第13話 奇跡
「ど、どうして燃えてるの?」
リュミエレの呆然とした声に我に返ると、ディノは崖の中の小路へ急いで向かう。
「分からない。ただおそらく間に合わない」
高い場所だからこそ見えたが、距離はかなりのものだ。急いでも三日はかかるだろう。
二人は細い洞窟の中の坂を下りていく。光苔が淡く空間を照らしている。
ディノは、まだわずかしか走っていないのに息が上がっていることに気づくとリュミエレを振り返った。彼女との距離は大分開いている。いつの間にか引き離してしまっていたのだ。
「……すまない」
どっと汗が噴き出してくる。忘れられないあの夜の空気が押し寄せてきて噎せ返るほどだ。
彼は何度か深呼吸して息を整えるとリュミエレを待ってまた歩き出す。
二人はそして、地上の集落に寄ると、事情を話し、礼を言って出立した。
ウィノーまでは直線で行くと森を通ることになるが、この場合は街道に沿って蛇行していった方が早い。森の中にはいくつか細い崖や川もあるのだ。
騎乗の人となったリュミエレは笛を回し始める。ここからの距離からしてぎりぎりウィノーは届くくらいだ。けれど彼女はかぶりを振る。
「駄目だわ。さっきの《神遺湖》しかかからない」
「まったく別の原因で燃えてる可能性もあるな」
だとしても、災害なら人手は必要だろう。ディノは何度か振り返りながら街道を急ぐ。
そうして彼らは三日後、ウィノーに到着した。
「火は消えているみたいだな……」
二人が到着したのは城壁のうち南門だが、そこは軽く黒焦げになっているだけで崩れた様子はない。復旧のためだろう。人々が忙しく行き来していた。
馬を預けたディノは、それらの人間のうち木材を運んでいる男を呼び止める。
「何があったんだ?」
男は自分も分からないとでもいうように首を横に振った。
「でかい虫の化け物が襲ってきたんだと。騎士団が追い返したが、結構人が死んで街も子の有様だ」
「虫……」
慄然とディノは立ち尽くす。己の声が震えて一人でに聞いた。
「どんな虫だ?」
「あー……緑色の、両手が鎌になってるやつだったか?」
言葉を失う。隣でリュミエレがぽつりと呟いた。
「そんなまさか。早すぎる」
ディノは彼女を見る。女ははっと口を押さえた。二人の目が合う。
「あんたたち、旅の人なら西地区で宿を取るといいよ。そっちはまだ無事だから」
仕事に戻る男に何も返せぬまま二人は立ち尽くす。
「君は……何を知ってる?」
リュミエレは自分の口を押さえたまま首を横に振る。
言えないということなのか、言う気がないのか。
ここまでずっと一緒に旅をしてきたのに、リュミエレが急に知らない女のように見えた。
ディノは何か言いかけて、自分に何も言う言葉がないことに気づく。
ウィノーにつくまでの間、彼はずっと言葉少なでいた。何かを話せばそれが事実になってしまう気がしたし、過去に一歩ずつ戻っていくような気がした。だから最低限のことだけを口にしていたのだ。
リュミエレも多くを語ろうとはしなかった。それは、彼女が彼女で別の恐れを抱えていたからなのだろうか。
――彼女は、《神遺城》についてディノに言っていない何かがあるのではないのか。
答えないままのリュミエレに彼は深い溜息をついた。
「宿を取ろう。状況を調べて、人手が要るなら手伝いに入る」
動かないままの彼女を置き去りに、ディノは歩き出す。
足取りが重い。
それは久しぶりに感じる倦怠感だった。
六年以上も過ぎて、残っているものはなんなのだろう。
ディノは夕暮れ時の街中、人に混ざって瓦礫を運びながら考える。
マイアスティの持ち去られた遺体を取り戻したいと考えていた。それはきっと食べられてしまっているのだとしても、もうないことを確かめたかった。
だが……六年だ。残っていても彼女の体はもう腐敗しきっているだろう。それとも死のない《神遺領域》の中で、彼女はあの日のまま残るのだろうか。
