第11話 神の庭
河の対岸も森ではあったが、ディノたちは比較的人里に近い、南の箇所に船をつけてもらった。森を抜け、村に辿りついた二人は、そこでテペマを売却する。
テペマは、道なき道を移動するには最適だが、街道を行くには遅すぎる。ディノはてっきり、リュミエレが「売りたくない」とごねるかと思ったが、そんなことはなかった。彼女は大きなテペマの全身を拭いて磨くと「いい主人に買われますように」と別れを惜しみつつ見送った。
テペマを置いて去らなければならない彼女は、まるで彼女の方が置いていかれる子供のような目をしていて、ディノは胸中に複雑なものを抱く。
「神獣の位置は?」
「同じ位置を回ってるままだわ」
「……空中かもな」
地図のその場所は、荒野と険しい山が地続きになっている場所だ。そこを一定の速度で旋回し続けていられるとしたら、地下か空中だろう。
村では「古い街道に出かけて行ったものが最近戻ってこない」という情報も聞いた。神獣に襲われたりでもしたのだろう。今ではすっかり噂になって往来も途絶えているらしい。
その街道を、二人は今南下している。
「《神遺領域》も旋回場所から近いわ。多分そこから逃げ出したのね」
「回収はできないのか?」
「多分難しいと思うわ。この領域は移動できないものだし、管理者はそこから出られないから」
「管理者か……どんな存在なんだ?」
「そのうち会えるわ」
二人は赤茶けた荒野を馬で移動していた。リュミエレは砂塵除けの外套をなびかせながら、何もない景色を見つめる。空は風が強いらしく、波打つ雲がかなりの速度で流れていた。
「――テペマを手放してよかったのか? 名前まで付けて可愛がっていたのに」
聞くべきではないことを聞いてしまったのは、少し沈黙の時間が長くなりすぎたからだ。木になって聞いてしまった。
リュミエレは淡く笑う。
「薄情だと思った?」
「そういう意味じゃない」
きっぱりと言ってから、ディノは「じゃあこの感情は何なのか」と考える。考えて……それらしい答えを摘まみ上げる。
「俺が、罪悪感を覚えているんだろう。仕方がないとは言え、申し訳ない」
テペマは別れることが当たり前の生き物だ。たとえ森で見捨てていかなかったとしても、旅の最初から最後まで一緒ということはあり得ない。そのことをもっとちゃんとリュミエレに説明しておけばよかった。「ここで売っていく」と言った時、彼女は確かに呆然とした顔をしたのだから。
けれどリュミエレは首を横に振る。
「いいの。そういう気持ちが私にはきっと必要だから」
「諦めることが?」
「違うわ」
風が吹く。砂埃が吹きつけてきて、ディノは目を伏せる。
「贔屓をすること、愛着を持つこと、たくさんの中から一つを特別とすること」
二人が行く街道の先には、かつて一つの都市があった。だがそこは五十年ほど前に人口不足で滅んでしまったのだ。だからもう今はこの道を整備する者はいない。世界にはところどころ、こうして「空白のような場所」がある。
「私は今までそれを持っていなかった。全部が同じで、どれも特別ではなかった。でもそういうものを持ってもいいかもと思ったの。贔屓をするって結局、それが好きってことでしょう? テーブルに並んだお皿の中から何を食べるか選ぶみたいに」
「……そうかもな」
「私はそれが欲しかったの。だから、失う痛みも必要なの」
彼女の言っていることはよく分からない。彼女は充分情の深い人間に見えるからだ。
ただそう聞くと心当たりもある。
「俺を愛したいというのも、同じ理由で?」
誰かを愛したい、と彼女は言った。
それはつまり、多くの人間の中から一人を特別にしてみたいということだろうか。
年端の行かない子供が「恋をしてみたい」と言うように。彼女はもっと根本的な意味で、人への感情を抱きたいと言っているのではないか。
砂埃が通り過ぎ、ディノは顔を上げて、はっとする。
彼女は深い慈愛の目で彼を見ていた。
「そうかもしれない。でもそれだけじゃないかもしれないわ」
