ひそひそばなし

雨虹みかん

ひそひそばなし

「ここに来て」眠りたくない夜の日は

深夜2時の遊園地前





『お昼の校内放送の時間です』


 給食のサラダのドレッシングが制服のスカートに付いてできた染みだとか、生えぐせのせいでできた前髪の小さな隙間だとか、そういう類のものが私の落ち着きをなくす。

 そういう日の朝は目に入るもの全てがうるさい。音がないのにうるさい。視線がうるさい。聞こえないはずのひそひそ話が、うるさい。

 うるさいのに何を言っているのか分からない。分からないから想像する。

 きっとみんな私のことを話している。

 そう想像してしまうから、私はひそひそ話が嫌いだ。


『これでお昼の校内放送を終わります』


 そんなことを考えているうちにお昼の校内放送が終わっていた。教室のスピーカーから流れる校内放送は耳に届かないのに、あんなに小さな音のひそひそ話が私の耳をぐさぐさと刺すのはどうしてなのだろう。


 中学校の教室は窮屈だ。入学してまだ1ヶ月も経っていないのに既にグループができている。

 窓際には名前をまだ知らない5人の女子たちが立っていて、何やらひそひそと話している。同じ小学校出身なのだろうか。5人はシャツの第1ボタンを開けてリボンを緩く結んでいる。スカートは腰のところで何回か折っているため太ももが見えるくらいに短い。校則では、シャツのボタンは全部留めて、スカートは膝丈までの長さにしなくてはならない。肩についたら結ばなければいけないというルールもあるのに彼女たちは鎖骨まである髪の毛を下ろしている。先輩たちに見られることを怖がらないのだろうか。

 私は校則を守っている。シャツのボタンは全部留めているしリボンは緩くしていない。スカートは膝が少し隠れるくらいの長さにしているし、髪は1つに結んでいる。

 彼女たちはそんな私のことを「ダサい」と思っているのだろうか。

 今日も彼女たちは、どのグループにも所属できていない私を見てひそひそ話をしている。入学してすぐ行われた委員会決めのときも、自己紹介のときも、彼女らは目配せをして何かを話していた。

 私はそれが視界に入らないように、伸びた前髪で視界を塞ぐ。

 前髪が目にかかったらピンで留めるという校則はないから。


 午後8時。塾が終わると駅前で母親が車で迎えに来るのを待つ。私は毎週木曜日のこの時間が好きだ。「少し遅れるかも」なんて連絡が来たらラッキーで、そんな時は待ち合わせの場所から少し離れて駅前をぶらぶら歩く。夜の街にいると人の目が気にならなくなるから少しだけ前髪を分けてみる。みんな颯爽と歩いて周りなんて見ていない。私はそんな自由な夜の街が好きだ。だから夜の街を歩いていると、眠らずにずっとここにいたくなる。

 明日になったらまたあの教室に行かないといけない。

 その事実が私の胃をキリキリと刺激した。

「じゃあ、ここに来て」

 どこからか微かに声が聞こえた。ささやくような小さな声。ひそひそ話をするときのような小さな声。

 聞き間違いかもしれない。

 そう思ったが、私は気になって耳をすましてみた。

「深夜2時の遊園地前」

 囁き声ではなく透き通るような少し低めの声が聞こえた瞬間、左腕に着けていた腕時計の針がくるくるくるくると回り、私の体は眩しい光に包まれた。光はどんどん強くなっていき視界が塞がれた。右手で前髪をかきあげても意味がなかった。眩しさで目がくらみ、思わず目を閉じる。次に目を開けた時には、目の前に遊園地が広がっていた。


 腕時計の針は深夜2時を指していた。月明かりが私たちを照らす。どこの遊園地なのだろうかとスマホで地図を開こうとしても圏外で使えない。

 ぼーっと遊園地前で立ち尽くしていると、誰かから肩をとんとん叩かれた。私は驚き、思わず「誰!?」と叫んだ。

 振り向くと、そこには私より少し背の高い中学生くらいの男の子がいた。目は長い前髪で隠れている。

「君だったんだ」

 男の子はそう言い私の目を覗き込んだ。お互い目を前髪で隠しているはずなのに、しっかりと目が合った気がした。

「な、何ですか?」

「何って、君が僕をここに呼んだんでしょう」

 私はその声に聞き覚えがあった。

 そうだ、私は塾の帰り道に光に包まれた。

 そしてこの声はあの囁き声と同じ……。

「あ、あの、君の声、聞いたことある」

「僕もだよ。さっきの声は君の声だ。間違いない」

 どういうこと? 私が呼んだ?

