第14話 悲願



 ――追いついた。

 一時はどうなることかと思ったが、幸いなことに目撃証言があった。リュミエレを攫った二人は街の人間ではなかったので、火事場泥棒と疑われて街の人間と軽い口論になったのだ。

 それがあったからこそ、ディノも追いつくことができた。

 隣から手綱を取った彼は、なんとか馬足を停めることに成功する。自分も馬を降りてリュミエレを覗きこむと、彼女は縛られていたが意識はあった。ディノはそのことに、自分でも驚くほど安堵する。

 縄を切って解放すると、リュミエレはぼろぼろと泣き出した。


「ご、ごめんなさい……」

「君のせいじゃない」


 地面にへたりこんでしまった彼女はすっかり消沈している。突然荷物のように攫われたこともきっと理由だろうが、それ以外もある。

 リュミエレは両手で顔を覆った。


「だ、黙っていて……ごめんなさい……わ、わたしは……」

「君は、六年前の襲撃に関わっているのか?」


 そんな直截的に尋ねるつもりはなかった。ただ口をついて出た。

 思ったよりも強張った声で、だが思っていたよりも乾いたそれに、リュミエレは撥ねられたように顔を上げる。


「ち、ちがう。関わってない」

「ならいい」


 そうであるなら充分だ。

 彼女が善良な人間だということはこの一年半でよく分かっている。言えないことにはおそらく言えなかった理由があるのだ。

 話は、いつか必要な時が来れば聞けるだろう。今は攫われた理由を確認して街に戻ることが先決だ。ディノは男たちを目で探す。彼らはまだ遠く離れた場所で転がって呻いていた。尋問くらいはできそうだ。ディノはリュミエレを乗せていた一人に向かって歩き出す。

 後ろからリュミエレの震える声が聞こえる。


「……ディノ、私は多分、どうして《神遺城》があなたの国を襲ったのか知っている」


 足を留める。

 彼は振り返る。リュミエレは涙に濡れた目で彼を見ていた。


「形骸姫が――」


 ふわりと、甘い香りが漂う。

 リュミエレが驚愕に目を見開く。

 彼女が見ているものは、ディノの背後だ。


「ひぎゃっ」


 短い悲鳴が上がる。ぐちゃり、と肉が鳴る音も。

 振り返らなければならない何が起きたか分かるあの夜と同じ何故分かるのか。

 ディノは、その先を予期しながら悲鳴の元を辿る。

 辿って、見る。

 月明りの下、あったのは大きな緑の鎌だ。

 それは男の体を斜めに両断していた。

 血溜まりが広がっていく。鎌は、何かを探すように肉を更に刻む。

 何もないはずの空中から、次第にその巨体が現れる。

 鎌の先の体が、ぎょろりと大きな複眼が。三角形の頭が、闇の中に出現する。


「どうして」


 リュミエレの呟きが聞こえる。


「どうしてまた⁉ それなら――」


 彼女の悲鳴の先をディノは聞かなかった。

 目の前の光景に気を取られていたからだ。

 夜の中に、次々巨大な蟲たちが姿を現す。

 何もない場所から――否、違う。それらがどこから現れるのか、今のディノは知っている。


「《神遺領域》が……」


 きいきいと、錆びかけた蝶番が鳴る音がする。

《神遺城》の門が開いている。神獣が通る度に門扉が揺れて音を立てているのだ。

 最初に現れた蟲は、刻んだ男を食らっている。その次に現れた蟲は街の方へ移動し出してまもなく、やはり倒れていたもう一人の男に気づいた。悲鳴に続いて咀嚼音が上がる。


 ――何度も、悪夢に見た。

 あの蟲が人を食らう光景を、それに手が届かない自分を。

 そして今はその続きだ。


 一匹、また一匹と増えていく蟲はウィノーの方へ動き出す。ディノとリュミエレには気づいていない。門は二人よりも街の近くにあり、街の方に向けて開いているからだ。ディノに見えているのは、黒い右側の門扉だけだ。

