第16話 滅びた城にて
銀の古びた門扉から、彼は中へ飛びこむ。
瞬間、水の中に飛びこむような空気の変わる感覚があった。
ぎょっとしたが息は吸える。辺りは濃霧だ。奥から形骸姫の笑い声が尾を引いて聞こえてくる。城の影がある方角だ。ディノは笑い声を追って霧の中へ踏みこむ。
《神遺領域》を目の当たりにしたことは何度もある。リュミエレが開いた門の隙間から見えるそこは、どこも時の止まった庭園のようだった。
緑に溢れた場所も、水に満たされた場所もあった。
空中にしか見えない場所も、薄暗く広がる地下空間のような場所も。
そしてここは、何も見えない灰色だ。息をするごとに体の中が得体の知れないもので侵されていく気がする。少しずつ内から削られていく。
足下は小石が転がる灰色の地面だ。マイアスティと同じ声がこだまする。
「無謀ですね。人の身で《神遺城》に踏みこむなんて」
霧は彼女の声を吸いこまない。むしろ不思議なことに反響させているようだ。
夢の中で聞く声が、夢の中とは違う言葉を吐く。
「復讐だなんて、あなたの主人はこんなことを望みましたか? せっかく生き残ったのに、失われたもののために時間と命を費やすなんて。もっとあなたなりの幸福を探していいんですよ」
過去のことだ、と声は言う。それはただの事実だ。マイアスティが生きていたなら似たことを言うだろう。
「忘れて、平凡に、穏やかに暮らせばいいです。その方がずっと生産的です。自ら進んで死を増やす必要はないのですから。あなたが生きていた方が別の人を救うこともできます」
形骸姫は正しさを謳う。そこに自分の身惜しさの懐柔はない。ただ本当に純粋にそう思っているのだ。そしてそれは事実だ。
たとえば六年前の夜に助けた兄妹の後見人となって、彼らを助けて生きる人生もあっただろう。旅をしている時も、人を助けたことは何度もあった。つまりそれは助けを必要としている人間は探せば世界にもっといるということだ。
そんな風に、今苦しんでいる人々を回って生きる道もある。マイアスティを助けられなかった代わりにはならなくても、彼女が良しとしてくれるような道が。
それでもディノはそれを選ばなかった。どうしても復讐したかったわけではない。
ただ積極的に別の何かを選ぶことができなかった。目の前にある道を歩むしかなかった。
今はどうだろうか。
今もあの時と同じままか。
「私を壊して償いになるとでも? あの時助けてくれなかったのに、何もできなかったのに」
マイアスティの声で形骸姫は詰る。
それはただの事実だ。償いにはならない。マイアスティは助けられなかった。何もできなかった。その結果が今だ。全ては繋がっている
。
「そんな風に後先を考えずに、あなた、一体何がしたいのです?」
いつからか思っていた。
自分は、どこかで諦めなければならないと。
時間が経ち過ぎた。マイアスティは既に失われていて、あるはずもないものを探す旅だ。
拾い集める思い出さえない。《神遺城》に行き着いても、そこに彼女の遺体は残っていないだろう。時の流れは決して止まらないと、リュミエレを見ていて思ったのだ。
彼女が新たな土地を見出す度に喜ぶから、否応なく前へと進むから、そのことに気づいた。
それでも自分は度し難く、諦められないままかもしれないとは思って、今だ。
「お前を見て分かった」
今が諦める時だと。
「あの方は美しかった。そう見せていたのは、あの方の精神だ」
形骸姫は、マイアスティであるようには少しも見えなかった。違う存在だとすぐに気づいた。
だからこそ腑に落ちた。
――マイアスティはもう戻らないのだと。本当に、この世界のどこにもいないのだと。
「お前を自由にはしない」
マイアスティの顔でいることも、新たな顔を探すことも、させてはならない。
そのために追う。乾いた地面が終わり、欠けた石畳に入る。
相変わらず周囲は見えない。ただ両脇に柱のような影がぼんやりと並んでいた。
形骸姫の溜息が聞こえる。今まででもっとも冷たい声が聞こえた。
「本当に、つまらないですね」
落胆の声を合図とするように空気が動いた。
視界の端に影が差す。走っていたディノはその気配に飛び退いた。
霧の中から緑の鎌が振り下ろされる。目の前を掠めていった鎌を、彼は関節部を狙って斬り払った。蟲の巨体全ては見えない。だがその体がよろめくのが分かる。
ディノは傾いた頭部を狙って剣を振るう。その刃が複眼を斬り裂いた。続けざまに返した大剣が、残る頭部を割り砕く。倒れこんでくる巨体をディノはかわした。
石畳に蟲の体が崩れ落ちる。潰れた複眼からはどろりと液体が零れ……けれど、そこに再び光が灯った。割れた頭のまま起き上がろうとする神獣に、ディノは顔を顰める。
形骸姫が霧の中で嗤う。
「ここは神獣のための領域。アメ・リセリが死ぬことはありません」
緑の鎌が再びゆらりと上がる。
「あなたが決められるのは、いつ自分が死ぬかだけなのです」
ディノは後ずさる。
起き上がろうとする蟲以外にも周囲に大きな影が差したからだ。