朽ちかけた街道は、割れた石畳があちこちに転がっている。その上を二人は旅をする。
「あなたは、ちゃんと真っ直ぐに人を愛せる人。だから、そんなあなたならと思ったの」
リュミエレはそこで口をつぐんで前を向く。この話は終わりだということだろう。
ディノは、馬鹿なことを聞いたと後悔する。
そんなことを確かめずとも彼女は充分に心ある人間だ。たとえ彼女自身の自己評価が違ったとしても。なのにそれを不躾に分解してしまうのは、訳知り顔で腹の中身を開けてみるようなものだ。
失礼なことをした、と謝罪するのも違う。それは不躾さの上塗りだ。彼女は触れてみたいだけで、誰かに触れられたいわけではないのだろうから。
二人はそれからしばらく街道を南に向かって進んだ。周囲の色が少しずつ変わっていく。赤茶色から茶色へ、そして灰色へ、白へ。
気温が下がっているわけではない。ただこの辺りの大地は何故か昔から白いのだ。草木もない薄白の大地は、東に聳える山へとそのまま続いている。ディノはその山を見やる。
山から吹き下りてくる風には、潮の香りが混ざっていた。
海からは遠く離れた荒野。リュミエレもそれに気づいたらしく馬上で顔を上げる。
「不思議な匂いがする。気のせい?」
「あの山の向こうに塩の湖がある。そのせいだ」
「そんなものがあるの?」
彼女の声には好奇心が滲んでいる。もし「見てみたい」と言われたらどうしようか、ディノは悩んだ。
だがすぐにリュミエレは、淡く微笑む。
「不思議なものね。私の知らないことばかり」
彼女は半ば無意識に、首から提げた小さな水晶の笛を弄る。そうして世界を見る眼差しは憧れを多分に含んだもので、ディノの胸はちくりと痛んだ。彼女に初めての世界を見せる人間が、自分のような過去に生きる者であることを申し訳なく思う。
視線が、自然に東を向く。女の声は、上質の絹のように滑らかだった。
「向こうにあなたの国があった?」
「ああ」
塩の湖を越えた更に山の向こうに、アランディーナは在った。
今はきっともう、何も残ってないだろう。ディノはあの日から国に戻ったことはない。
主人を失った自分は、緩慢な自死の中にあるかのようだ。だが、世界全てを回るならいずれは戻るのかもしれない、と思う。
「――この辺りだわ」
リュミエレは馬を止める。ディノを見上げた。
「神獣を呼び寄せるわ。その後のことはお願いできる?」
「ああ。そういう約束だ」
想像していたよりもずっと早い邂逅だが、その方がありがたい。自分の力も確かめられる。
ディノは馬から降りると、重い外套を脱ぎ捨てる。大剣を抜く彼を、リュミエレはじっと見ていた。
「無理はしないで。駄目だったら一度退きましょう」
「気にしなくていい。君が危なくないところにいてくれ」
彼女は手綱を取りながら頷いた。首から提げた水晶の笛に唇を当てると――息を吹きこむ。
高く、澄んだ音が聞こえた気がした。
けれどそれは気のせいだ。人の耳に、その笛の音は聞こえない。
その音が聞こえるのは、特別ないきものだけだ。
大きなはばたきが聞こえてくる。
地上に巨大な影が差す。
ディノはいつの間にか頭上を旋回しているそれを見上げた。
青銀の鱗の生えた翼、長い尾。彼の国を襲った神獣とはやはり違う。だが同じ、神の遺した生き物だ。鋸のような歯の端に、赤い布が引っかかっているのが見える。それがどこかの商隊の旗だとわかって、彼は眉を顰めた。
リュミエレの声が聞こえる。
「《神遺園》のタビス・オナよ。尾の付け根を狙って」
「剣が届かないな……」
「すぐに降りてくるわ」
彼女の言う通り、神獣は二人の姿を認めると急降下してくる。
鳥とも魚ともつかない姿、嘴のような口が開いてその奥に赤い舌が見えた。二人をもろとも喰らおうと迫ってくる神獣に、ディノは両手で大剣を構える。
畏れはない。
それは祖国が燃えたあの日、失ってしまった。
誰よりも自分が守るべきだった主君を失ったその時に。
