ターシャ――夕食後、就寝



 夕食後、リビングのソファに腰掛け、温かい茶が湯気を立てるカップを手にしたターシャは、父からの手紙を読んでいた。その様子を、母と壁の高い位置に掲げられた、この国の最高指導者の肖像が見守る。


「どうよ?」


 その様子を、頬杖をついてニヤニヤと笑みを浮かべながら見ていた母が、ターシャに感想を尋ねた。


「本当に夏にお父さん帰ってこられるんだ!少年団のキャンプと重ならなきゃいいけど……でもたのしみだな!」

「集団キャンプはずらせないものね。ま、それでもあたしは3人で居られるだけで嬉しいわよ」

「今年のおみやげは何買ってきてくれるのかな〜」

「あのサボテン枯れないわよねぇ……こんな寒い国じゃ、冬の間にダメになっちゃうと思ってたわ」


 ターシャは、毎年夏に開かれる少年団のキャンプ活動の日程と父の帰省が重なる心配をしていたが、それ以上に出稼ぎで家を空けていることの多い父との再開を心待ちにしていた。


 そして、以前父が遠い南の国の土産として買ってきたサボテン――今はターシャの部屋の窓際に置かれている存在を思い返し、今年の土産に期待する。


(おみやげは楽しみだけど……でもお父さんがそばにいるのが一番うれしいかな)


 三人家族が揃う団らんの時間は短くとも、時折送られてくる手紙や、父が出稼ぎ先から買ってきては増えてゆく遠い異国の土産が、母娘の寂しさを和らげていた。しかしターシャの胸中では、幼い頃に見上げた父の大きな背中や、両親の仲睦まじい幸せな姿を見たい、そして自分自身が成長してゆく姿を父に見せたい、という思いを秘めていた。



 壁面に取り付けられたシャワーから降り注ぐ温かなお湯は、バスルームを湯気で満たし、シャワーの前に全裸で立つターシャの白い肌に降り注ぎ彼女の身体を暖めていた。


(あったかいな……きもちいい……)


 三つ編みをほどいた長い金髪を毛先まで洗い、全身を石鹸で丁寧に洗ってゆく。石鹸泡を洗い流し、暖かさの余韻を少し楽しんだターシャはお湯を止めると、バスタオルで濡れた金髪や全身を拭き、胴体に巻き付けてバスルームを後にする。


『ターシャあんた下着くらい付けてから出なさい、そんなのでよく赤スカーフ貰えたもんだわ!』

「お風呂と部屋の温度差が気持ちいいの!」

『お父さん帰ってきてもそうやってお風呂から出ることね!』

「うー、それはお許しを……」


 バスタオル一枚でうろつくターシャを、母がキッチンから窘める。そそくさと自室に戻ったターシャは、クローゼットの引き出しから洗濯済みの下着を取り出し身に着けると、朝から脱ぎ捨てられたままの薄いピンク色の寝間着を身に着け、キッチンへ向かう。食器棚からグラスを取り出し、冷蔵庫を開け大きな牛乳瓶を取り出し中身を注ぐと、ターシャは一気に飲み干した。


(毎日飲んでるけどこれで本当に大きくなれるのかな……)


 ターシャは食器棚のガラス戸に映る自分の姿を見て、同世代より小柄な自分の全身を見つめ、表情を曇らせる。そんな様子をみた母も、牛乳瓶を手に取り自分のカップに注ぐと、食卓のテーブルに座った。


「べつにそんなに心配しなくても大丈夫よ。まだまだ伸びる歳よ」

「うーん、でもやっぱりもうちょっと身長ほしいなあ」

「伸びなくたってターシャがターシャであることに変わりはないわよ。それに小柄なほうが好きって人もいるみたいだし」

「そうなのかなあ……?」

「どんな容姿だろうとターシャが自分を好きで、幸せだと思っててくれればそれでいいのよ。あたしとあの人の自慢の娘だもの!」


 母は立ち上がり、背後からターシャの肩にそっと手を載せる。ガラス戸に映る母娘の姿を見て、ターシャは少し困惑したような微笑みを見せると、母はターシャに自信を与えるように満面の微笑みを見せた。ターシャは自分の肩に添えられた母の手に自分の手を重ね、同じように精一杯の微笑みを見せた。


「ありがとう」


 ターシャが一言告げると、乗せられた手で肩をパン、と軽く叩かれた。そのとき、ターシャのなかで少し自信のようなものが湧いた気がした。



 この季節この地方の日没は遅く、それでも街は夜の暗さに至った頃、ターシャは自室の狭いベッドの上に腹ばいになり、電気スタンドの小さな明かりを頼りに文庫本を読みふけっていた。同世代の少女が、魔法と不思議な力を巡る冒険譚だった。夢中になって活字を追うターシャは、肉体だけを残してすっかり物語の世界の中に入り込んでいるようだった。


「ふあ……」


 徐々に深まってゆく眠気にあくびを堪えられず、文庫本にしおりを挟んで枕元に置くと、電気スタンドのスイッチに手を伸ばす。仰向けに体勢を変えて毛布を引き寄せる。徐々に目が暗闇に慣れるのと、カーテンの隙間から零れる薄明りで、群青に染まった室内が見渡せる。


 本棚も、壁に掛けた制服や、遠く離れた場所にいる友達の写真も、全てが群青に染まっている。全てが色を失ったようにも見えるが、それは絶望的なものではなく、どこか安心できる、帰るべき場所に帰ってきたような、心が徐々に鎮まっていくような眺めだった。


「おやすみ」


 ターシャは誰となく一言つぶやくと、枕元のくまのぬいぐるみを一度撫でて目を閉じる。そして、まどろみの中でこの日の出来事を思い出すのであった。


(今日はあったかかったなぁ、もうすぐ夏になるんだな。イゴールは今日も相変わらずで……一緒にいると楽しいな、これからもずっと幼馴染でいっしょに居たいな。――エミリア、すきな男の子いたんだな、ちゃんと気持ちを伝えるのってすごいや。ラナとアデルはちょっと茶化しすぎかなって思ったけど……でも恥ずかしそうなマーシャかわいかった。すきな男の子……わたしもいつか誰かを好きになれたら、だれかがすきになってくれたらいいな。あ、逆にイゴールってすきな女の子いるのかな?)


 一日を振り返っていると、眠気が徐々に全身から力を奪い去り、思考も断続的で、まとまりのないものに切り替わってゆく。


(晩ごはんおいしかった……わたしもお母さんみたいな味を出せたら……いいな。お父さん帰ってくる……一年ぶり……かな。おみやげ……もっと牛乳……なつ……まで……もっと……)


「ふにゅ……すぅ……」


 やがてターシャは、静かに寝息を立て始める。部屋の扉の隙間から漏れていた廊下の灯りもいつしか消えて、部屋は静寂に包まれた。



 立ち並ぶ無機質なアパートの窓から零れる明かりも、一つ、また一つと消えてゆき、月が高くまで登る。この季節僅かな時間しかない夜空には、初夏の星座がきらきらと輝いている。


 街はすっかり車通りも少なく静寂に包まれ、夜道を照らす街灯と、街の各所に設置された、この国の指導者やこの国そのものを称えるプロパガンダを照らす灯りだけが煌々と輝いていた。


「きょう……たのしかった……」


 コンクリートパネルで建てられた5階建ての集合住宅の一室の、さらに狭い個室。ナターシャ・ユリエヴナが、ベッドの上で毛布にくるまり、一言のつぶやきの後、深い眠りに落ちていった。

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ナターシャ・ユリエヴナが見ている景色 奴郎 @yatsuro

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