第17話 旅の終わり
円形の露台は、下にあったものより大分奥行があり、小さな広場のようだった。低い手すりの向こうに見えるものは、ただ灰色の海だ。嵐を目前にしたかのように空気が荒れている。
形骸姫はそこに、手すりに寄りかかって下を覗きこんでいた。
逃げる素振りはない。彼女はディノたちに気づくと微笑む。
「怖い顔をして、どうかしましたか? どうするつもりですか?」
「この城の形骸姫から降りてもらう」
「壊して、新しく生まれる形骸姫に領域を継がせようということですね。形骸姫は神獣と同様不死ですが、あなたたちならそれもできるでしょう。そんな権限は誰にもありませんが構いませんよ。ここは暴力が罷り通る領域ですから」
愛らしく形骸姫は言う。その顔立ちはマイアスティと同じでも、彼女のようには見えない。形骸姫にはもっと翳がちらついており、それは自分と他者の両方に向けられているようだった。
リュミエレがディノの隣に並ぶ。
「この領域ごと終わりにしてもいいと私は思っているわ。アメ・リセリは凶暴過ぎる」
「知っています。でもそれが神の遺志でしょう?」
形骸姫は更に手すりへ体重を預ける。金の髪が海からの風になびく。
細い上体は外へせり出し、彼女自身がたわんでさえ見えた。
形骸姫は眼下の何かを見下ろす。紅を刷いた唇が微笑む。
「あなたたちには無理です」
白い両手が手すりを掴む。その意図を理解したディノは駆け出した。
少女に向かって手を伸ばす。
彼女は両手で欄干を掴んで、ディノを振り返って。
美しく微笑むと、背中から宙に身を躍らせた。
「待て!」
ディノは身を乗り出して彼女に手を伸ばす。
けれど形骸姫はその手を取らない。勝ち誇った笑顔のまま落ちていく。
露台の下にある広場に。群がるアメ・リセリの只中に。
地面に肉が衝突する、鈍い音が響く。
ぱっと赤い花が咲いたように見えた、けれどその体はすぐにアメ・リセリの中に埋もれた。
ぱき、ぽき、と軽い音がする。引き攣るような小さな悲鳴も。
ディノからは何も見えない。だが何が起きているか容易く想像できてしまった。
蟲たちが、少女の四肢を折り、小さな体を分けあって食べている。
当たり前の食事のように、日々繰り返していることのように。
否――それは事実だ。
手すりから身を乗り出したままの彼に、リュミエレが言う。
「私たちも降りないと……! 形骸姫は普通には死なない! 逃げられてしまうわ!」
「逃げられる、と言っても」
彼女は今、食われている。
見えなくても音で、悲鳴で、蟲たちの動きで分かってしまう。
あの状態からでも形骸姫が元に戻るというなら、それが普通だというなら。
この荒れた海を背にした城で、形骸姫は、
「まさか、いつも食われて、」
頭の上に影が差す。
手すりから乗り出して広場を見ていたディノは、それに気づくのが遅れた。
死角の外壁を登ってきていたアメ・リセリ――その鎌が、彼の体を薙ぐ。
挟まれるのは、すんでのところで避けた。
だが彼の体は軽々弾き飛ばされ、意識はそこで途切れた。
※
雨上がりの空は済んでいた。
ぬかるんだ獣道をテペマはゆっくりと、だが着実に進んでいく。
もうすぐに村につく。二匹目のテペマともそこでお別れだろう。ディノは右隣に座る女を盗み見る。リュミエレは目を輝かせて、白い葉々から落ちる滴を見上げていた。
この森の木々は、種こそ違えど全て真白い葉を茂らせる。よく見るとそれは葉脈だけを残した葉で、だから白く見えるのだ。この地に降る雨が原因とも、土壌が原因とも言われている。
「真っ白な森なんて夢みたいね……」
感嘆の声。リュミエレは、どこを旅してもどんな景色を見ても、新鮮な驚きを零す。
いつもいつもそうだ。外を知らずに生きてきた少女のように、朱色の目に映る全てを貴ぶ。
頭上の葉から水滴がテペマの頭に落ちると、彼女は一生懸命手を伸ばして、テペマの目に入りそうな滴を拭い取った。
彼女は、そういう人間だ。
日々に喜びを見出す。別れると分かっている動物に、惜しみなく愛を注げる。
彼女に見えている世界は、きっと美しい。
彼女自身がそうであるからだ。
ディノは彼女の横顔を見つめる。
純白の森の中を、彼らは進む。
※
全身が痛む。
衝撃に気を失っていたのは少しの間だ。
最初に目に入ったのは垂れ落ちてきそうな灰色の空で、仰向けに倒れていたディノは、頭を動かし右を見た。
露台へと出る入口、そこでは、リュミエレが蟲に食われていた。
ディノの方を向いて横向きに倒れた彼女の左足は、なくなっている。彼に向かって伸ばされていたのだろう左腕も、肘から先がちぎれて骨が見えていた。
一匹だけ露台に登って来たアメリセリは、彼女の脇腹に顔を埋めている。こり、こり、と何かを食む音がする。その度に小さな呻き声が上がり、まだ彼女が生きていることが分かった。
「……君」
ディノの四肢は無事だ。骨はあちこち折れているようだが、食われてはいない。
アメ・リセリは獲物としてリュミエレを選んだのだろう。或いはリュミエレがディノを守るためにそうしたか。
「君、待っていろ」
仰向けになっていた体を横に起こそうとする。
それだけで激痛に頭の中が真っ白になった。
再び意識が遠のきかけて、けれどディノは歯を食いしばる。
ここで動かなければ、彼女の願いを叶えなければ、何のために生き永らえてきたのか。
助けなければ。
彼女は自分よりもずっと――
「ディ……ノ……」
ぼやけた輪郭の声が聞こえる。朱色の瞳が、いつの間にか確かに彼を見ていた。
リュミエレは、己の血の飛び散った顔で微笑む。
「急がなくて……いいわ……」
そんなことを、彼女は言う。
「わたしは、死なないから……時間を……稼げる……」
ディノは驚かない。そうであろうと思っていたからだ。
彼は痛む腕と力の入らぬ足を叱咤して、何とか立ち上がる。近くに落ちていた大剣を拾う。
その剣を杖にして、一歩踏み出す。
「すぐ助ける」
一歩、また一歩。
リュミエレは、それを焦がれる目で見上げていた。
荒れた海から塩を含んだ風が吹く。人間に「逃げられない」と絶望を抱かせる眺めに背を向けて、ディノは大剣を両手で握る。
「次は、塩の湖を見に行こう」
まだ辿りついていない場所はいくらでもある。
きっと彼女は喜ぶだろう。彼女の瞳に映る世界は美しい。
蟲はディノに気づいていない。リュミエレを食べることに夢中になっている。その度に彼女の血がぴちゃぴちゃと石畳に飛び散る。
灰色の景色に、その赤だけが鮮やかで。
けれどディノは彼女の夕焼け色の瞳だけを見つめて。
神獣の体を斬り捨てた。
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