第15話 形骸姫
マイアスティが何か大事なことを語る時、その声は静かで、だが遠くまで響いた。
皆が彼女の言葉を聞きたいと思うからだ。それはいつも近くにいたディノも同じで、彼女が語る言葉を一滴も聞き漏らすまいとしていた。ただ大事だったのだ。
『ディノ、聞いて』
その言葉を幾度となく聞いた。
彼女が自分の名を呼ぶ声。その響きが誇らしかった。恥じないように生きようと思った。
彼が生きる指針が彼女で、だから彼女を失った時に全てを失った。
失ったのだ。
「殿下」
知らずうちに口をついて出た敬称は、二度と口にすることはないと思っていたものだ。
門扉の間に立つ少女は、あの夜から変わらない歳のままだ。
薄紅色のドレスに身を包んだ彼女は艶やかな金髪を緩く結い上げて、同じ色の小さな花の髪飾りをいくつも挿していた。紅を引いた唇は明るく、頬もうっすらと紅潮して、とても死人のようには見えなかった。
自分が見ているものが何か、ディノは信じられない。悪夢よりもよほど夢のようだ。
少女は夢見るような視線で彼を見る。
その目を見返す。見つめる。見入る。
歩み出す彼を押し留めようと、リュミエレが正面から抱き着いてきた。
「ディノ、待って。違うの」
「――あなたは」
マイアスティは鳶色の目でじっとディノを見上げる。少女はすぐに微笑んだ。
「ああ、よくここまで来てくれましたね」
嬉しそうに語る、その声をディノはよく知っている。
潤む大きな瞳も、優しげに寄せられた眉も、口元も。
その形を知っている。彼女がそう成長していく様を、傍で見ていた。
少女はディノを手招く。
「さあ、こちらに。話したいことがたくさんあるのです」
穏やかに、旅の終わりを労わるように、霧の城へ招かれる。
それを聞いて、彼に抱き着いて押し留めている女が訴えた。
「ディノ、待って。聞いて」
「――違う」
口をつく。少女は首を傾げた。
「どうしたの? わたしを探していたのでしょう」
「違う。お前は誰だ?」
リュミエレは、はっと顔を上げてディノを見る。
彼女をディノは見返した。一年半の間、ずっと一緒に旅をしてきた女を。
「教えてくれ、君」
「ディノ……」
リュミエレの嘆息に詰まっていたものは、安堵と悲しみだ。すぐに後者が膨らんで、彼女は目を伏せた。
「あれは、《神遺城》の形骸姫」
領域を守る管理人。領域から出られない、そこに縛られた存在。
「あなたの主人の姿を取っているだけの別人よ。騙されないで」
言われてディノはもう一度少女を見る。
違うと感じたのは全てだ。造作はそのままで、けれどそれ以外が全て違う。
マイアスティはこんな風には己を飾らない。媚態を浮かべない。この少女は似て非なる何かだ。それを確信として得た彼は、今この状況をどう判断すべきかまだ分からなかった。
マイアスティの姿をした少女は、愛らしく小首を傾げる。
「つまらないですね」
鈴を振るような声には、残念そうな響きがあった。
少女は微笑む。その笑顔は陰惨で、美しい。
「そうです。私は《神遺城》の形骸姫。必要なのは《顔》で、だから借りました」
「奪ったの間違いでしょう……」
リュミエレの声に初めて怒りが混ざる。ディノはそこに聞き流せない単語を聞く。
「奪った?」
聞き逃せない言葉を聞き返すと、くすくすと少女は笑う。
「あら、知らないのですか。形骸姫は《神遺領域》の一部。その魂を人格ある管理者として成立させるには、死者から一部を譲り受けなければなりません」
紅色に塗られた爪が、マイアスティと同じ顔に添えられる。
「私は《顔》です。死者の顔をもらって成立する形骸姫」
「……は?」
「綺麗な顔が欲しかったのです」
悪気なく、純粋に、少女は笑う。
理解できない。だがディノは同時に理解してもいた。
マイアスティを殺した蟲は、彼女の顔をまじまじと検分して、持ち去ったのだ。
それは彼女が王女だったからでも、毅然として蟲に相対したからでもない。
