人の暮らし
「………………んが!?」
何か大声が聞こえた気がして目を覚ました。部屋と外を区切る障子戸は白く光っており、夜が明けている事だけは、ぼやけたままの視界でも分かった。
「天麩羅がどうかしたのか?」
声がした方を振り返ると、壁にもたれるようにして竜胆が座っていた。最後の記憶では出ていったはずだったが。
「天麩羅? 何の話です?」
「『天麩羅!』そう叫んで飛び起きたのは君だぞ」
そんな事を言われても、夢を見ていた覚えも無い。
「あー。食べてみたいんですよね、天麩羅」
もぞもぞと布団から這い出しながら適当にはぐらかす。麦の粉とか、食材が浸るほどの油とか、想像もつかない。どんな食感なんだろう。
そうして竜胆に促されるままに部屋から出て、昨夜とは来た道を辿って縁側をしばし歩く。明らかに椿の為と思われる柿色の着替えを抱えているのに、渡してくれない事を疑問に思いながら。
疑問で終わらせずに、問い質すべきだったとすぐに思う羽目になったのに。
「川の! 方が! マシだった……!」
大きな桶に用意されていたのは身体の汚れを落とす為の水で、それは勿論有り難かったのだが地下で痛いほどに冷やされた井戸水は、山の上で浴びた川の水よりも尚冷たかった。今は寝起きで布団の温もりを身体が覚えていたことも災いした。
冷たさに耐えきれずに烏もかくや、という速さで行水を終えた椿は竜胆の抱えていた着物をひったくり、ろくに水気を拭き取らずに頭から被って震えていた。
遅れて、昨夜は姿が見えなかった寺の者と思われる少女が手拭いを持って現れたが、遅きに失した手拭いを持ったまま立ち尽くしてしまっていた。さらに遅れて現れた寺の主は、その光景を見て全てを察したように禿頭を掻きながら、申し訳無さそうにした。
「すまん、人間は住んどらんから薪の用意が無くてな」
「寺なら火鉢的なものがあるでしょう! はやく!」
椿の言う『火鉢的なもの』というのは、つまりお焼香だったり線香を焚く為のものだったことがすぐに判明し、怪異達に囲まれて『罰当たりだ』と説教されるという、自分が悪いのにいまいち釈然としない事態となった。
「だって……お寺なんて初めて来たんですから分かりませんよ……」
少しだけふてくされながら火鉢(ちゃんとあったし、薪はなくとも炭もあった)にあたる。手拭いを持ってきた少女が、無言のまま背後に回って髪を拭ってくれるのを居心地悪そうにしながら。
「あの、自分で、やりますから、手拭い、下さい」
やや無遠慮に――多分、慣れていないだけ――髪を掻き回され、言葉が途切れ途切れになる。ずっと一人きりで、自分の世話を自分でしてきた椿はむず痒さと気恥ずかしさに苛まれていた。自分と同じか、恐らくは年下相手なのでひとしおだ。それを知ってか知らずか、少女は無言のままひたすら椿の頭を手拭いで撫で回す。
少女の保護者であろう僧侶に助けを求めるが、笑顔で首を横に振られてしまう。
「させてやってくれ。その娘は人間の世話をしたがる性分でな」
「この子も、怪異なんですよね?」
満足してきたのか、毛先を手拭いで包むように拭き始めたので少しだけ振り返って様子を伺う。
「名前は聞いても?」
「無い。……この寺に住む怪異は儂以外は名無しだ」
ちらっ、と背後を伺っても名も無き少女は顔色一つ変えずにいる。というか、改めて見るといやに青白い肌をしており明らかに人の肌色ではなかった。
「この寺はな」
竜胆が口を開いた。
「僕みたいな――いや、僕なんぞよりもっともっと脆弱な怪異を、坊さんが匿ってるんだ。実態としては寺というより幽霊屋敷だな」
ぞんざいにこの寺の事を説明した竜胆の頭を、その主が軽く叩いた。軽くとは言え、大柄な身体から繰り出された平手は、頑強とは言い難い竜胆の首を大きく傾げさせたが。床に叩きつけられそうになった竜胆の襟首を掴んで引き戻しながら、坊主が続ける。
「ほとんどの奴は、まともに形を作ることもままならん。特に、昼間にはな。明るい所で人の形になれるのは、今はこいつだけだ」
椿の髪が乾いて満足したらしい名無しの少女、もとい怪異は丁寧に手拭いを畳んでその場に正座してしまった。真後ろに座られて居心地の悪い椿は、慎重に回転して左半身を火鉢に、右半身を怪異の少女に向けた。
「こんにちは」
恐る恐る、声をかけてみる。竜胆や元酒吞童子が平気だっただけで、怪異に対する恐怖心は、ある。その二名は意思の疎通が可能で、それによる安心感は計り知れないのだ。
ゆっくりと椿へ向けられた瞳はやはり生物のそれとは異質で、岩や木にむけて話しかけたような錯覚さえしてくる。
「嬢ちゃん、椿嬢。すまんが、その子も喋るのは難しくてな」
僧侶が苦笑いをじんわりと浮かべる。
「嬢ちゃんの言う事は理解するし、悪さはせんから世話役として側においてやってくれんか?」
それは勿論、構わないが……。それにしても、だ。
「ましろちゃん、です」
一緒にいるのは構わない。けれど、呼び名が無いのでは困る。
「その、白い手拭いと同じです。あなたのこと、ましろちゃんって呼びますね」
視界の隅で竜胆が深々とため息をついた。名付けの閃きについて貴様に呆れられる由はないぞ?
