた。

 はっと顔を上げると、そこには豪奢な衣装を身に纏い、長い髪を背に垂らしながらも無数の簪を挿した美丈夫が立っていた。


 紅騎と並び立つと美丈夫がふたり顔を寄せて話す姿が眼福である。周囲で叫ばれている恨み言も忘れてしまいそうだった。


泰山府君たいざんふくん、こちらにおいででしたか。白砂に集まってきた死者どもは城隍神や土地公のもとへ差し戻しますので、まだおやすみください」


 泰山府君という名を聞いて、はっと頭を垂れたかと思うと、流れるように足下にひれ伏し、叩頭礼をしていた。

 冥界の王、人間の運命を司る神である。お目にかかる日は自分が死ぬときだと思っていた。まさかこんな形で邂逅する日が来るとは夢にも思わず、また一瞬、目にしただけの相貌の、あまりの美しさに目が潰れる心地がした。


「どこの神の使いだ?」


 これは神の術なのだろうか。詰問するのではなく静かに問われ、まるで霞がかかった頭が晴れるように、自分がここに来た理由を思いだした。


「は、はい。実は運京に出向くのに城隍神じょうこうしんに旅の安全祈願をしておりましたら、こちらに分祀された泰廟たいびょうがあるから手紙を届けてくれと、天河省は燕雲の河伯から使いを頼まれまして……こちらがその手紙でございます」


 胸元に大切に仕舞っていた手紙をひれ伏したまま両手で差しだす。すぐに手紙の重さがなくなり、かさかさと封紙を開く音がした。


「なるほど、使いを人間に頼んだということですか」


 紅騎と呼ばれた青年は感心したように言ってそれ以上追い立てるような仕種を止めた。一方で、冥府の主・泰山府君は手紙を見て頭を抱えている。


「はぁ……また面倒な……」


 自分のごとき矮小な人間にはわからないが神には神の事情があるらしい。ちらりと顔を上げると、美しい面を思いきりしかめていた。泰山府君はとても偉い神様なのに、その表情はひどく人間臭い。


「紅騎、この人間を食事でもとらせてもてなしてやれ。西の門から帰してやるんだぞ。それから河伯には丁重な断りの手紙を書くように」


「私がですが? 具合の悪い泰山府君のおそばを離れるのは気が進みませんし、私は手紙の類いはあまり得意ではないのですが……」


 神の側仕えをする仙ではあったが紅騎はどちらかというと、武術を得意とする。主からの頼みとは言え、難色を示していると、


「ああ、そうだ。いいことを思いついた」


 泰山府君は人を惑わせるほどの艶冶な笑みを浮かべ、思いもかけない提案をしたのだった。


       †      †      †


 その店は泰廟がある小山の陰にある。

 入り口には、『灰塵庵かいじんあん』という扁額が掲げられていた。


 ――『万事、代書うけたまわります』


 力強くも自由闊達な文字で書かれた木板の看板が、看板を吊す麻紐に絡めた鬼灯とともに風に揺れている。


「なぜ……わたしが見知らぬ女性を均扇楼きんせんろうでもてなさなくてはならないのです?」


 案内された先にいたのはまだ幼さえ残る若い娘だった。しかし、交領の胸元をきっちり閉じた襦裙を纏い、上着まで羽織った姿はきちんとした家の令嬢であることがうかがえる。

 どうやらここは代書屋らしいと、店のなかに掲げられた格言の額や掛け軸を見て判断する。

 

藍夏月らんかげつ、おまえは泰山府君の部下だろう。泰山府君の命に逆らうのか?」


「泰山府君の部下って……わたしをなんでもかんでも引き受ける便利屋屋だとお思いですか?」


 なにやら行き違いがあったのだろうか。

 ここまで揉めるぐらいなら、もう自分の親戚のほうへ顔を出したいのだが――と考えながら、どこで口を挟んだものだろうと悩んでいると、紅騎と呼ばれていた青年が自分の持ってきた手紙を少女の前に差しだした。


「この手紙に断りの返事を出しておくようにと泰山府君は仰せであった。もちろん、均扇楼のお代もこちらで持つ」


 その台詞を告げた途端、少女の態度が一変した。


「まぁ……仕事の依頼でしたら先にそう言えばいいのに。本当に紅騎は言葉が足らないんだから……ささっ、では均扇楼に参りましょう。どこか遠くからいらしたのですか。運京の名物を食べずに帰したら運京人の名折れですからね」


 代書屋だという少女――藍夏月はさきほどまでの剣呑なやりとりなど嘘のように、にこやかな顔で接待してくれたのだった。


 ――さきほど、冥府で泰山府君はこう言ったのだ。


「紅騎、『灰塵庵』に行ってこい。現世の金を持っていき、いつもの酒楼で食べさせるように代書屋に頼むといい。ついでに断りの手紙を書かせれば、あの娘はふたつ返事で引き受けるだろう」と――……。


 案内された酒楼で、おいしい鍋をつつきながら、少しだけ泰山府君にその心を見透かされている少女に同情してしまった。


 ――げにおそろしきは運命を知る神なり、といったところか。

〔終わり〕




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