後はただ追って、戦うだけだ。
だから彼は宣言する。
「アランディーナ国将軍、ディノ・ハルト――推して参る」
神獣が真っ直ぐに落ちてくる。彼を食らおうと、巨大な体を以て。
ディノはそれに対し、一歩左に動いただけだった。
全身を発条に、全ての力を剣に。
激しい砂煙が上がる。
厚刃によって打ち上げられた顎が、大きく宙へとのけぞった。そんな風にただの人間に反撃を食らったことなど一度もないのだろう。金属を擦るような叫びが辺りへ響き渡る。
けれどディノは怯みもしない。更に踏みこむ。青銀の鱗の腹に二撃目を打ちこむ。
尾の付け根とはいったいどこなのか迷うが、巨大な胴の側面に回ると膨らんだ胴に続いて長く垂れた羽の尾が見えた。ディノはその尾に向かって割れた石畳を蹴る。
だが彼はその直後飛び下がった。神獣が再び彼に食らいつこうとしてきたのだ。
その嘴にディノは空を切らせる。タビス・オナは地面に激突し、石礫が彼の全身にぶつかった。頬を掠めたものは軽い痛みをもたらしたが、戦闘中にそんなことを気にする者はいない。彼は砂埃が舞う中へ剣を振り切る。それは神獣の右目を押し破った。
五年前のあの時よりもずっと危なげなく、なめらかに。
それは年月を経て彼が強くなったからではない。「どうしてもこれだけは」という思いがないからだ。
身軽で、どこまでも踏みこめる。自由だ。
リュミエレが、人との繋がりを欲しているのとは逆に。
彼は、何とも繋がれないまま漂っている。
次の世界に行けないまま、この世界で。
苛烈な戦闘はそう長くは続かなかった。
一際大きな砂煙が撒き上がる。巨体が落ちる衝撃が辺り一帯を揺るがした。
尾を斬り落とされ動かなくなった神獣を、ディノは息を整えながら検分する。
「これは……死んだのか?」
「ええ。《神遺領域》を出た神獣は、不死の属性が失われるから。ちゃんと死んでる」
馬から降りて、リュミエレは彼の元に駆け寄る。白い荒野に横たわる神獣は、全身が宝石の塊であるかのようだった。鱗も牙も羽も、恐ろしいほどの高値で取引が可能だろう。
だがそれは、人の手に渡していいものではない。
リュミエレは首に提げた笛を外すと、いつものように紐の先端を持って回し始めた。ヒュンヒュン、と風を切って音が鳴る。
探査をしている時とは違う。彼女はそれを回し続ける。鳴り続ける音は何もない宙に波紋を生み、広がっていく。
目に見えるほど明らかな変化はない。
だがほんの少し、陽炎のように辺りが歪んだ。
やがて砂混じりの荒野の只中に、ふっと小さな木造りの門が現れる。
気づいたディノが小さく息をのんだ。
「あれは……」
「《神遺園》の門よ。最初からここにあるの。人の目に見えないだけで」
リュミエレの声に応えるように、白い手が向こうから門を押し開く。
荒野が割り拓かれるように開いた門の間だけ景色が変わった。
――そこは荒野とはまるで違う。緑の楽園に見えた。
瑞々しい草木が生い茂り、無数の大樹が天にまで伸びている。その間を青銀色の神獣が何体も泳いでいるのを見て、ディノは思わず身を強張らせた。
彼の緊張を見てとると、門の向こうに立つ女は微笑む。
「ご心配なく。領域の中にいる神獣は、わたしの管理下にありますから」
長い緑の髪に同じ色の瞳、人形のような美貌の女だ。
門を向こうから開いた女。当然のように《神遺領域》の中に立つ彼女に、ディノは不審の目を向ける。
「あなたは……?」
「――《形骸姫》」
答えたのはリュミエレだ。彼女は笛を元通り首にかけながら説明する。
「《神遺領域》の管理者よ。一つの領域に一人いるの。人の形を模してるけど人じゃない。神との契約によって領域の中に封じられている」
リュミエレはそう言うと、女に向かって神獣の死体を指し示す。
「これでいい?」
「はい。この度はお手数をおかけしました。人のご助力に感謝を」
形骸姫は死体に向かって白い手をかざす。
直後、神獣の巨体は色のない砂塵に変じると、またたく間に門の中に吸いこまれていった。