集まってきている。おまけに相手は不死だ。何とかしてこれを突破して形骸姫に追いつかねばならない。そのために何を優先して何を捨てるか、彼は計算を始める。
しかしそこに女の声が割って入った。
「そんなことはないわ」
頭部が潰れた蟲の体が、ぐらりと傾ぐ。
まるで時間を巻き戻すように、その体は再び地に崩れ落ちた。蟲の向こうに立っているリュミエレは、緑色の尾に手を当てている。
「殺された神獣はもう生き返らない。私がそうするわ」
「……君、ついてきたのか」
こんな危険な場所に、と言いかけて、ディノは言葉をのみこむ。リュミエレは自分が願ったものを彼にだけ負わせることはしないだろう。そういう人間だ。
ただ不可解なのは彼女がしたことだ。領域内でどうやって神獣から不死を奪ったのか。
この一年半、彼女がしたことは領域を探すことと門を開くことで、そのどちらも水晶の笛の力だとディノは思っていた。
今はその笛は首にかけられている。彼女の両手は空だ。
リュミエレは申し訳なさそうに微笑んだ。
「起き上がらせないことはできるけど、殺すことはできないの。任せてもいい?」
「……ああ」
今は、自分に課せられた役目を果たす方が先だ。
ディノは近づいてくる影のうち、リュミエレに一番近いものに向かって地面を蹴る。
形骸姫の声に初めて険しさが混ざった。
「どういうつもりですか? 《神遺領域》はお互い関わらないはずでしょう」
「先に関わってきたのはあなただわ」
「ここは領域内です。外に出た神獣を狩るのとは話が違います。神獣は守られるべき存在でしょう。神々がそう願って遺したのですから」
無法を弾劾する言葉にリュミエレはふっと笑う。
その表情は彼女には珍しい冷めきったものだ。
「守られるべき生き物であっても、管理者が役目を果たしていないなら処分されるの。神獣を盾にできるなんて思わないことだわ」
二匹目の蟲は胸を貫かれて足を折る。大きな頭を垂れる蟲に、リュミエレは触れた。びくびくと震えていた巨体はそれでもう動かない。死んでいる。
「《神遺城》が滅びるのは、あなたのせいよ」
「……そこまでするつもりですか?」
「ええ」
静かな宣告を聞きながら、ディノは剣を振るう。
一匹ずつ周囲に蟲の死体が増えていく。
とうに死んでいるはずの神秘の生き物。その肉体だけが残った存在。
神々が遺したいと願った箱庭の中で、死ぬはずのなかった彼らは死んでいく。
積み重なり始める神獣の死体に、形骸姫の憤る声が聞こえた。
「あなた、本当に……」
それきり霧の中から形骸姫の声は聞こえなくなる。気配も消える。
周囲に蟲がいなくなると、ディノは詰めていた息を吐き出した。
「形骸姫は逃げたか」
「城の方ね。少し待って」
リュミエレは水晶の笛を首から外すと、それを持った手を軽く横に一閃させる。
すると周囲に立ちこめていた霧は、見えない手で掻かれたように退いていった。石畳の先が晴れて見える。緩やかに蛇行する道、上へと傾斜する石畳の先に在るのは曇天の下に佇む城だ。灰色の城は崩れかけて、まるでとうの昔に滅びて朽ちたかのようだ。
蟲は近くには見えない。ただ離れたところに残る霧には、大きな影がいくつも蠢めいていた。
ディノも、今は高揚していて然程疲労を感じないが、いつまで持つかは分からない。
「急ごう」
彼はリュミエレを促して走り出す。彼女に聞きたいことがないわけではないが、今は急いだ方がいい。この空気の中に長居するのはよくないと感じる。できるだけ早く目的を果たして、リュミエレだけでも外に出したい。
道の終わりに、ディノは朽ちて片側が外れた城の扉から中を窺う。そこはがらんとした空洞のホールになっており、正面にある露台から湿った風が吹きこんでいた。
「……いないな」
「上じゃないかしら」
言われてよく見ると、左手の壁に階段入口がある。城の扉はともかく、階段の方は蟲が通れない大きさだ。ディノは後ろを振り返って蟲が追ってきていないことを確認すると、城内に入った。上を確認すると壊れた円環燭台が鎖から傾いてぶらさがっている。
奥の露台は半円形に外へせり出して、その向こうには荒涼とした灰色の海が見えた。遥か先に水平線は、風が強いのがひどく荒れている。
「不思議な領域だな……海が必要なのか?」
《神遺領域》は神獣が暮らしやすいように作られたと聞いたが、あの蟲が生きるのに城と荒れた海が必要なのだろうか。露台から視線を外し階段を上り始めるディノに、リュミエレは言う。
「海が、というか、『逃げられない環境』が必要なんだと思う」
「逃げられない?」
「アメ・リセリは人の集落を襲う性質があるわ。その本能を満たすために作られたんでしょう。攻められるための城は逃げ道のない場所に建っている、というところじゃないかしら」
ディノは沈黙する。
あまり気分のよい話ではない。景色も成り立ちも陰鬱で、作られた領域だというのにこの城が滅んだ時のことを想像してしまう。
二人は階段を上っていく。その終わりは、海に面した広い露台に繋がっていた。
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