 そう、門は開いている。

 回りこめば、今なら領域の中へ入れる。蟲たちは街へ向かっている。闇に紛れれば気づかれないかもしれない。気づかれても別にいい。


 中へ。

 あの夜マイアスティが連れ去られた、

 違う、持ち去られた――

 ディノは口を押さえる。こみ上げた胃液を何とかのみこんだ。喉が焼ける味がする。

 それでも足は動き出す。門の方へ、領域の中へ。

 ずっと探していたものが、そこに。


「ディノ、待って」


 女の声。

 か細いそれは震えている。あの日のマイアスティとはまったく違う。

 だが、ディノには届いた。

 彼女は、今にも倒れそうな様相で、けれど立ち上がっている。その右手には水晶の笛が握りこまれていた。


「行かせてはいけないわ」


 領域に入ろうとする内心を見透かされたかとぎょっとする。

 けれどすぐにディノはそうではないと気づいた。彼女は「行かせてはいけない」と言ったのだ。何をか。考えるまでもない。

 白い指が、街へと向かう蟲を指す。


「また、同じことをする」


 街を襲って、人を食らって。

 全てを壊す。それと同じことをする。マイアスティをあの夜そうしたように。



 ――自分が善人であろうとすることが許せない。

 かつてディノは、そう煩悶したことがあった。

 だが今になってみると、自分は元より善人などではありえないと気づく。

 襲われようとする街よりも、主君の遺骸を探すことを優先しようとした。ごく自然にそうとしか思わなかった。これが自分だ。

 たくさんの皿の中から、自分にとって特別な何かだけを選ぼうとする。彼のそんなところをきっとマイアスティは知っていたのだろう。だからあの夜も彼を留めた。


「ありがとう、君」


 今はもう彼女はいない。

 ただリュミエレがいる。ディノは深く息を吐き出す。

 頭が冷える。街に向かっている蟲は今のところ九匹だ。一人で一度に相手するには多い。だが、一匹ずつ相手にしていては、きっと他の蟲は街になだれこむだろう。

 一度は蟲の襲撃を退けたという騎士団にどれだけの余力が残っているのか。考える間にリュミエレが言う。


「こちらに注意を引いてみる。その上でこれ以上増えないように門を閉めるわ。外から完全に閉めるのは無理だけれど……」

「充分だ。君は危なくないようにしていてくれ」

「私は大丈夫」


 リュミエレは笛を口に当てる。

 音は聞こえない。だが蟲たちの歩みはぴたりと止まった。一番近くで男を食べていた蟲が顔を上げる。目が合う。炎ではなく月が複眼一つ一つを光らせる。


「行ってくる」


 ディノは、大剣を抜きながら駆け出した。

 蟲はまだ自分に向かってくる人間が何か知らない。己からするとただの小さな生き物が、己を憎んでいて殺す力があることを知らない。

 だから一匹目は容易かった。漫然と男を食べていた蟲、その鎌の下を潜り抜け大剣を振るう。

 蟲の巨体のうち、もっとも細い箇所が足だ。ディノの大剣はその足を暴風のように薙ぐ。生木を割るような音がして、蟲の体が傾いた。

 蟲の足を蹴って宙に。

 その首に刃を叩きこむ。固い外殻に罅が入る。

 蟲の頭部はぐらりと揺れ、そして落ちた。

 六年前にはできなかったことだ。だがこの六年間で彼は己の武器を何度か変えていた。

 より鋭く、的確に、力を伝えるために。試行錯誤は無駄ではなかったようだ。

 残りはまだいる。息をついている暇はない。ここには隠れられる場所もない。ディノは剣を握り直し二匹目に向かって走る。


 斜め後方の門は振り返らない。そこに踏みこむより先にやらなければならないことがある。

 新手が増える心配もしない。門が再び鳴っている。リュミエレが閉めようとしているからだ。

 だから彼女を信じて前進する。

 二匹目はディノの後方をじっと見ていた蟲だ。笛を鳴らすリュミエレを見ているのだろう。

 遠い星を見つけたかのように、感情のない目に憧れさえ想起させて。

 間近に迫るディノにようやく気づいて鎌が振るわれる。彼はそれを剣で払った。剥き出しの腹に向けて大剣を突き刺す。

 蟲は大きくのけぞる。声はない。

 その憧れがリュミエレに届くことはない。



 痛みも、疲労も感じない。

 恐怖もない。そして怒りも。

 戦う。領域より出ずる神獣を殺す。彼女と約束した通りに。

 街へと達する蟲はいない。

 最後の一匹は、三本の足を失って地面をもがきながら死んだ。

 ディノは肩で激しく息をつく。全身の血が熱を持ち過ぎて思考を焼くようだ。

 ただまだ終わりではない。神獣の死体は回収されず打ち捨てられているままだ。

 彼は門を振り返る。

 銀色の金属を編んで作られた優美な門。それは確かに《城》にふさわしい。

 人一人が通るのがやっとの隙間を残した門の向こうには霧が立ちこめ、奥には灰色の城の影がぼんやりと見えていた。


「あれが……」


 ディノは一歩を踏み出す。膝から力が抜けそうになって、己を𠮟咤した。

 ようやくだ。ようやくあの日奪われた主人を探せる。

 この数年間の、残滓のような人生に結着がつく。

 一歩一歩を踏みしめるように門へ向かうディノに、リュミエレの声が飛んだ。


「駄目よ、ディノ。待って」

「いいんだ。ありがとう、君」


 もういいのだ。これでいい。人ならざる標本の領域で、啄まれて死んで構わない。

 それよりもマイアスティの傍で。あの夜伸ばせなかった手の分まで。

 門が近づく。その前にリュミエレが走りこんでくる。彼女は両手を広げてディノを遮ろうとした。


「駄目よ、ディノ。先に私の話を聞いて」


 必死な彼女の顔は、ずっと一緒にいてなお初めて見るものだ。

 ディノはそこに何かを感じて足を留める。彼女がまるで壊れてしまいそうに見えたのだ。


「……どうした、君。最初からそういう約束だっただろう」

「そう。それでいいと思ってた。でも今は違う。まだ違うの。あのね――」



「そこに誰がいるの?」



 唐突な少女の声。

 それは門の向こうから聞こえた。

 閉められかけていた門に小さな手がかかる。その手が軋む音をさせて片側の扉を押し開ける。

 リュミエレの肩越しにそれを見たディノは言葉を失う。

 霧の立ちこめる中、門扉の間に立っているのは淡い金髪の少女だ。

 愛らしく、誰からも好かれる、聡明なまなざし。

 彼女は。


「――殿下」


 あの夜死んだはずの、マイアスティだった。

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