 困惑していると彼は思いついたように言った。

「そうだ。よく分からないけど、せっかく遊園地に来たから遊ぼうよ。……明日になりたくないし」

 明日になりたくないし。

 私も、同じだ。

 できることなら眠らずにずっとここにいたい。

 朝にならずに夜のままがいい。

 今まで何度そう思ったことがあっただろうか。

 私がこくんと頷くと、彼は私の手を取り遊園地の中に向かって走り出した。

 前髪が風に吹かれてなびく。

「ちょ、ちょっと待って!」

「どうしたの?」

「まえ……がみ」

「ここは僕ら以外誰もいない。人の目なんて、ないし、ひそひそ話は聞こえないよ」

「どうして、私のことが分かるの?」

「僕も同じだからだよ。なぜだか、君も同じだと思った。大丈夫だよ、ここは教室じゃない」

 さっき走ったせいで、彼の前髪は真ん中でぱっくりと割れている。彼の目は切れ長で優しかった。

「ほら、君の目も見せて」

 私はそっと右手をおでこに近付けた。前髪をかき分けようと指を前髪に添えたとき、いつも教室で聞こえているようなひそひそ話が聞こえた気がして思わず手をおでこから離してしまった。

「……ごめん」

 私の声は震えていた。すると彼は優しく言った。

「大丈夫だよ。無理しないで」

 彼の透き通った声が心に染み渡った。

「ありがとう」

 私がそう言うと、彼が園内を見回した。

「せっかく来たけど、人がいないからアトラクションが動いていないね」

「そうだね」

 しばらく歩いていると微かにワルツの音楽が聞こえてきた。甘いキャラメルポップコーンの香りも漂ってくる。そして煌びやかな色とりどりの光が目に映った。

 それは、メリーゴーランドだった。

「あれに乗ろう」

 彼が指さしたメリーゴーランドは逆回転に回っていた。停止したアトラクションの中で1つだけ音楽が流れ、光が放たれているその光景は異様で、でもそれは美しかった。


ぐるぐると回り回って過去ばかり

逆回転のメリーゴーランド


「僕、過去に戻りたいんだ。昔はひそひそ話なんて聞こえなかった。前髪も目にかからないように分けていたし」


「私も小学校に戻りたい。中学校の教室は窮屈だ」


 私たちは、中学校に入学してからの悩みや日々感じていることを話しながらメリーゴーランドに乗った。メリーゴーランドのゆったりとした動きのおかげで前髪はめくれなかった。だけど、今ならめくれてしまっても構わない、そう思えた。

 何周したのだろうか。

 ゆらゆらとメリーゴーランドに揺られていると、私はだんだん眠くなってきてしまった。

 ゆらゆら揺れる動きが心地よい。

 その動きに身を任せていると、「おやすみ」と透き通った声が聞こえた気がした。


 はっと目を覚ますと私はメリーゴーランドに乗っていた。うとうととよろめきそうになりながら持ち手を掴んでバランスを取る。メリーゴーランドの回転は止まっていて、ワルツの音楽とポップコーンの香りは消えていた。

 夢じゃなかったんだ。

 ふああと大きなあくびをすると、

「おはよう」

と少年が眠そうな目をして言った。


 私たちがメリーゴーランドから降りると、時計の針は5時を指していた。

 東の空を見るとおひさまの光が溢れ出ていた。

「朝だね」

「朝だねえ。私、朝ってもっと怖いものだと思ってた」

「僕もずっとそうだった」

「朝はこんなにも綺麗なものだったのか」

「僕、元気が出たよ」

「私も。深夜2時の遊園地前に来て逆回転のメリーゴーランドに乗っただけなのにね」

「だよな」

「ひそひそ話って怖いものだと思ってたけど、その考え変わったよ」

「僕らが出会えたのはひそひそ話のおかげだもんね」

「うん」

「きっと、ひそひそ話をしてるみんなは『ここに来て』って言ってるんだよ。誰かを深夜2時の遊園地前に誘ってる。きっとみんな僕らと同じ」

「うん……」

「ひそひそ話も、悪くないかもね」

 彼がそう言った瞬間、なぜだかぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「私、中学校でやっていけるかな」

 涙を袖で拭くと前髪が乱れた。もう人目は怖くない。だから視界を塞ぐ必要はない。

「きっと、大丈夫だ」

 彼はそう言うと私の目をじっと見た。

「目綺麗だね」

 心臓がどきんと跳ねる。

「ありがとう。でも、急にどうしたの?」

「……なんでもない」

 そして彼は照れたように、そして少し寂しそうにぽつりと呟いた。

「この遊園地での出来事は、きっと忘れるよ」

 私は忘れたくない。

「……忘れないよ」

「本当に?」

「うん、絶対」

 私は力強く頷いた。

 すると彼は、また来ようね、と言い、その後に言葉を続けた。

「深夜2時の遊園地前に」

 深夜2時の遊園地前。

 その言葉が園内に響き渡り、左腕に着けていた腕時計の針がくるくるくるくると回り、私の体は眩しい光に包まれた。光はどんどん強くなっていき視界が塞がれた。彼の姿はもう見えなくなっていた。彼を探そうと右手で前髪をかきあげても意味がなかった。眩しさで目がくらみ、思わず目を閉じる。次に目を開けた時には、自分の部屋のベッドの上にいた。