……ないけど。
「……いやだったらごめんなさい。あなたの事、何も知らないし、何から生まれた怪異なのかとか、」
「私は、」
唐突に鈴の音のような、小さな声がした。耳元で囁かれたようにも、遠くやまびこのようにも聞こえる不思議な声。
「私は、人間の、『漠然とした不安』から、生まれました」
しん、と皆が静まり返った。椿は眉尻を上げ下げしながら酒吞と竜胆を交互に見ていた。竜胆はぼさっとした前髪越しに酒吞を、どうやら険しい目つきで見ており、当の酒吞は固く目と口を結んで腕組みをしていた。喋れない、とされていた怪異の少女は確かに言葉を、椿の問いに応えたかと思えば、それきり元通り沈黙してしまった。
鼻から大きく息を吐いた酒吞がゆっくりと目を開ける。椿は真正面から瞬きもなく目を合わせられ、この時になってはっきりとこの男が間違いなく伝説となった怪異の王である事を戦慄と共に理解した。
そんな椿の心中とは裏腹に、酒吞はふっと相貌をくずす。
「良かったな。一応は会話も出来るようになったじゃねえか。仲良くしてやってくれ」
「待って! どうして喋りだしたの? 進化しちゃうんですか? Bボタンは!?」
困惑したままの椿を置き去りにして部屋を出てしまった。追いすがろうとした椿の着物の端を、『ましろ』がはっしと掴んで止めてしまう。
「椿、様。朝餉、あります。こちら、どうぞ。来て」
朝からとびきりの冷水を浴びせられた事もあり期待してはいなかったが、それでも比較的人間らしい朝餉だった。ほとんど粟ばかりの飯に焼味噌とたくあん。人の子がいない寺としては十分以上だろう。なにより、賞味する椿自身が大喜びだった。
「おいしい! おいしいですよこれ。こんな食事が世の中にあるなんて!」
「……僕が集めてきた木の実は不満だったかな?」
なぜか竜胆も、食べもしない朝餉に付いてきた。
「いえいえ、村ではささみばかりだったので素直に新鮮なんです」
言いながら飯をかきこむ様に行儀が悪い、と注意したくなるが、それはおいおいで良いだろう。
「……………木の実が許されればヨシ、ではありませんからね。ささみ漬けの生活も結局貴方のせいですよね?」
御膳の上で縦横無尽に振り回していた箸をピタリと止めて睨めつけると、竜胆はそっぽを向いたまま霧のように消えてしまった。
「卑怯なり、怪異」
最後のたくあんをポリポリと齧りながら、直前まで男が胡座をかいていた壁際を睨みつける。
「ええっと、それじゃ、ましろちゃん?」
「はい」
「ご飯ってどうやって調達してくるんですか? 畑があるのかしら? お漬物、漬けてるんですか?」
「……」
「ご近所さんからお裾分けとか?」
「……」
返事はない。
一口だけ残った粟飯を頬張り、じっくりと噛んで飲み込む。箸を揃えて御膳に戻し合掌して深々と頭を下げる。
「だめだぁ。お姉さんどうしたらましろちゃんとおしゃべり出来るか、わっかんねぇや」
「寒くないですか?」
「大丈夫よー」
実は、ここに至るまでに幾度も会話を試みていた。どうやら、喋れるようになったというのは本当に文字通りの事の様で、問い掛けに応答してくれるかどうかは気分次第、その内容もちぐはぐ。なまじ最初の問答が成立していただけに、肩透かしを食らった気分だ。
「葉っぱの、掃除が、大変です」
「そうね。お庭に立派な楓があるもんね」
「犬はいません」
「あ、お櫃はあたしが持つね。ましろちゃん、御膳持ってくれてありがとう」
椿が食事を終えたと見ると、テキパキと御膳を下げ始めた。問答がちぐはぐになるだけで、椿の言う事なす事はきちんと理解しているらしいことはなんとなく分かった。
それぞれ食器を抱えて部屋を出る。襖を開けた途端、ざわりと空気が動く気配がした。ましろは平然と歩を進めていたが、椿は思わず立ちすくむ程に濃い、何かの気配。けれどそれはたちまち消えていく。姿こそ見えないが、蜘蛛の子を散らすようにとでも言えそうだった。
気配の残していった寒気が四方から身体を這い上がってくるようだ。背筋を震わせ、さっさと先に行ってしまったましろを慌てて追いかけた。
思えば、炊事場というものを見るのすら初めてだった。書物の挿絵で少しばかり覚えはあるものの、竈も囲炉裏も大きな洗い桶も興味津津で眺める。一際大きく窪んだ土間は接する壁に穴が開いており、外を流れる水路から直接採水出来るようになっている。流石にこれは何処にでもあるという設備ではないだろう。二人で並んで食器を洗う。ましろは客として扱っていた椿に炊事場に立って欲しくなさそうだったが、あまり強硬に椿に逆らうつもりは無いらしく、無理矢理水場に立てば好きなようにさせてくれた。
「と言っても、限度はあります。椿様。出ていってください。今すぐ」
まるっきり無感情だったましろのこめかみに青筋が浮いている。声音には変化が無いのが逆に恐ろしい。強引に皿洗いに混ざったくせに、立て続けに食器を割られてしまえば、さもありなんというところだろう。
「待って! ごめんなさいごめんなさい初めてだったから! お願い、やり方教えて? 見てるだけでも。ね?」
ぴしゃり、と小気味良い音を立てて無慈悲に引き戸が閉められた。その向こうからややくぐもった声で
『お皿が無いのでしばらくはおにぎりだけです』
と聞こえてきた。相変わらず声だけは無感情で、おにぎりという単語に椿の腹の虫だけが返事をした。
祠壊したら死に損ねた話 海老原ビスク @jaganokun
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