まるで初めからなにもなかったかのような有様に、ディノは唖然とする。
「これは……」
「はぐれた神獣は放置できない。それは死体であっても同じ。彼らのいていい場所はもうそれぞれの《神遺領域》でしかないの」
リュミエレの言葉は物淋しさに満ちていた。
領域内に立つ形骸姫は、二人に向かい深々と頭を下げる。
「此度の失態、大変にご迷惑をおかけしました。どうやら他の神獣に通りすがりに穴を開けられてしまったようで……すぐに塞いだつもりでしたが、一体外に出てしまいました。わたしは領域外に出られないのでどうすべきか困り果てていましたが、おかげで助かりました」
「他の神獣? だが探査にはかからなかったが」
言ってからディノは思い当たる。最初ははぐれた神獣しか反応になかったのだ。《神遺領域》を破った別の神獣は、リュミエレの調べる範囲にかかる前に通り過ぎていったのだろう。
「どんな神獣がどちらの方角に行ったか分かる?」
「いえ。突然のことでしたので何も」
「そう」
リュミエレは深く息を吐き出す。それはつまり《神遺領域》の中にいない神獣が他にもいるということだ。彼女にとって喜ばしい話では少しもない。
リュミエレはうつむいてかぶりを振った。
「もう閉じて、行きなさい。他の誰かに見つかる前に」
《神遺領域》は、人間の世界とは交わらない。そこはあくまで、人の触れざる神域なのだ。忘れ去られた生き物たちが暮らす場所。形骸の姫が守る、不死の庭。
明確な境界線を引くリュミエレの横顔を、ディノは見つめる。
形骸姫はもう一度頭を下げた。
「どうぞ、ご武運を。あなた様に二度とお目にかからずに済みますように」
木の門が、ゆっくりと閉まっていく。それに呼応するように、緑の景色も見る間に薄らぐ。幻が掻き消えるように領域は消え失せ、後には同じ荒野だけが広がった。
なにもない枯れた荒野を見つめて、リュミエレは言う。
「……そんなの、わかってる」
その声音はまるで、冷えて傷ついているように、ディノには聞こえた。
荒野を行く旅路は、かつては孤独なものだった。
祖国が焼け落ちて一人、失意を抱えて歩いた道。
だが今は彼女と二人だ。門が消えてからずっと無言でいたリュミエレは、ようやく馬上で口を開く。
「ごめんなさい」
「なにが?」
「あなたはもっと話を聞きたかったのだろうと思って」
ディノにとっては初めての《神遺領域》だ。もっと聞きたいこともあっただろうに、手短に改稿を終えてしまったことを彼女は後悔しているのかもしれない。
薄い肩を落とすリュミエレに、彼はかぶりを振った。
「別にいい。その分、君が教えてくれるのだろう?」
「……ディノ」
「だから、平気だ」
詳しく聞かなくても察しはつく。《神遺領域》のことではなく、彼女がそれに対し、判然と御しがたい感情を抱えていることに。ディノにとって、神獣以上に謎めいているのが彼女だ。
けれどそれを知りたいと思う欲は彼にはない。それでいいのだと思う。
「愛してる」
女の囁く声。
彼女の言葉にそれ以外の意味はない。たとえ彼女の愛が人とは違うものなのだとしても。
大陸神殿の最奥に棲む女は、涙の滲む目を手の甲で擦る。
「ディノ、もし私が形骸姫だとしても、あなたを愛していていいかしら」
「形骸姫なら領域を出られないのだろう?」
当たり前のことを返して、けれどすぐにディノは、それが彼女の求めている答えではないと気づいた。あわてて言いなおす。
「君が何であっても。構わない」
彼が探しているのは彼女の真実ではない。別のものだ。
だから不安に嘆かなくてもいい。彼女との約束を必ず自分は守るのだから。
「ディノ」
リュミエレは白い手を伸ばす。
その手を、彼は取る。あの日、大陸神殿でそうして彼女を連れ出したように。
「あなたはあなたの――」
そこから先を、彼女は言わなかった。
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