 今の時刻は朝の6時。

 私はパジャマを着ていて、髪は寝癖でボサボサだった。

「お母さん、昨日塾だったよね……?」

「そうよ。昨日駅前で待ち合わせてその後車で家に帰ったじゃない」

 私はポカンと口を開けてしまった。

 夢、だったのか。

 眠りに落ちて、その後目が覚めたのも夢の一部だったのか。

 でも私は忘れていなかった。あの遊園地と少年のことを。

 私はいつも通り校則に従って制服を着た。寝癖でボサボサになった髪を濡らし、ドライヤーを当てながらブラシで梳かす。

『目綺麗だね』

 少年の透き通った声が脳内で再生される。

 私はしばらく鏡を見つめ、長く鬱陶しい前髪を黒のアメピンで留めた。

 一気に視界が広がった。

 世界は、こんなにも広かったのか。


 もう怖くないから。


 教室に入ると窓際で5人の女子たちがひそひそ話をしていた。私はロッカーから荷物を取りに行くふりをして窓際に近付いてみた。するとひそひそ話の内容が聞こえてきた。

「私、好きな人できちゃったかも」

「えー!」

「誰!?」

「隣のクラスの佐藤くん!」

「あの人かっこよくない?」

「だよねだよね!」

「告白しちゃいなよぉ」

 誰も私のことなんて話していなかった。

 今まで何を怖がっていたのだろう、と不思議に思える。

 私は自分の席につき、ぼーっと遊園地での出来事を思い出していた。

 その日の授業は全く頭に入らず、気が付けば給食の時間になっていた。ぼーっとしながら給食を食べていると、お昼の校内放送が流れ始めた。いつもは聞かないのだけど、今日は聞いてみようと思えた。

 今まで私は何も聞こえていなかった。いや、何も聞こうとしていなかった。ひそひそ話を察知しては、勝手に悪い想像をして勝手に傷ついていた。そのような音のないひそひそ話に怖がって、聞こえる音は無視していた。

 私は今まで何を聞いてきたのだろう。

 きっと私は何も聞いてこなかった。

 だから、これからは耳をすましてみようか。

 そして、本当の音を聞いてみようか。


『お昼の校内放送の時間です』


 深夜2時の遊園地前。

 あの声が頭の中でこだまする。

 心の中で時計の針が動く。

 あの光の眩しさ、甘いポップコーンの香り、ワルツのリズムが蘇る。


 教室のスピーカーから流れる声は、”彼”の声だった。


 お昼休みになると私はすぐに放送室に向かって走り出した。

 まだ居ますように……!

 息を切らしながら放送室のドアを開けると、中に3人の放送委員がいた。CDを整理している女子生徒2人と、ぼーっと立ち尽くし、窓から校庭を眺めている私より少し背の高い男子生徒。

 

 後ろ姿でも分かった。

 あなたは確かに君ですね?


 私は君の肩をとんとんと叩く。君は思わず「誰?」と驚く。君が振り向くと、そこには前髪をピンで留めた私がいる。

 君の重い前髪はセンター分けにされていた。

「放送の声、君だったんだね」

 私はそう言い君の目を覗き込む。あらわになった目が互いの瞳に映り込む。

「君の声、聞いたことある」

 私がそう言うと君が目を潤ませて囁く。

「僕もだよ」

 

「ちょっとごめん」

 彼は放送委員の仲間にそう言い、私たちは廊下に出た。

「会えたね」

「ああ」

「……忘れなかったよ」

「僕も。ちゃんと覚えてる」

 廊下の真ん中で話していたものだからみんなの視線が集まってくる。ひそひそ話が聞こえる。

 だけど大丈夫。

 もう、前を向いて進めてる。

 私たちのメリーゴーランドは時計回りに回り始めたから。

「君の名前を知りたい」

「私の名前はね……」

 君が私の名前を知り、私が君の名前を知る。

 ”君”が”君”じゃなくなった今日の空は何だか眩しかった。

 視界が広がったから?

 多分、理由はそれだけじゃない。

 本当の理由に気付きそうになったけれど、それは何だか照れくさくて聞こえないふりをした。

 少しだけ、ほんの少しだけ、速くなった心臓の音が聞こえたなんて、言えない。

「……さん、よかったら今日一緒に帰らない?」

 せっかく名前を呼んでくれたのに、肝心の部分が聞こえなかった。

「聞こえないー」

「これなら聞こえる?」

 彼が私に近付く。

 もう聞こえないふりはできない。

 校庭の桜の花びらがひらひら舞う。

 春はまだ、始まったばかり。







 

 

 


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