第19話 この世界を全て



 薄白い山を登っていく道。

 ほとんど人の行き来せぬそこは、かつては塩の行商人で賑わっていたのだという。

 時代の移り変わりと共に、標高高い山を越えるよりも別の産地が選ばれるようになって、ここを通る人間は激減した。


 そんな道を、小さなテペマがゆっくりと歩いていく。

 普通のテペマは半年で成獣になり、それから人と共に旅を始めるが、このテペマはまだ生まれて四カ月だ。臆病過ぎて主人を変えていけない、と処分されそうになっていたところを、ディノが買い取った。慣れるのにも時間がかかったし、普通のテペマのように売ることはできないだろうが、それで構わないと彼は思っている。このテペマが一生を終えるまで共に過ごせばいい。先を急ぐ旅をしているのではないのだから。


 空気が薄くなってきている。肌寒いのも頂上が近いせいだろう。

 ディノは、頭上に初めて見る種の鳥が飛んでいるのに気づいて、つい声を上げそうになった。何を見ても喜ぶ女と旅をしていた時は、そうすることが当たり前になっていたのだ。

 だが、今の彼は口をつぐむ。代わりに厚手の膝掛を荷物から引っ張り出すと、それを隣で眠っている少女にかけた。

 朱色の髪の少女。十歳ほどに見える彼女は、ぴくりと震える。長い睫毛が震えて、その下から髪と同じ色の瞳が覗いた。


「ディノ……? ついたの?」

「いや、まだだ。寒くなってきたから。寝てていい」


 少女はだが、手を口で覆って大きく欠伸をする。両手を上げて伸びをした彼女は辺りを見回した。


「わあ、地面がまっしろ! どうしてこんななの? 雪でもないのに」

「さあ。昔からこうらしい」

「へえ、おもしろーい」


 少女は背もたれに体を預けると、無邪気に笑う。


「ディノが見てみたい塩の湖ってもうすぐ?」


 稚い問いに、彼は一瞬喉を詰まらせた。懐かしい声が甦る。


『不思議なものね。私の知らないことばかり』


 新しい景色、一つ一つに胸を躍らせていた彼女。

 自分の守る世界をようやく知って愛しんでいた形骸姫。

 名前のない彼女は、あの朽ちた城で削りきられてしまった。人を、彼を守るために力を注ぎ続けた。記憶も、感情も、愛も、全て己の血の雨にして。


 だから今いる少女は、彼女が失われた後に残ったもの――新しく生まれた形骸姫だ。

 彼と旅した記憶も、彼を愛した記憶もないまっさらな少女。大陸神殿に足を踏み入れたこともない彼女は、ディノと穏やかな旅をしている。一つ一つの景色に驚き、喜び、日々を感情で彩っている。


 今の少女は、彼女とは違う。

 だが、まるきり違うわけでもないのだろう。人は死ねば次の世界へ旅立つ。けれど不死である形骸姫にはそれがない。彼女たちは己の領域がある限り、その一部として留まり続ける。枯れてしまった花が、また別の花を咲かせるように。

 だから彼女は喪われていないと、そう信じたいのは己の弱さだろうか。


「ディノ? どうかした? 疲れたの?」


 少女は彼を覗きこむ。心配そうな彼女に、彼は微笑んで見せる。


「平気だ。この先が楽しみなだけだ。ずっと来てみたかった」

「わたしも楽しみ!」


 そう言って少女は、空を旋回する鳥に気づくと歓声を上げる。愛しむように両手を上げるその姿に、女の姿が重なる。


「どこにでも一緒に行こう。――約束だ」

「うん」


 彼は、少女の名を呼ぶ。自分がつけた彼女の新しい名を。

 自分がいつか、彼女を置いてこの世界を去る日まで。

 彼女の愛に満ちた美しい世界を全て、彼女に見せるために。

 そのために、生きていく。




【End.】

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神遺城の帰還 古宮九時 @nsfyuki

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