顔が、気に入ったから。
だから。
「……元の、あの方のお体は?」
彼女と同じ顔を見ていられなくて、ディノは視線を落とす。
それが本当なら、持ち去られたマイアスティの遺体はどうなったのか。半分だけ持ち去られた彼女は。
少女の優しい声が聞こえる。
「え? 焼いてしまったけど。腐り始めたら臭いがきつくなって」
頭の後ろ側が冷える。自分がどんな顔をしているのか分からない。ただリュミエレが彼を抱き留める腕に更なる力を込めたのが分かった。
それをしながらリュミエレは、後方の形骸姫を弾劾する。
「だとしても、今、街を神獣に襲わせているのは何故⁉ 死者からの委譲は、その形骸姫が壊れてしまうまで新しくする必要はないでしょう!」
「もっと綺麗な顔が欲しいから。毎日見るものだから、その方がいいでしょう?」
ディノは、リュミエレを見下ろす。
彼を留める女は泣いていた。
「外のお姫様は毎日服を着替えるでしょう? それと同じです。六年間も同じ顔でいたのだし、次を探しに来ただけです」
「それは形骸姫の仕事じゃないわ」
「神獣を管理するのが私の役目。アメ・リセリの捕食本能を満たすことも大事でしょう」
「違う! あなたは、してはならないことをした!」
女二人の言い争いを、ディノは無言で聞いている。
何故リュミエレは泣いているのか。何故彼に《神遺城》の襲撃について己の考えを話さなかったのか。
彼女はどこかで気づいたのだ。マイアスティの体が持ち去られているならば、形骸姫が同じ顔をしている可能性があると。ディノがマイアスティをどれだけ思っているか知っているからこそ、リュミエレはその可能性を言えなかった。
だから彼女は、ウィノーが襲われたのを知って、驚きながらも安堵したのかもしれない。
形骸姫が別の女の顔を奪ったのなら、もうマイアスティの顔はしていない。
ならばようやく、彼に本当のことを話せると――
「君は」
ディノは、彼女を呼ぶ。
リュミエレは涙に濡れた顔で彼を見上げた。その感情に溢れた目を、零れ落ちる涙を、ディノはそっと拭う。
美しい景色に、新しい生き物に、喜び、慈しみ、恐れ、笑っていた彼女。
目の当たりにする世界の一つ一つに感じ入っていた彼女を、こんな風に悲しませてしまった意味を思う。
「すまない。俺の分まで苦しませてしまった」
彼が過去ばかりを見ていたから。過去の中に居続けたから。リュミエレに不要な荷を負わせてしまった。彼女はこんな愚かな結末で泣く必要はなかった。彼女と出会った時、既に全ては終わっていたのだから。
「約束は叶えてもらった。もう充分だ。ありがとう」
《神遺領域》の門を開くこと、マイアスティの遺体を探す手伝いをすること。
ディノが頼んだことを、彼女は全て叶えてくれた。充分だ。
リュミエレはまた涙を溢れさせる。
夕陽に輝いていた湖のように。山の端から昇る朝日のように。朱色の瞳が煌めく。
「新しく、お願いをしてもいい?」
「ああ」
「彼女は形骸姫として逸脱している。看過できないわ」
彼女を泣かせるのは、これが最後だ。
ディノは頷く。顔を上げる。マイアスティと同じ顔をした形骸の姫を。
「不死の領域だ。殺せるか?」
「壊せるわ」
「やろう」
それで全てが終わる。
リュミエレが腕を解く。門に向かい歩き出すディノに形骸姫が目を瞠った。
「私を壊すために《神遺領域》に? それは無謀です」
「最初からそのつもりだった」
マイアスティの遺体を、神獣の楽園で探すつもりだった。
彼女の体はもうないけれど、やるべきことはあった。
形骸姫は憐れむように微笑む。
「ならどうぞいらして。――私に追いつけるといいですね?」
少女は言うなり身を翻すと霧の中へ消える。
門が音を立てて閉まり始める。ディノは彼女を追って駆け出した。
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