第18話 雨



「――僕はあの子のために生きる」


 マイアスティを守って、彼女の一生が幸福であるように。

 自分はそのために彼女よりも早く生まれたのだ。

 女はじっと彼女を見ている。何も言わない。先程彼が答えが見つからず沈黙していたように。

 その沈黙がふと不安になって、少年のディノは尋ねる。


「あなたは誰?」


 女はその言葉に振り返る。見えない貌がじっと彼を見つめた。

 どこからともなく甘い風が吹く。

 女は、ふっと微笑んだ。


「私は、《神遺世界》の形骸姫よ」


 聞き慣れない単語だ。だがその一つは聞いたばかりの《神遺領域》に似ていた。その意味を探ろうとする少年に、女は付け足す。


「神獣を保管する《神遺領域》はこの世界のあちこちにあるけど、そもそもこの世界自体が大きな《神遺領域》なの。神獣に滅ぼされかけていた人間を守るために、神々が整えたのがこの世界なのよ」

「……人間も保管されているってこと?」


 何だが不思議な話だ。一つの檻に入れておいてはよくない動物たちに、それぞれ別の檻を与えたようなものだろうか。

 女は頷く。


「ええ、そうよ。でも他の神獣と違って、人間は『複数で一つの固体』と看做されているの。大勢で協力しあって、反発しあって、生まれて死んで世代を交代しながら種を継いでいく……神々は人間のそういうところを残したがったの。だから人間は、神獣の中で唯一、死が当たり前なのよ」


 女の話は回りくどくて、だが結論は単純だ。ディノはあっさりと返す。


「人が死ぬなんて、当たり前の話だ」


 生まれた時から、人は死に向かって進んでいる。

 老いも、病も、突然の不幸も。それはいつか必ずやって来る。


「だから僕は、あの子が一日でも長く生きられるように守るんだ」


 自分にとってただ一人特別なマイアスティが、やりたいことをやれるように。

 何一つ悔いなく、満足して己の生を振り返ることができるように。

 そのために、自分は生きるのだ。



                 ※


 膝の上に抱き起こしたリュミエレは、もう幾許も命が残っていないように見えた。

 四肢は欠け、腹の中身は空っぽだ。ただでさえ軽かった体の重さは、今は元の半分しかないようにさえ思えた。


「君……戻れるのか……?」


 尋ねる声は固くなる。リュミエレは定まらない視線をさまよわせて、ようやく彼を見た。


「戻る……けど……時間がかかるわ……」


 掠れた声。ふわりと甘い香りが漂う。

 それはアメ・リセリに食われている時からリュミエレが漂わせていた香りだ。


「君も、形骸姫だったのだな」


 今まで何度か嗅いだ香り。それはどれも形骸姫が近くにいた時に漂ってきたものだ。

 マイアスティが死した時も、近くに《神遺城》の形骸姫はいたのだろう。

 そして、リュミエレと出会った時も。

 彼女はふっと、照れたように笑う。


「思い、出してくれた? むかしの、こと」


 それがいつのことかは分からない。ディノは軽くかぶりを振る。

 リュミエレは、それでも嬉しそうだった。


「わたしは、人間を管理するための、形骸姫だから」


 彼女は、遠い時を思い起こすように目を細める。


「使える力は、死の訪れだけ」


 死なない生き物にも等しく死を。

 それがリュミエレの持つ力だ。


「本当は、わたしの力をあなたに委譲して、この領域を終わらせてもらおうと思っていたけど」


 リュミエレは、肘から先がない腕を上げる。その腕をディノは支える。


「それはやっぱりあなたには……似合わないわね」

「構わない。やらせてくれ」


 形骸姫の力を振るうことに苦痛や代償があるのだとしても。今の彼女を酷使してしまうよりよほどいい。

 残されたリュミエレの手を握るディノは、けれどその時、露台の外壁をかさかさと大量の音が近づいてくることに気づいた。広場にいた蟲たちが登ってきているのだろう。形骸姫を食い終わったか、リュミエレの血の臭いに気づいたか。猶予はない。間に合わない。

 ディノは、リュミエレの体をそっと横たえる。自分は剣を手に立ち上がった。

 彼は、荒れ狂う海を視界に入れる。


「大丈夫だ。ちゃんと守る」


 彼女が、やりたいことをやれるように。

 それまでの盾になる。或いはこの領域を終わらせるための剣に。

 音が近づいてくる。リュミエレの、吐く息が聞こえた。


「ディノ……《神遺城》の形骸姫を壊しても、きっとまた同じことが起こるわ」


 もし、あの形骸姫が、アメ・リセリのために定期的に食われていたのだとしたら。

 それがゆえに時折、神獣を外へ放すことをしていたのだとしたら。


「アメ・リセリは、この世界に置いておけない。隔離してもなお、人のいる世界では暮らせない」


 形骸姫が何度作り直されても、蟲は彼女を壊してしまうだろう。

 知性を失った彼らの本能がゆえに、滅びた城を蹂躙し外へ。


「私は、私の領域を守る。私の世界を生きる人間たちを守る」


 ぽたり、と。何かがディノの顔に落ちてくる。

 彼はそれを手で拭いとる。指についていたのは、甘い香りのする赤い血だ。


「そうしたいと思えたの。あなたと一緒に、旅ができたから」


 ぽたり、ぽたりと、血の雨が降ってくる。

 それはすぐに音のない霧雨になった。何であるかは分かる。リュミエレの血の雨だ。

 欄干に緑の鎌がかかる。いくつもいくつも。三角形の頭部が現れる。複眼が露台を見回す。

 リュミエレの吐く息の音が、やけに大きく聞こえる。


「傷をつけてくれればいい……私の血が体内に入れば、アメ・リセリは死に至るわ……」

「分かった。全部処分する。君は休んでいていい」


 この雨が、彼女全てを削り取ってしまわぬように。

 その前に終わらせる。



 ――たとえば、こうならない選択はあったのだろうか。

 欄干から顔を出す蟲を前に、ディノはふとそんなことを思う。

 おそらく、なかった。

 人と相容れないのは、あの形骸姫ではなくアメ・リセリの方だ。そして全ての蟲を殺すには、領域内のアメ・リセリは多すぎる。普通に戦っていても、限界は来ていたはずだ。

 だから最後には、リュミエレは決断せざるを得なかっただろう。

 ただその前に怪我を負わせてしまったのは、自分が弱かったからだ。

 弱かったから。けれど、その弱さと愚かさを己の限界にしない。ここを越えていく。


 痛みを無視して踏み出す彼に、女は囁く。


「ありがとう。あなたは最後まで、私の名前を呼ばないでいてくれたわ」

「それは君の名ではないのだろう?」


 何か理由があるのだとは思っていた。

 ただ形骸姫が「死した人間から何かを譲り受けて誕生する」というなら、彼女のそれはおそらく「名前」だ。リュミエレ・ノーファ。遥か昔に死んだ歌姫の名。

 彼女の名は最初から彼女のものではなかった。

 名前のない形骸姫は、嬉しそうに笑う。


「ディノ。あなたは最初から最後まで、私の特別だった。愛しているわ」



 彼は剣を手に駆け出す。

 雨はそれから、最後の一匹が倒れるまで降り注ぎ続けた。

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