ディノは水中に漂う主君の体を想像する。マイアスティは目を閉じて安らかだ。結局ディノは彼女の死に顔を見ていない。彼の中のマイアスティは穏やかに笑っているか、決意に厳しい顔をしているか、少し恥ずかしそうにはにかむか……そのどれかだ。
マイアスティは自己の精神を統御するに徹底した少女だった。だからディノは、あれほど一緒にいてあまり彼女の表情を多く知らない。
一年半一緒にいただけのリュミエレの方が、ずっと色んな表情を見てきた。彼女は、感情を面に出すことを気にしなかった。新たな者に触れる度、喜びも悲しみも感じ取れた。
だが、今の彼女は分からない。
リュミエレは青ざめたまま宿についてきて、部屋に引きこもってしまった。そこから出てきていない。
彼女が《神遺城》について教えてくれたことは多くない。移動をすること、どこに在るのか分からないこと。蟲の名は「アメ・リセリ」で、雑食種であること。
それくらいだ。他の《神遺領域》についても、場所と神獣の名と大体の性質を把握しているくらいだったので、ディノはそれを不自然だとは思わなかった。
――ならば「早すぎる」とは何なのか。
「今日はここまでにしよう! みんなありがとう」
撤去作業を取り仕切っていた男が声を上げると、参加していた者たちは口々に互いを労わり合って解散していった。ディノは無言のまま宿に向かう。
ウィノーの様子は、アランディーナとは違った。真夜中に襲われたアランディーナと、昼日中に襲撃があったウィノーの違いもあるだろう。ウィノーは火があまり広がらなかったという事情も。ただだとしても、ディノが五年前の己の無力さを再確認するには充分なものだった。
ウィノーにも同じ目に遭って欲しかったなどとは思わない。犠牲者もたくさん出たのだろうことは、崩れた建物の近くに大きな血の跡がいくつも残っていることから分かる。呆然と道に立ったままの男がいることも、絶えず子供の泣き声が聞こえてくることも。
ただそれでも、失われた彼の祖国ほどではない。
そんな風に思っている自分に気づくと、本当に嫌になる。
暗くなっていく街を歩いて、ディノはいつの間にか宿の前に立っていた。中に入ろうとして、大きな布包みを抱えた男たちとぶつかりそうになって脇に避ける。
ディノは二階への階段を上がりながら考える。
――やはり明日になってしまう前に、きちんとリュミエレと話した方がいい。
今の時間まで蟠りを残してしまったが、彼女は悪意を以て彼を欺こうとする人間ではないと思う。言えなかった事情があるなら、それを含めて話し合いたい。
ディノは彼女の部屋の前に立つと、扉を叩く。
名は呼ばない。返事もなかった。
もう一度叩こうとしたディノはそこで、扉の下に挟まっている者に気づく。
何ということのない布の切れ端。だがそれはリュミエレが途中の村で買って大事にしていたものだ。
ディノは扉を開ける。掛金はかかっていない。
部屋の中には誰もいない。代わりに揉みあった後のように荷物が散乱していた。
彼はすぐに心当たりを思い出す。
先程宿の入口ですれ違った男たちが確か大きな布袋を持っていた。女一人なら入るほどの大きさで、あれがリュミエレだったのではないか。
「くそ!」
ディノは踵を返す。階段を駆け下りる。
男たちがどちらに行ったかは視界の隅で見ていた。街を出る西門の方だ。今ならまだ追いつけるはずだ。
何故彼女が攫われたのか、理由はいくらでも思い浮かぶ。リュミエレは美しい女だ。今の街の混乱の機に乗じて人攫いも出ておかしくない。
ただディノには別の心当たりがあった。《神遺湖》からウィノーまで来る途中、度々視線を感じたのだ。何度か振り返ったが、その視線の主を見つけることはできなかった。
あの視線がリュミエレを攫った人間たちの者だとしたら。
