第12話 漸進
旅を続ける。
地図は少しずつ埋まっていき、訪れた《神遺領域》も五つになった。
異常があったのは最初の領域だけで、あとはとりたてて変化もないようだ。例の《神遺領域》に穴を開けた神獣は見つかっていないが、特に目撃情報や被害情報もない。リュミエレの探査にもかからない。仕方なく二人は、当初の予定通りできるだけ満遍なく探査済みの範囲を広げながら《神遺領域》を訪ねていた。
領域をリュミエレが開くと、形骸姫が出てきて簡単な挨拶をする。答えは大体「異常はない。もう長い間ずっと何も変わらない」というものだ。そんな彼女たちはそれぞれ違って美しく、それぞれ人間味がなかった。
「皆、違うのだな」
五つ目の《神遺領域》――《神遺湖》を訪れた後のことだ。
陽光の下、湖岸に戻る小舟を漕ぎながら、ディノはそんな感想を漏らす。
いつの間にか、二人で旅を始めてから一年半が過ぎていた。その間リュミエレは新たに出会う景色のすべてに感動し、学び、大人になっていく。
既に大人である彼女が「大人になる」という言い方が違うのなら、豊かになっていく。そしてそんな彼女を見守るのが、ディノは嫌ではなかった。
小舟から手を出して、透き通る水を指で掬っていたリュミエレは首を傾げる。
「違っているって?」
「領域と形骸姫が。領域名は、それがある場所を意味しているというわけではないんだな」
たとえば湖上にある《神遺湖》は、門が開いた時その内部も水で満たされていた。神獣は大きなエイのような生き物だった。そこにいた形骸姫は人の姿をしていたが、彼女は水を操れるようだ。他の領域を訪ねた時も、皆そのように少しずつ違っていたのだ。
リュミエレは「ああ」と微笑む。
「そうね。それぞれの神獣の生態に合わせて領域が作られて、その領域を維持しやすい場所に置かれて、最後に管理しやすい形骸姫がつく、という感じかしら。形骸姫は管理用の能力を持っていることが多いわ」
「不思議なものだな。形骸姫という名称も」
細い小舟に、二人は同じ方向を見て座っている。だからディノに見えるのはリュミエレの背と横顔だけだ。彼女は長い睫毛を揺らして微笑む。
「名称そのままの意味ね。空っぽなの。神獣も形骸姫もそう」
「空っぽ?」
「神獣はね、もう死んでいるの。魂がないのよ。ただ体と単純な本能だけが残って、動いている。本当は彼らにはもっと知性があったのだけれど、それは失われてしまったわ。《神遺領域》はあくまで彼らの形を残しておく場所でしかないの。動く剥製ね」
「それは……不思議なものだな」
軽く驚きつつ、けれどディノは腑に落ちる。神獣は己の領域において不死だという。それは彼らが本当の意味では既に死んでいるからなのだ。
「形骸姫も魂がないのか?」
「いいえ」
二人が行く湖は、水がほぼ透明だ。かなりの深さがあるはずなのに水底まで見通せる。
薄青い水。揺れる水草の間を流線形の魚の群れが泳いでいた。
「形骸姫はその逆。魂しかないの。それ以外は後から用意されたものだわ」
「不思議なものだ」
「管理人は人間の範囲内でないと、何か問題が起きた時に話も難しくて困るでしょう?」
「確かに。今とかな」
各領域に一人ずついる管理者たち。彼女たちはそれぞれが神秘を身に表している。ただ言われてみると彼女たちはそれぞれ領域の一部といった印象だ。形骸姫とは皮肉な名だが、その通りなのだろう。
ディノが両手の櫂を漕ぐと、小舟は滑るように水面を進む。
綺麗な円形の小さな湖は、普通には登れない断崖絶壁の上の台地にある。そこをディノたちは、現地の人間の案内で絶壁の内部を通る小道を抜けて訪れたのだ。
振り返ると湖面はきらきらと光って見える。まるで鏡のようだ。
「美しいものだな」
「ええ」
この湖が、現地の人間たちにも神聖な地として扱われているのも頷ける。
透明度の高い湧き水はこの高地にある湖を満たし、その一部が小さな川となって麓の村へ届く。この湖は、彼らにとって恵みの湧き出ずるところだ。そうでなくとも透き通る水中を小さな魚が泳ぎまわる眺めは、人の心を引くだろう。ここへの立ち入り許可をもらうための交渉も苦心したのだ。リュミエレが大陸神殿の人間であることを明かし、現地調査のためと説得した。最終的には「ここは神域にあたるので」とまで明かす羽目になったが、そうでもしなければ案内はしてもらえなかっただろう。
「泳いでみたくなるけど、泳いだことはないの」
「もっと別のところで慣らしてからの方がいい。西の海岸には泳ぐのに適した砂浜がいくつもある。観光都市もある」
「ディノは行った? 泳いだ?」
「行ったが泳いではない。でもこことはまた違って綺麗だ。青が鮮やかで、どこまでも続いている。波の音が耳に残る」
「行ってみたいわ!」
「そのうち行ける。西岸も回るからな」
地図は、南東からゆっくりと弧を描いて埋めている。来年には西岸に辿りつくだろう。もっともその頃には少し寒々しい季節になっているかもしれない。リュミエレはどちらかというと寒がりなので気をつけた方がいいだろう。
「こんな景色に触れられるのも、全部あなたのおかげだわ」
リュミエレは、水に浸した指を目の高さに上げる。
そこから零れ落ちる雫がきらきらと輝くのを、彼女は朱色の双眸を細めて眺める。
一滴一滴に、彼女の感情が映し出されて見える。
新しいもの、まだ知らないもの、美しいもの、健気なもの、彼女の目に映る全て。
それを愛しいと思っている。憧れている。触れられることが嬉しい。今こうしていられるのが楽しい。幸運だ。貴重。かけがえのない。――遠い。
種々の感情はそれ自体が透き通る宝石を思わせる。一つ一つが分かる。分かってしまう。それらは最初の頃よりもずっと強く、複雑だ。
ディノは、そんな彼女からの感謝に苦笑する。
「君がちゃんと動いているからだ。俺も周囲も、君が動かしている」
「迷惑をかけてるってことでしょう」
「違う。そのままでいれば変われないままのものを、君は動かせるんだ」
リュミエレは分かっていないのか目をしばたたかせる。
或いはそれはディノ自身もそうだろうか。
彼女と出会う前の五年より、彼女と旅を始めてからの一年半の方が時間の流れが早く感じる。
世界の探索が進んでいるからというだけではなく、彼自身も――
「ディノ、危ない」
言われて彼ははっと我に返る。見ると岸はもうすぐそこだ。黙々と漕いでいて乗り上げてしまうところだった。彼は手を止めると小舟を旋回させ岸に接舷させる。彼は自分が先に浅い水中に足を踏み入れながら船を固定させた。リュミエレに手を差し出す。
「ありがとう」
彼女は借りた手に体重をかけ過ぎないようにか、「えい!」と勢いをつけて岸に飛び移る。おかげで転びそうになるのをディノは支えた。ついでに反動で流れて行ってしまいそうな小舟も掴んで引き寄せる。
小舟は案内してくれた集落からの借り物だ。ディノはそれを水面から引き上げると抱え上げた。そうして二人で下へ戻る洞窟へと向かおうとしたところで、リュミエレがぽつりと言った。
「あれは……」
リュミエレの指差す先、遥か向こうに黒煙が上がっている。
彼女よりも視力のいいディノは目を細めて、絶句した。
遠く、街道沿いに立つ都市国家ウィノー。
そこが今、大きな煙を上げて燃えていた。
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