それは別の危険を意味しているのではないか。
彼は壊れかけた都市を走る。五年前のことを思い出す。
※
愛を知りたいと思った。
神の去った世界。残された人間たちはどうやって穏便に生きていくかを定期的に話しあっている。それは彼らにとって当たり前の方策だ。人は死に、世代は移り変わっていく。だから協力しあって平和を保たねばならない。
それは当然のことで、だが彼女は彼らの理想が瓦解する様もよく見てきた。
人は迷い、間違い、惑い、失敗を重ねていく。そういうものだ。そういう生き物だ。彼女は人のそんな在り方を受け止めて受け入れている。弱いから愚かだから寄り集まって、弱いから愚かだから失敗する。花が咲き、実ができて葉が枯れ落ちるのと同じだ。
人間たちもきっとそのことを知っている。
それでも彼は言ったのだ。「自分は、特別な一人のために生きる」と。
子供だからというのはあるだろう。それでも彼の強さが眩しかった。憧れた。印象に残った。
久しぶりに会った彼はもう子供ではなくて。
ただその愛は、どうしようもない結末に成り果ててもなお変わっていなかった。
それは彼女の目に、まるで奇跡のように映ったのだ。
だからどうか。
目が覚める。
何も見えない。視力がおかしくなったのかと思えば違う。暗いだけだ。
揺れる。揺れる揺れる。なのに体は自由にならない。
リュミエレは、自分が手足を縛られ馬の鞍にくくられているのだとようやく気づいた。宿の部屋に押し入ってきた見知らぬ男たちに拉致されたのだ。
何故自分が、とは思わない。
彼は部屋に入って来た時に確認してきた。「神域に立ち入れるという女はお前か」と。
神獣の肉体は手に入れば膨大な財産になる。それは滅多に手に入ることのない宝石の塊のようだ。男たちは、リュミエレが《神遺湖》麓の集落で「神域に行きたい」と言っていたのを聞いていたのだろう。まったく迂闊だったとも思うが、《神遺領域》回っている以上、いつかはこういう人間に出くわしたかもしれない。
リュミエレは身じろぎする。だがしっかりと鞍に縛りつけられており抜けられそうにない。馬を駆る男は彼女を振り返りもしない。真っ直ぐに夜の奥へ向かっていく。
馬は隣にももう一騎いるようで、二人で彼女を攫ったのだろう。視線を動かすと、遠くにウィノーの街の灯りが見えた。何も説明せぬまま置いてきてしまった男のことを彼女は思う。
もっと早く言えばよかったのだろうか。
だがそれは彼の心を粉々に砕いてしまうことにならないか。悲惨な結末を経ても変わらなかった彼の愛を、粉々に。
――だがそれも、今ならきっと言える。
言おうと思ったのだ。彼が帰って来たなら。にもかかわらずまったく自分は間が悪い。
リュミエレは諦めず、後ろ手に縛られた手首を引っ張る。縄が食いこんで痛みが走った。動いているせいか胸元から水晶の笛が零れ落ちて揺れる。ひゅうひゅうと音が鳴る。
彼の名を呼びたいと思う。
涙が滲む。謝りたいと思う。
もしもう一度、機会が来るなら。
ヒュン、と風切り音が鳴る。
それは笛の音ではない。矢の飛来する音だ。
短い悲鳴が上がり、隣で男が落馬する。リュミエレは反射的に身を竦めた。
「貴様、どうやって!」
忌々しげな男の叫びが聞こえる。新たな馬が暗闇から現れ隣に並ぶ。
それが誰なのか、うつぶせにくくられているリュミエレには見えない。
見なくても分かった。
「停まれ」
短い警告。けれど馬足は緩まない。
リュミエレを攫った男は腰の剣に手を伸ばした。
その姿勢のままぐらりと傾く。
地面に重いものが落ちる音が響き、横から伸びてきた腕が代わりに手綱を掴んだ。
「大丈夫か、君」
ああ、奇跡だと思った。
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